予告編
私、アリシア・ヴェリタスは、聖アフェランドラ学園の生徒会室で、冷めきったダージリンティーの波紋をただじっと見つめておりました。
窓の外では、春を待つ木々が夕闇に溶け込み、完璧な静寂が室内を支配しています。本来であれば、この時間は生徒会長として一日の執務を終え、心穏やかに自分自身と向き合うはずのひととき。ですが、今、私の心にあるのは平穏などではなく、底の見えない暗い淵のような孤独だけでした。
「どうして、こんなことに……」
独りごちた声は、誰に届くこともなく高い天井に吸い込まれていきました。わたくしの手元には、王都から特別に届けられた、ひどく皺くちゃな急報が握りしめられております。何度も読み返し、指先でなぞり続けたせいで、紙面は無惨に波打っていました。そこに並ぶ活字が、冷酷な光を放ってわたくしの網膜を焼き、痛々しい事実をこれでもかと突きつけてくるのです。
王都の天才魔導士、エラーラ・ヴェリタス。
わたくしのたった一人の、この世で最も敬愛する、かけがえのない『おかあさま』。
そのおかあさまが、白昼の王都で暴漢に襲撃され、脳を食われて重症という、信じがたい凶報でした。
脳を、食われる。
文字にするだけでもおぞましい、悪夢の出来事ですわ。普通の人間であれば即死は免れない、あまりにも残酷な致命傷。ですが、急報には「重症」とだけ記されており、おかあさまの生存自体は確認されているようでした。おかあさまは常識の枠に収まらないお方です。ご自身の脳の欠損すら、何らかの魔導的、あるいは医学的な手段を用いて、論理的に補っておられるのかもしれません。わたくしを救ってくださった、あの強靭な知性が、そう簡単に潰えるはずがない。そう信じることだけが、今のわたくしを繋ぎ止める唯一の細い糸でした。
ですが、わたくしの心を最も深く抉り、冷たい孤独の底へと突き落としたのは、事件そのもの以上に、その記事の続きに記されたもう一つの名前にありました。
ナラティブ・ヴェリタス、臓器を破壊され重症。
おかあさまと共に襲撃されたという、その人物の名前。ヴェリタスの姓を名乗るその人物について、わたくしは一切の知識を持ち合わせておりません。
「ナラティブ? ……誰、ですの?」
わたくしは、誰もいない生徒会室で、冷めた紅茶に向かって問いかけました。
おかあさまの親戚でしょうか。いいえ、あの方は天涯孤独の身のはず。一番弟子でしょうか。いいえ、おかあさまは他人に何かを教えることを、この世で最も効率の悪いことだと断ずるようなお方です。
とすれば、導き出される論理的な解は、たった一つしかありません。おかあさまが、わたくしの知らないところで新たに迎えた家族、あるいは、養子。
わたくしは、エルフでありながら魔法が使えない、無能力の欠陥品です。この聖アフェランドラ学園の生徒会長としてどれほどの実績を積み、完璧な管理者として賞賛を浴びようとも、魔導の頂点を極めるおかあさまの世界には、一生足を踏み入れることができません。おかあさまは、ご自身の魔導の探求を真に理解し、共に歩むことのできる、優秀な血筋や才能を持ったナラティブという子供を、わたくしの代わりに傍に置いていたのでしょうか。
急報に記されたナラティブという名の横には、おかあさまと共に戦い、共に倒れたのだという無言の絆が透けて見えました。わたくしがこの学園で、温かい紅茶を飲みながら書類に目を通している間に、その方はおかあさまの隣で、同じ風を感じ、同じ敵に立ち向かっていた。その事実が、わたくしの胸に鋭い棘となって突き刺さるのです。
聖アフェランドラ学園の規則は絶対ですわ。
入学したその日から卒業の日まで、生徒は外界の汚れから守られるべき高貴な存在として、外部との通信を厳しく制限されます。手紙一通出すのにも何重もの検閲を通さねばならず、緊急時を除いて王都への連絡は禁じられております。
わたくしにできることは、ただ、待つことだけ。
しかし、待てど暮らせど、おかあさまからの連絡は一切ありません。重症の身であるなら、連絡どころではないのは痛いほど理解できますわ。生死の境を彷徨っているのかもしれない、苦しんでいるのかもしれない。そう思うたびに、わたくしの心は千々に乱れ、生徒会長としての仮面が剥がれ落ちそうになります。
ですが、ふとした瞬間に、冷ややかな思考が頭をよぎるのです。
入学から今日までの数年間、おかあさまからわたくしの安否を気遣う言葉は、一度としてありませんでした。わたくしがどれほど成績で首位を維持しようとも、学園のシステムを再構築して運営を円滑にしようとも、あの方からの称賛が届いたことはありません。
もしかして、おかあさまはもう、わたくしのことなどお忘れになってしまったのでしょうか。
今はそのナラティブという存在に付きっきりで、辺境の学園に幽閉されている、魔法一つ使えない娘のことなど、記憶の片隅からもこぼれ落ちてしまったのでしょうか。
「おかあさま……」
零れた呟きが、冷え切った空気の中で白く濁ります。
わたくしはただ、命の恩人であるおかあさまに、わたくしがこれほど立派に成長した姿を見ていただきたかっただけなのです。あの日、死に体だったわたくしを拾い、ヴェリタスの名を与えてくださったあの方に、「あなたの判断は間違っていなかった」と、証明したかっただけなのです。
それなのに、今のわたくしにあるのは、誰にも届かない叫びと、指先を凍えさせる急報の紙切れだけ。完璧な善性と博愛を演じ続ける生徒会長の内側で、薄暗い虚無が少しずつ、着実に、その領土を広げ始めておりました。
月日が流れるにつれ、わたくしの心に満ちていた純粋な悲しみは、じわじわと形を変え始めました。
相変わらずおかあさまからの便りはなく、王都の動向も不透明なまま。それどころか、時折耳にする噂では、おかあさまはすでに回復し、また怪しげな研究に没頭しているという話さえ聞こえてきます。ナラティブという人物も、一命を取り留め、おかあさまの助手として重宝されているのだとか。
その情報を耳にした瞬間、わたくしの中で何かが小さく音を立てて壊れました。
「お元気そうで、何より、ですわ、おかあ、さま……」
生徒会室で独り、わたくしは鏡に向かって微笑んでみました。
鏡の中に映るわたくしは、絶世の美少女と称えられる通り、透き通るような肌と完璧な造作を保っております。ですが、その青い瞳の奥に宿る光は、以前のような澄んだ水の色ではなく、凍てついた冬の海の底のような、暗く、澱んだ色をしていました。
悲しみは、いつしか「苛立ち」へと変質しておりました。
おかあさま、あなたはわたくしに名前を与え、居場所を与え、そしてこの学園に放り込んだまま。一度たりとも、わたくしの心を覗きに来てはくれませんでした。脳を食われるほどの災難に見舞われても、ナラティブという新しい玩具さえあれば、わたくしのことなどどうでもいい。そういうことですの?
わたくしはこれほどまでに、あなたを想っているというのに。
あなたが愛したこの世界を、少しでも効率よく、美しく管理しようと、眠る間も惜しんでこの学園を統治してきたというのに。
「どうして……どうしてわたくしではないのですか。どうして、その、ナラティブなのですか。……わたくしの、居場所は……もう……」
握りしめた拳が震えます。爪が手のひらに食い込み、鋭い痛みが走りました。魔法が使えないから? 論理的ではないから? あなたの知的好奇心を満たしてあげられないから?
そんな下らない理由で、わたくしという「完成された家族」を、あなたは切り捨てたのですか。
苛立ちは、わたくしが大切にしてきた「完璧な善性」すらも蝕み始めました。
廊下ですれ違う生徒たちの無邪気な笑い声が、耳障りな雑音に聞こえます。彼女たちの悩み、彼女たちの喜び、そのすべてが浅薄で、無意味なものに思えてくるのです。
「静かになさって。わたくし、今、非常に気分が優れませんの」
不意に口から出た言葉は、自分でも驚くほど冷淡で、棘を孕んでおりました。怯えたように立ち去る下級生たちの背中を見送りながら、わたくしは心の中で冷たく嘲笑いました。
ええ、そうです。わたくしは聖女などではありません。
ただ、愛に飢え、忘れ去られる恐怖に支配された、一人の醜い娘に過ぎないのです。
来月は、いよいよ聖アフェランドラ学園の卒業式です。
わたくしは生徒会長として、総代の答辞を読むことになっております。学園中が、わたくしの晴れ舞台を、そしてわたくしの門出を祝福しようと待ち構えています。
おかあさまには、ずっと前から招待状をお送りしました。
形式張った事務的な招待状ではなく、わたくしの手で、一文字一文字に祈りと呪いを込めて書いた、最後の手紙。
「アリシアの晴れ舞台なら、特等席で見届けてやるぞ」
かつて、おかあさまはそう仰いました。その言葉が、嘘ではなかったと信じるための、最後のチャンスを差し上げたのです。
ですが、今日もポストは空のまま。返信どころか、受け取ったという証言すらありません。
「おかあさま、おかあさま、おかあさま……」
暗い生徒会室で、わたくしは答辞の原稿を何度も読み返します。
内容は完璧です。博愛と希望に満ち、学園の未来を言祝ぐ、まさに聖女アリシアにふさわしい珠玉の文章。
ですが、わたくしの喉を通り抜けようとする言葉は、もっと黒く、ドロドロとした怨嗟の塊でした。
「もし、来なかったら……。もし、明日、あなたの姿がそこに座っていなかったら」
わたくしは、冷めたダージリンティーを一気に床へぶちまけました。
美しい絨毯が茶色いシミに汚れ、高貴な香りが部屋中に充満します。それを眺めながら、わたくしはかつてないほどの高揚感と、耐え難いほどの怒りに身を震わせました。
魔法が使えないからといって、わたくしを侮らないでくださいませ。
わたくしは、あなたに救われたあの日から、あなたの一番になるためだけに生きてきたのです。
ナラティブなんていう、得体の知れない存在に、わたくしの席を譲るつもりは毛頭ございませんわ。
もしあなたが明日来ないのであれば、わたくしはもう、あなたの知っている「良い子のアリシア」ではいられません。
この完璧な管理能力を、この天才的な頭脳を、あなたを困らせるためだけに、あなたの世界をめちゃくちゃにするためだけに、すべて使い果たして差し上げます。
「来月の卒業式には、おかあさまは来てくださるのでしょうか……」
一滴の涙が、手のひらの上に落ちました。
それはもう、以前のような悲しみの滴ではありません。
それは、熱く、熱く、煮え繰り返るような、憤怒と執着の結晶。
おかあさま、わたくし、最高のドレスを選んでおきましたの。
あなたの好きな青色ではなく、あえてあなたの嫌いな、鮮血のような赤を基調としたお洒落なドレス。
わたくしが答辞を読み上げる時、もしそこにあなたのハスキーな笑い声が聞こえなかったら。
その時、わたくしの中の「愛」は、完成された「破壊」へと姿を変えるでしょう。
「本当に、楽しみ、ですわ……。おかあさま」




