第8話:友よさらば(8)
風が、吹いていた。
王都を離れ、平原を越え、さらに西へ数千キロ。
そこは、地図上で「不毛地帯」と記される、国境の荒野だった。
赤い大地には、枯れ木のような灌木が点在し、風化して尖った岩肌が墓標のように突き出している。
空は広く、青い。だが、その青さは、王都の空のような洗練された色ではなく、生存を拒絶するような冷徹な青だった。
一人の青年が歩いていた。
ノアである。
かつて王都で「特異点」と呼ばれた少年は、数年の時を経て、逞しい青年へと成長していた。
背は伸び、肩幅は広くなり、日焼けした肌には無数の古傷が刻まれている。
身に纏っているのは、ボロボロのコートと、底の磨り減ったブーツ。腰には、護身用の旧式魔導拳銃が一丁。
彼は、流れ者だった。
ブーツが砂を踏みしめる音だけが、彼の世界のリズムだった。
彼はあれから、一度も立ち止まっていない。
王都を出て、いくつもの街を通り過ぎ、いくつもの国境を越えた。
ミイとテオドールが転生したかもしれない場所を探して……ではない。
むしろ、彼らがいない場所、彼らが平和に暮らしているであろう「光の世界」から遠ざかるように、影のある場所へと足を運んでいた。
なぜなら、彼は「記憶」を持っているからだ。
世界の罪を。人間の愚かさを。そして、愛する者たちを殺した自分の業を。
その重たい荷物を背負ったまま、幸せな彼らに近づくことは許されない気がした。
彼は、世界の影に潜む「悪意」や「無責任」を見つけ出し、それを観測し続けるだけの『巡礼者』となっていた。
日が傾きかけた頃、砂嵐の向こうに、小さな集落の影が見えてきた。
国境の宿場町。
法律よりも暴力が、貨幣よりも水が価値を持つ、掃き溜めのような街だ。
「……着いたか」
ノアはフードを深く被り直し、渇いた喉を鳴らして、街へと足を踏み入れた。
街のメインストリートには、饐えた匂いが漂っていた。
ノアは、一軒の酒場の重い扉を押し開けた。
カラン、という乾いたベルの音が、どこか懐かしい響きを持って彼を迎えた。
店内は薄暗く、昼間から飲んだくれている荒くれ者たちの視線が、一斉に新入りへと注がれる。
ノアは視線を合わせず、カウンターの隅に座った。
「水を。それと、何か食えるものを」
バーテンダーが無愛想に、濁った水の入ったグラスと、堅焼きパン、そして干し肉を放り出した。
ノアは硬貨を置き、グラスを煽った。
泥臭い水だったが、乾いた体には甘露のように染み渡る。
店内の隅にある旧式の魔導ラジオから、ノイズ混じりの放送が流れていた。
どうやら、遥か遠く、王都からの電波を拾っているらしい。
『……えー、本日の王都ニュースです。大人気アイドルグループ「マギア・キッス」の新曲がチャート1位を獲得しました!また、王立公園では新しいモニュメントの除幕式が行われ、平和と繁栄の象徴として……』
平和。繁栄。
あの日、瓦礫の山となった王都。
血の海に沈んだ広場。
それらは全て、エラーラの魔法によって「なかったこと」にされた。
人々は、自分たちが殺し合ったことも、責任をなすりつけ合ったことも忘れ、またのうのうと「平和」を謳歌している。
(……それで、いい)
ノアは思った。
それを望んだのは、僕だ。
「おい、聞いたかい? 王都の話だよ」
隣のテーブルから、しわがれた声が聞こえた。
ノアがふと視線を向けると、そこには二人の老婆が座っていた。
昼間から強い酒をあおり、紫煙をくゆらせている。
一人は、派手な布を体に巻きつけ、安っぽいガラス玉のネックレスをジャラジャラとつけた、魔女のような老婆。
もう一人は、地味な服を着て、電卓を叩きながら帳簿のようなものをチェックしている、偏屈そうな老婆。
魔女風の老婆が、パイプをふかして言った。
「ケッ!王都の連中は脳みそがお花畑だねぇ!平和?繁栄?笑わせるんじゃないよ。世界の構造ってのはね、もっとドロドロした因果律で回ってるんだ!」
帳簿をつけている老婆が、しかめっ面でツッコミを入れた。
「御託はいいから、さっさと飲み代を払いな。あんたさあ、ツケが溜まってるんだよ。世の中、金と実利が全てさ!」
ノアの手が止まった。
魔女風の老婆は、物知り顔で、どこか理屈っぽく、そして楽しげに世界を嘲笑っている。
帳簿の老婆は、現実的で、金に細かく、しかしどこか世話焼きな雰囲気を漂わせている。
(……似ている)
ノアの脳裏に、あの二人の姿が重なった。
世界最強の魔法使いエラーラと、気高き探偵ナラティブ。
もちろん、目の前にいるのは薄汚い田舎の老婆たちだ。
若く美しかったあの二人とは、似ても似つかない。
品性も、知性も、次元が違う。
けれど。
その「魂の形」のようなものが、酷似していた。
理屈をこねる女と、現実を生きる女。
凸凹コンビ。
「……フン。夢がないねぇ、守銭奴ババアは」
「なんとでも言いなさい、屁理屈ババア」
二人は罵り合っているが、そのグラスは触れ合い、互いに酒を注ぎ合っている。
そこには、長く連れ添った者同士の、奇妙な信頼関係があった。
ノアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
懐かしさではない。
痛みだ。
置き去りにしてきた、あの温かい日々の残滓。
ノアは、残りのパンを口に押し込み、席を立った。
これ以上ここにいたら、泣き出してしまいそうだったからだ。
彼は、逃げるように酒場を出た。
その夜、ノアは宿場町の外れにある安宿に泊まった。
ベッドは硬く、シーツはザラザラしていたが、荒野の岩場よりはマシだった。
彼はコートを掛け布団代わりにして、目を閉じた。
夢を見た。
いつもの夢だ。
ガラス張りの部屋。ナイフ。白い猫。
『ノア。なかないで』
テオドールの声。
飛び散るナラティブ。
泣き叫ぶエラーラ。
そして、光の中で微笑むミイ。
「……っ」
ノアは、息を飲んで目を覚ました。
全身が冷や汗で濡れている。
窓の外は、すでに白んでいた。
その時。
乾いた破裂音が、朝の静寂を引き裂いた。
銃声だ。
しかも、近い。宿のすぐ裏手だ。
ノアは反射的にベッドから飛び起き、ブーツを履いた。
腰の魔導拳銃に手をかけ、窓から外を覗く。
宿の裏手は、ゴミ捨て場のような空き地になっていた。
そこには、数人の男たちと、追い詰められた家族の姿があった。
男たちは、いかにも「ならず者」といった風体だ。
改造された魔導ライフルや、錆びたナイフを持っている。
この街を牛耳るギャングの末端だろう。
彼らはニヤニヤと笑いながら、三人の家族を取り囲んでいた。
父親らしき男は、すでに足を撃たれて地面に倒れている。
母親らしき女は、夫をかばうように覆いかぶさり、震えている。
そして、その前に立たされているのは、まだ10歳くらいの少年だった。
少年の手には、一丁の拳銃が握らされていた。
彼の手には大きすぎる、武骨な鉄の塊。
少年はガタガタと震え、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
「さあ、やれよ!小僧!」
リーダー格の男が、タバコを吹かしながら言った。
「親父を助けたいんだろ?なら、その銃で母親を撃て。そうすりゃ、親父だけは見逃してやるよ」
「い、いやだ……できない……!」
少年が泣き叫ぶ。
「できない?じゃあ全員死ぬか?ほら、俺たちは忙しいんだ。3つ数える間に撃たなきゃ、親父の頭を吹き飛ばすぞ」
リーダーが、倒れている父親のこめかみにライフルを突きつけた。
「やめて!お金なら全部あげるから!」
母親が叫ぶ。
「金なんかいらねぇよ。俺たちは退屈してんだ。さ、選べよ小僧。お前がここを通ったのが運の尽きだ。お前が撃てば、親父は助かる。撃たなきゃ、全員死ぬ。ほら、これは算数だ」
「……!」
ノアの思考が、真っ白になった。
目の前の光景が、あの日の記憶と完全にオーバーラップする。
ガラスの部屋。
『猫を殺せば、怪物は助かる』
『やらなきゃ全員死ぬ』
『お前が選ぶんだ』
グラクターの笑い声。
エラーラの嘆き。
そして、ナイフを握った自分の震える手。
(……同じだ!)
ノアは、窓枠をきしむほど強く握りしめた。
場所が変わっても、時が流れても。
人間という生き物は、変わらない。
強者が弱者を踏みにじり、理不尽な選択を強いる。
「状況のせい」にして、「自分は悪くない」という顔で、他人の魂を壊して楽しむ。
少年の手が上がる。
銃口が、震えながら母親に向けられる。
彼の目は、極限の恐怖で焦点が合っていない。
このまま引き金を引けば、彼は一生、「母を殺した」という十字架を背負うことになる。
かつての……僕のように!
(……ふざけるな!)
ノアの中で、何かが弾けた。
彼は窓を蹴破り、二階から飛び降りた。
着地と同時に砂煙が舞う。
「なんだテメェ?」
ギャングたちが一斉に振り返る。
砂煙の中から、ノアがゆらりと立ち上がった。
ボロボロのコート。目深に被ったフード。
その隙間から覗く瞳は、荒野の獣のように鋭く、そして氷のように冷たかった。
「……何をしている」
ノアの声は低く、地を這うようだった。
リーダーの男が、鼻で笑った。
「正義の味方気取りか?よそ者が首突っ込むんじゃねぇよ。俺たちは今、教育をしてるんだ。『世の中は理不尽だ』っていう、な!」
「教育……」
「そうだ。このガキに教えてやってんだよ。生き残るためには、何かを犠牲にしなきゃならねぇってな。これは俺たちが殺すんじゃない。『状況』が殺させるんだ。俺たちはただの舞台装置さ」
グラクターと同じ理屈。
暴徒たちと同じ言い訳。
「自分は悪くない」。
その言葉を聞いた瞬間、ノアの右手にある旧式リボルバーが、まるで意志を持ったかのように唸りを上げた。
「……違うな」
ノアは一歩踏み出した。
「お前たちが殺すんだ。状況のせいじゃない。お前たちが、お前たちの醜い欲望のために、その引き金を引くんだよ!」
「あァ?説教か?殺せ!」
リーダーが合図をした。
手下たちが一斉に銃を構える。
だが、ノアは速かった。
彼の手が霞んだ。
三発の銃声が、ほぼ同時に響いた。
手下三人の手元で、ライフルが弾け飛んだ。
正確無比な射撃。彼らの武器だけを破壊し、戦闘不能にしたのだ。
「なッ……!?」
リーダーが驚愕に目を見開く。
「魔法使いか!?いや、ただの銃……!」
ノアは止まらない。
彼は疾風のように駆け出し、リーダーとの距離を一瞬で詰めた。
「ひッ……!」
リーダーは慌ててライフルをノアに向けようとした。
だが、ノアの左手がライフルの銃身を掴み、上へと逸らした。
空に向けて弾丸が発射される。
次の瞬間、ノアの右拳が、リーダーの顔面にめり込んだ。
鼻骨が砕ける鈍い音。
リーダーは地面を転がり、血まみれの顔でノアを睨みつけた。
「て、テメェ……!俺にはバックがいるんだ!殺してやる! 俺が死んだら、組織が黙っちゃいねぇぞ!」
彼は叫んだ。
「俺は悪くねぇ!上の命令だ!俺だって被害者なんだよ!」
最期まで。
こいつらは最期まで、自分の足で立とうとしない。
ノアは、倒れたリーダーの前に立ち、リボルバーの撃鉄を起こした。
冷たい金属音が、空き地に響く。
「……そうか」
ノアは、静かに言った。
感情の昂りはなかった。ただ、事務的な事実確認のように。
「なら、僕も被害者だ。お前という『害獣』に襲われた、ただの旅行者だ。……正当防衛だな」
「ま、待て! 話せば分か……」
躊躇いはなかった。
銃弾はリーダーの眉間を貫いた。
男の言葉は永遠に途切れ、その体は砂埃の中に崩れ落ちた。
残った手下たちは、腰を抜かして悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
ノアは彼らを追わなかった。
銃口から立ち昇る硝煙が、朝の光に溶けていく。
静寂が戻った。
ノアは、リボルバーをホルスターに収めた。
そして、震えている家族の方を向いた。
少年は、まだ拳銃を握りしめたまま、呆然とノアを見上げていた。
その目には、涙が溜まっている。
母親が生きていたことへの安堵と、目の前で人が死んだことへの恐怖。
ノアは少年に近づき、膝をついて視線を合わせた。
そして、少年の手から、優しく拳銃を取り上げた。
「……撃たなくて、よかったな」
ノアの声は、驚くほど優しかった。
「君の手は、汚れていない。君は、誰も殺していない。……君は勝ったんだ」
少年が、ワッと泣き出した。
母親が駆け寄り、少年を抱きしめた。
父親も、痛む足を引きずりながら、ノアに頭を下げた。
ノアは、過去の自分を重ねた。
もし、あの日。
誰かがこうして、割って入ってくれたら。
もし、誰かが「君は悪くない」と言って、ナイフを取り上げてくれたら。
僕の人生は違っていただろうか。
(……いや)
ノアは首を振った。
それすら、他責だ。
僕『が』殺すと、選んだのだ。
記憶を残すことを。罪を背負うことを。
そして、彼らを遠くへ送ることを。
ノアは立ち上がった。
街の人々が、銃声を聞きつけて集まってくる気配がする。
長居は無用だ。
「行きな」
ノアは家族に言った。
「あ、あの!お名前を!」
母親が叫んだ。
ノアは振り返らず、コートの裾を翻した。
「……通りすがりだ」
ノアは、再び荒野を歩いていた。
太陽は高く昇り、容赦ない日差しが降り注いでいる。
ポケットの中の水晶に触れる。
冷たくて、硬い。
だが、今のノアには、それが温かく感じられた。
あの子は守れた。
あの日の僕は救えなかったけれど、今日のあの少年は、母を殺さずに済んだ。
それだけで十分だ。
現実は過酷だ。
理不尽で、暴力的で、救いがない。
魔法で全てを解決できる大賢者は、もういない。
奇跡は起きない。
だからこそ。
人間は、強くあらねばならない。
「誰かのせい」にして逃げる弱さを断ち切り、自分の足で立ち、自分の手で大切なものを守れるように。
ノアは、地平線の彼方を見つめた。
この世界のどこかに、ミイがいる。テオドールがいる。
彼らは今頃、のんびりと昼寝をしているだろうか。
美味しいご飯を食べているだろうか。
僕のことを忘れて、幸せに笑っているだろうか。
「……元気でな」
風が吹いた。
ノアの髪を揺らし、荒野の砂塵を巻き上げる。
彼は一人だ。
だが、孤独ではない。
彼の胸には、世界で一番重たい愛と、決して消えない誇りがある。
青年は、リボルバーの位置を直し、前を向いた。
その瞳は、どんな宝石よりも強く、澄んだ光を宿していた。
旅は続く。
この命ある限り、彼は歩き続けるだろう。
かつて愛した者たちが住む、この、どうしようもなく美しい世界を守るために。




