表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヴェリタスの最終定理2 ナラティブ・ヴェリタス  作者: Wan Liyue 王璃月
友よさらば

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

280/291

第8話:友よさらば(8)

風が、吹いていた。

王都を離れ、平原を越え、さらに西へ数千キロ。

そこは、地図上で「不毛地帯」と記される、国境の荒野だった。

赤い大地には、枯れ木のような灌木が点在し、風化して尖った岩肌が墓標のように突き出している。

空は広く、青い。だが、その青さは、王都の空のような洗練された色ではなく、生存を拒絶するような冷徹な青だった。


一人の青年が歩いていた。

ノアである。

かつて王都で「特異点」と呼ばれた少年は、数年の時を経て、逞しい青年へと成長していた。

背は伸び、肩幅は広くなり、日焼けした肌には無数の古傷が刻まれている。

身に纏っているのは、ボロボロのコートと、底の磨り減ったブーツ。腰には、護身用の旧式魔導拳銃が一丁。

彼は、流れ者だった。

ブーツが砂を踏みしめる音だけが、彼の世界のリズムだった。

彼はあれから、一度も立ち止まっていない。

王都を出て、いくつもの街を通り過ぎ、いくつもの国境を越えた。

ミイとテオドールが転生したかもしれない場所を探して……ではない。

むしろ、彼らがいない場所、彼らが平和に暮らしているであろう「光の世界」から遠ざかるように、影のある場所へと足を運んでいた。

なぜなら、彼は「記憶」を持っているからだ。

世界の罪を。人間の愚かさを。そして、愛する者たちを殺した自分の業を。

その重たい荷物を背負ったまま、幸せな彼らに近づくことは許されない気がした。

彼は、世界の影に潜む「悪意」や「無責任」を見つけ出し、それを観測し続けるだけの『巡礼者』となっていた。

日が傾きかけた頃、砂嵐の向こうに、小さな集落の影が見えてきた。

国境の宿場町。

法律よりも暴力が、貨幣よりも水が価値を持つ、掃き溜めのような街だ。


「……着いたか」


ノアはフードを深く被り直し、渇いた喉を鳴らして、街へと足を踏み入れた。

街のメインストリートには、饐えた匂いが漂っていた。

ノアは、一軒の酒場の重い扉を押し開けた。

カラン、という乾いたベルの音が、どこか懐かしい響きを持って彼を迎えた。

店内は薄暗く、昼間から飲んだくれている荒くれ者たちの視線が、一斉に新入りへと注がれる。

ノアは視線を合わせず、カウンターの隅に座った。


「水を。それと、何か食えるものを」


バーテンダーが無愛想に、濁った水の入ったグラスと、堅焼きパン、そして干し肉を放り出した。

ノアは硬貨を置き、グラスを煽った。

泥臭い水だったが、乾いた体には甘露のように染み渡る。

店内の隅にある旧式の魔導ラジオから、ノイズ混じりの放送が流れていた。

どうやら、遥か遠く、王都からの電波を拾っているらしい。


『……えー、本日の王都ニュースです。大人気アイドルグループ「マギア・キッス」の新曲がチャート1位を獲得しました!また、王立公園では新しいモニュメントの除幕式が行われ、平和と繁栄の象徴として……』


平和。繁栄。

あの日、瓦礫の山となった王都。

血の海に沈んだ広場。

それらは全て、エラーラの魔法によって「なかったこと」にされた。

人々は、自分たちが殺し合ったことも、責任をなすりつけ合ったことも忘れ、またのうのうと「平和」を謳歌している。


(……それで、いい)


ノアは思った。

それを望んだのは、僕だ。


「おい、聞いたかい? 王都の話だよ」


隣のテーブルから、しわがれた声が聞こえた。

ノアがふと視線を向けると、そこには二人の老婆が座っていた。

昼間から強い酒をあおり、紫煙をくゆらせている。

一人は、派手な布を体に巻きつけ、安っぽいガラス玉のネックレスをジャラジャラとつけた、魔女のような老婆。

もう一人は、地味な服を着て、電卓を叩きながら帳簿のようなものをチェックしている、偏屈そうな老婆。

魔女風の老婆が、パイプをふかして言った。


「ケッ!王都の連中は脳みそがお花畑だねぇ!平和?繁栄?笑わせるんじゃないよ。世界の構造ってのはね、もっとドロドロした因果律で回ってるんだ!」


帳簿をつけている老婆が、しかめっ面でツッコミを入れた。


「御託はいいから、さっさと飲み代を払いな。あんたさあ、ツケが溜まってるんだよ。世の中、金と実利が全てさ!」


ノアの手が止まった。

魔女風の老婆は、物知り顔で、どこか理屈っぽく、そして楽しげに世界を嘲笑っている。

帳簿の老婆は、現実的で、金に細かく、しかしどこか世話焼きな雰囲気を漂わせている。


(……似ている)


ノアの脳裏に、あの二人の姿が重なった。

世界最強の魔法使いエラーラと、気高き探偵ナラティブ。

もちろん、目の前にいるのは薄汚い田舎の老婆たちだ。

若く美しかったあの二人とは、似ても似つかない。

品性も、知性も、次元が違う。

けれど。

その「魂の形」のようなものが、酷似していた。

理屈をこねる女と、現実を生きる女。

凸凹コンビ。


「……フン。夢がないねぇ、守銭奴ババアは」


「なんとでも言いなさい、屁理屈ババア」


二人は罵り合っているが、そのグラスは触れ合い、互いに酒を注ぎ合っている。

そこには、長く連れ添った者同士の、奇妙な信頼関係があった。

ノアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。

懐かしさではない。

痛みだ。

置き去りにしてきた、あの温かい日々の残滓。

ノアは、残りのパンを口に押し込み、席を立った。

これ以上ここにいたら、泣き出してしまいそうだったからだ。

彼は、逃げるように酒場を出た。



その夜、ノアは宿場町の外れにある安宿に泊まった。

ベッドは硬く、シーツはザラザラしていたが、荒野の岩場よりはマシだった。

彼はコートを掛け布団代わりにして、目を閉じた。

夢を見た。

いつもの夢だ。

ガラス張りの部屋。ナイフ。白い猫。


『ノア。なかないで』


テオドールの声。

飛び散るナラティブ。

泣き叫ぶエラーラ。

そして、光の中で微笑むミイ。


「……っ」


ノアは、息を飲んで目を覚ました。

全身が冷や汗で濡れている。

窓の外は、すでに白んでいた。


その時。

乾いた破裂音が、朝の静寂を引き裂いた。

銃声だ。

しかも、近い。宿のすぐ裏手だ。

ノアは反射的にベッドから飛び起き、ブーツを履いた。

腰の魔導拳銃に手をかけ、窓から外を覗く。

宿の裏手は、ゴミ捨て場のような空き地になっていた。

そこには、数人の男たちと、追い詰められた家族の姿があった。

男たちは、いかにも「ならず者」といった風体だ。

改造された魔導ライフルや、錆びたナイフを持っている。

この街を牛耳るギャングの末端だろう。

彼らはニヤニヤと笑いながら、三人の家族を取り囲んでいた。

父親らしき男は、すでに足を撃たれて地面に倒れている。

母親らしき女は、夫をかばうように覆いかぶさり、震えている。

そして、その前に立たされているのは、まだ10歳くらいの少年だった。

少年の手には、一丁の拳銃が握らされていた。

彼の手には大きすぎる、武骨な鉄の塊。

少年はガタガタと震え、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしていた。


「さあ、やれよ!小僧!」


リーダー格の男が、タバコを吹かしながら言った。


「親父を助けたいんだろ?なら、その銃で母親を撃て。そうすりゃ、親父だけは見逃してやるよ」


「い、いやだ……できない……!」


少年が泣き叫ぶ。


「できない?じゃあ全員死ぬか?ほら、俺たちは忙しいんだ。3つ数える間に撃たなきゃ、親父の頭を吹き飛ばすぞ」


リーダーが、倒れている父親のこめかみにライフルを突きつけた。


「やめて!お金なら全部あげるから!」


母親が叫ぶ。


「金なんかいらねぇよ。俺たちは退屈してんだ。さ、選べよ小僧。お前がここを通ったのが運の尽きだ。お前が撃てば、親父は助かる。撃たなきゃ、全員死ぬ。ほら、これは算数だ」


「……!」


ノアの思考が、真っ白になった。

目の前の光景が、あの日の記憶と完全にオーバーラップする。

ガラスの部屋。


『猫を殺せば、怪物は助かる』


『やらなきゃ全員死ぬ』


『お前が選ぶんだ』


グラクターの笑い声。

エラーラの嘆き。

そして、ナイフを握った自分の震える手。


(……同じだ!)


ノアは、窓枠をきしむほど強く握りしめた。

場所が変わっても、時が流れても。

人間という生き物は、変わらない。

強者が弱者を踏みにじり、理不尽な選択を強いる。

「状況のせい」にして、「自分は悪くない」という顔で、他人の魂を壊して楽しむ。

少年の手が上がる。

銃口が、震えながら母親に向けられる。

彼の目は、極限の恐怖で焦点が合っていない。

このまま引き金を引けば、彼は一生、「母を殺した」という十字架を背負うことになる。

かつての……僕のように!


(……ふざけるな!)


ノアの中で、何かが弾けた。

彼は窓を蹴破り、二階から飛び降りた。

着地と同時に砂煙が舞う。


「なんだテメェ?」


ギャングたちが一斉に振り返る。

砂煙の中から、ノアがゆらりと立ち上がった。

ボロボロのコート。目深に被ったフード。

その隙間から覗く瞳は、荒野の獣のように鋭く、そして氷のように冷たかった。


「……何をしている」


ノアの声は低く、地を這うようだった。

リーダーの男が、鼻で笑った。


「正義の味方気取りか?よそ者が首突っ込むんじゃねぇよ。俺たちは今、教育をしてるんだ。『世の中は理不尽だ』っていう、な!」


「教育……」


「そうだ。このガキに教えてやってんだよ。生き残るためには、何かを犠牲にしなきゃならねぇってな。これは俺たちが殺すんじゃない。『状況』が殺させるんだ。俺たちはただの舞台装置さ」


グラクターと同じ理屈。

暴徒たちと同じ言い訳。

「自分は悪くない」。

その言葉を聞いた瞬間、ノアの右手にある旧式リボルバーが、まるで意志を持ったかのように唸りを上げた。


「……違うな」


ノアは一歩踏み出した。


「お前たちが殺すんだ。状況のせいじゃない。お前たちが、お前たちの醜い欲望のために、その引き金を引くんだよ!」


「あァ?説教か?殺せ!」


リーダーが合図をした。

手下たちが一斉に銃を構える。

だが、ノアは速かった。

彼の手が霞んだ。

三発の銃声が、ほぼ同時に響いた。

手下三人の手元で、ライフルが弾け飛んだ。

正確無比な射撃。彼らの武器だけを破壊し、戦闘不能にしたのだ。


「なッ……!?」


リーダーが驚愕に目を見開く。


「魔法使いか!?いや、ただの銃……!」


ノアは止まらない。

彼は疾風のように駆け出し、リーダーとの距離を一瞬で詰めた。


「ひッ……!」


リーダーは慌ててライフルをノアに向けようとした。

だが、ノアの左手がライフルの銃身を掴み、上へと逸らした。

空に向けて弾丸が発射される。

次の瞬間、ノアの右拳が、リーダーの顔面にめり込んだ。

鼻骨が砕ける鈍い音。

リーダーは地面を転がり、血まみれの顔でノアを睨みつけた。


「て、テメェ……!俺にはバックがいるんだ!殺してやる! 俺が死んだら、組織が黙っちゃいねぇぞ!」


彼は叫んだ。


「俺は悪くねぇ!上の命令だ!俺だって被害者なんだよ!」


最期まで。

こいつらは最期まで、自分の足で立とうとしない。

ノアは、倒れたリーダーの前に立ち、リボルバーの撃鉄を起こした。

冷たい金属音が、空き地に響く。


「……そうか」


ノアは、静かに言った。

感情の昂りはなかった。ただ、事務的な事実確認のように。


「なら、僕も被害者だ。お前という『害獣』に襲われた、ただの旅行者だ。……正当防衛だな」


「ま、待て! 話せば分か……」


躊躇いはなかった。

銃弾はリーダーの眉間を貫いた。

男の言葉は永遠に途切れ、その体は砂埃の中に崩れ落ちた。

残った手下たちは、腰を抜かして悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。

ノアは彼らを追わなかった。

銃口から立ち昇る硝煙が、朝の光に溶けていく。


静寂が戻った。

ノアは、リボルバーをホルスターに収めた。

そして、震えている家族の方を向いた。

少年は、まだ拳銃を握りしめたまま、呆然とノアを見上げていた。

その目には、涙が溜まっている。

母親が生きていたことへの安堵と、目の前で人が死んだことへの恐怖。

ノアは少年に近づき、膝をついて視線を合わせた。

そして、少年の手から、優しく拳銃を取り上げた。


「……撃たなくて、よかったな」


ノアの声は、驚くほど優しかった。


「君の手は、汚れていない。君は、誰も殺していない。……君は勝ったんだ」


少年が、ワッと泣き出した。

母親が駆け寄り、少年を抱きしめた。

父親も、痛む足を引きずりながら、ノアに頭を下げた。

ノアは、過去の自分を重ねた。

もし、あの日。

誰かがこうして、割って入ってくれたら。

もし、誰かが「君は悪くない」と言って、ナイフを取り上げてくれたら。

僕の人生は違っていただろうか。


(……いや)


ノアは首を振った。

それすら、他責だ。

僕『が』殺すと、選んだのだ。

記憶を残すことを。罪を背負うことを。

そして、彼らを遠くへ送ることを。

ノアは立ち上がった。

街の人々が、銃声を聞きつけて集まってくる気配がする。

長居は無用だ。


「行きな」


ノアは家族に言った。


「あ、あの!お名前を!」


母親が叫んだ。

ノアは振り返らず、コートの裾を翻した。


「……通りすがりだ」


ノアは、再び荒野を歩いていた。

太陽は高く昇り、容赦ない日差しが降り注いでいる。

ポケットの中の水晶に触れる。

冷たくて、硬い。

だが、今のノアには、それが温かく感じられた。

あの子は守れた。

あの日の僕は救えなかったけれど、今日のあの少年は、母を殺さずに済んだ。

それだけで十分だ。


現実は過酷だ。

理不尽で、暴力的で、救いがない。

魔法で全てを解決できる大賢者は、もういない。

奇跡は起きない。

だからこそ。


人間は、強くあらねばならない。


「誰かのせい」にして逃げる弱さを断ち切り、自分の足で立ち、自分の手で大切なものを守れるように。

ノアは、地平線の彼方を見つめた。

この世界のどこかに、ミイがいる。テオドールがいる。

彼らは今頃、のんびりと昼寝をしているだろうか。

美味しいご飯を食べているだろうか。

僕のことを忘れて、幸せに笑っているだろうか。


「……元気でな」


風が吹いた。

ノアの髪を揺らし、荒野の砂塵を巻き上げる。

彼は一人だ。

だが、孤独ではない。

彼の胸には、世界で一番重たい愛と、決して消えない誇りがある。

青年は、リボルバーの位置を直し、前を向いた。

その瞳は、どんな宝石よりも強く、澄んだ光を宿していた。

旅は続く。

この命ある限り、彼は歩き続けるだろう。

かつて愛した者たちが住む、この、どうしようもなく美しい世界を守るために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ