第5話:過去の未来が自分です(5)
地下室のゲート前。
タカシは、勝ち誇った顔で操作パネルに手を触れた。
「次は俺の番だ。俺はもっと上手くやるぞ。18歳に戻ったら、今の知識で株を買い占めて……」
ゲートが、気の抜けた音を立てて停止した。
赤い警告灯が明滅する。
『ERROR:対象を認識できません』
『ERROR:因果律コードが存在しません』
「あ?なんだこれ?故障か?」
タカシは計器を叩いた。
「おいエラーラ!どうなってんだ!早く動かせよ!俺はVIPだぞ!」
タカシは振り返った。
そこには、エラーラが立っていた。
だが、彼女の様子がおかしい。
彼女は、焦点の合わない目で、タカシを見ていた。
「……き、君は……誰だ?」
「は?」
タカシは耳を疑った。
「ふざけんな!俺だよ!学会の、財務統括本部長のタカシだ!」
「……ざ、財務統括本部長?……学会の?」
エラーラは、心底不思議そうに首を傾げた。
「何を言っているんだ?学会の財務は、長年空席のままだ。現在は自動演算システムが管理している。……君のような品のない男が、私の神聖なラボにいること自体が不快だ。出て行きたまえ」
「な……ッ!?」
タカシは戦慄した。
演技ではない。エラーラの瞳には、タカシという存在の記憶が「最初からなかった」かのような、完全な無関心しかなかった。
「おい!ナラティブ!お前、分かるよな!俺だぞ!お前のフィアンセの……」
ナラは、壁に寄りかかり、腕を組んでじっとタカシを見ていた。
その瞳だけは、はっきりとタカシを認識していた。
だが、そこにあるのは同情ではなく、残酷なほどの「観察者」の目だった。
「……あーあ。なるほどね」
ナラは、タカシには答えず、独り言のように呟いた。
「あんた、もう『存在しない』のよ。親父さんが歴史を変えたから、あんたは生まれなかったことになった。……ここは『地球』?ってところからすると異世界だから、タイムラグで肉体だけが残ってるけど。世界はもう、あんたの居場所を削除しちゃったのよ」
「わ、わけわかんねぇこと言ってんじゃねぇ!」
タカシは、エラーラの胸ぐらを掴もうとした。
その瞬間。
タカシの手が、エラーラの身体をすり抜けた。
まるで、霧を掴んだかのように。
「……え?」
エラーラは、何も気づかずに踵を返した。
「なんだ!?……奇妙な風が吹いたな。換気扇の故障か?」
彼女は、目の前にいるタカシを「認識」すらしていなかった。
視界には入っているはずなのに、脳が「そこに誰もいない」と処理してしまうのだ。
「う、うわぁぁぁぁぁッ!?」
タカシは悲鳴を上げて、地下室から逃げ出した。
地獄が始まった。
2日目。
タカシは王都を彷徨っていた。
彼の存在は、点滅する電球のようになっていた。
通りを歩いていると、すれ違う人々が彼を避けることもある。
だが次の瞬間、魔導車が彼を無視して突っ込んでくる。
「危ねぇ!」と叫んでも、魔導車はタカシの身体をそのまま通過していく。
衝突の衝撃はない。ただ、冷たい風が内臓を通り抜けるような、気色の悪い感覚だけが残る。
食事もできなかった。
屋台でパンを買おうとしても、店主はタカシの声が聞こえない。
金を置こうとしても、硬貨がタカシの手をすり抜けて地面に落ちる。
あるいは、パンを掴んだ瞬間に、パンがタカシの手を透過して落ちる。
「腹減った……何なんだよ、これ……!俺はここにいるだろ!剣崎タカシだぞ!金持ちだぞ!誰か俺を見ろよ!」
彼は、王都の広場で叫んだ。
数千人の群衆がいる。だが、誰も彼を見ない。
まるで、最初からそこに空間などなかったかのように、彼の立ち位置を歩行者が横切っていく。
彼は幽霊になったのではない。
「エラー・データ」になったのだ。
5日目。
異変は、劇的な苦痛へと変わった。
「ギャアアアアアアッ!!」
朝、目覚めたタカシを襲ったのは、全身を万力で締め上げられるような激痛だった。
皮膚が焼けるように熱い。
骨がきしむ。
血管の中を、酸が流れているようだ。
それは、「世界の免疫作用」だった。
世界という巨大な有機体にとって、「存在しないはずの物質」は、ウイルスや癌細胞と同じだ。
世界は、自己の整合性を保つために、異物であるタカシを排除しようと攻撃を始めたのだ。
「い、痛い……!痛い痛い痛い!誰か! 医者! 医者を呼んでくれ!」
タカシは、激痛にのたうち回りながら、這うようにして王都総合病院へ向かった。
病院の待合室。
タカシは、受付のカウンターにしがみついた。
「た、助けてくれ……!金ならある!全身が……焼けるように痛いんだ!」
受付の看護師が、ふと顔を上げた。
一瞬、彼女の目にタカシが映ったようだった。
「……はい? どちら様ですか?」
「タカシだ!患者だ!早く痛み止めを打ってくれ!」
「……?」
看護師は困惑しながらカルテを探すが、当然、彼の記録はない。
その間にも、タカシの体は点滅を繰り返していた。
看護師が目を離した隙に、タカシの姿が「認識の外」へ消える。
「あれ? ……今、誰かいましたっけ?」
看護師は首を傾げ、業務に戻った。
「いるだろここに!ふざけんな!俺を見ろ!」
タカシは暴れて、診察室へ勝手に押し入った。
中では、医師が別の患者を診察していた。
「先生!助けてくれ!死ぬ!痛いんだよ!」
医師が振り返る。
医師の目には、タカシの姿が一瞬だけ映り、そして次の瞬間、脳がそれを「ノイズ」として処理した。
「……なんだ? ドアが勝手に開いたぞ」
「先生!俺だ!ここにいる!」
タカシが医師の腕を掴む。
だが、その手は医師の白衣をすり抜け、半透明になっていた。
「うわっ!?なんだこの寒気は!」
医師は身震いした。
そして、タカシの方を見たが、焦点が合わない。
「……警備員!不審な気配がする!誰か隠れているかもしれん!つまみ出せ!」
「違う! 俺は患者だ!治療してくれよ!金なら払うから!」
警備のオークたちが駆け込んできた。
彼らは、鼻をひくつかせた。
「……臭うぞ。腐った肉の臭いがする」
オークの一人が、タカシがいる空間に向かって警棒を振り回した。
警棒はタカシの肩に命中した。
「認識」されなくても、「物理的な排除力」だけは作用したのだ。
「ギャッ!」
「手応えがあったぞ!透明人間か?」
「不法侵入者だ!叩き出せ!」
見えない敵として、タカシは袋叩きにされた。
痛み。屈辱。そして絶望。
彼は、病院の裏口からゴミのように放り出された。
泥水の中に突っ伏しながら、彼は泣いた。
「なんでだよ……。俺は客だぞ……。なんで誰も、俺を助けてくれないんだ……」
その様子を、路地裏の屋根の上から見下ろしている二人の影があった。
エラーラ・ヴェリタスと、ナラティブ・ヴェリタスだ。
エラーラは、タカシの方を見ているが、眉をひそめている。
「……ナラ君?君はさっきから、そこの『何もない空間』を見て、いったい何をブツブツ言っているんだ?そこには、泥と生ゴミしかないじゃないか」
ナラは、淡々と言った。
「お母様には見えないのね。……あそこに、タカシがいるのよ」
「タカシ?誰だねそれは」
エラーラは本気で怪訝な顔をした。
「……ああ。お母様は『大賢者』だもんね」
ナラは、残酷な真理を悟っていた。
この世界において、「魔力」とは「世界への理解度」とほぼ同義だ。
魔力が高い人間ほど、この世界の物理法則や因果律を深く理解し、それと同調している。
だからこそ、エラーラのような高位の魔導師は、世界が「存在しない」と定義したエラーデータを、脳が自動的に補正し、削除してしまうのだ。
彼女にとって、タカシは「認識してはいけないないバグ」なのだ。
対して、ナラは魔力が低い。
彼女は論理ではなく、野生の勘と暴力で生きている。
だからこそ、世界のロジックから外れた「バグ」を、そのままの形で見ることができる。
「……皮肉なもんね」
ナラは呟いた。
「あんたがバカにした『学のない人間』だけが、今のあんたを認識できるなんて」
「ナラ君、帰ろう。ここにいると、頭痛がする。世界のマナが乱れているようだ」
エラーラは、タカシを避けて歩き出した。
ナラは、最後にもう一度だけ、泥にまみれて痙攣するタカシを見た。
「……さよなら。もう、確実に助からないわ、あれは。世界の白血球に食い殺されるウイルスと同じよ……」
ナラは、冷徹に背を向けた。
7日目。
タカシは、スラム街の奥深く、ゴミ捨て場の陰にうずくまっていた。
もう、立ち上がることもできなかった。
身体の崩壊は、最終段階に入っていた。
「……あ、あ……」
彼が自分の手を見ると、指先が蝋のように溶け始めていた。
皮膚の境界線が曖昧になり、半透明のゼリー状になっている。
そこから、血ではなく、ノイズのような黒い霧が漏れ出している。
「俺の……時計…」
左手首を見る。
自慢の高級時計は、溶けた手首をすり抜けて、地面に落ちていた。
拾おうとするが、指がない。
「い、痛く……ない……?」
痛覚すらも、バグり始めていた。
内臓が熱い。
腹を見ると、高級スーツが溶け、腹部の皮膚が裂けていた。
中から、ドロドロに溶けた内臓のようなものが流れ出している。
だが、それは地面に落ちる前に、光の粒子となって空気に還っていく。
「あは……あはは……」
タカシの意識が、混濁し始めた。
身体が溶けて、壊れていく。
恐怖はついに限界を超え、脳が現実逃避を始めたのだ。
タカシは、溶けた口で呟いた。
「……直さなきゃ……ボディを……まだなんだ……。六本木の……店に……予約を……」
彼は、ゴミの山を、かつての栄光の六本木だと思い込んでいた。
目の前を走るネズミが、ボディコンの女に見えた。
「おい、姉ちゃん……。俺は剣崎だぞ……。金ならある……。タクシー呼んでくれ……」
タカシは、半透明になった腕を上げた。
だが、その腕は肩から先が崩れ落ちた。
彼の体は、急速に輪郭を失っていった。
顔半分が溶け落ち、眼球が一つ、ポロリと落ちて消滅した。
残った口だけが、壊れたレコードのように言葉を紡ぎ続ける。
「……クルマ……俺の……修理……まだ……?」
それが、最後の言葉だった。
乾いた音がして、剣崎タカシだったモノは、弾けるように消滅した。
肉片も、骨も、衣服も残らない。
ただ、その空間に漂っていた「異物感」だけが、フッと消えた。
世界は、正常な状態に戻った。
バグは修正された。
免疫作用は完了した。
スラムのゴミ捨て場には、彼が落とした高級時計だけが転がっていた。
通りかかった浮浪者が、それを拾い上げた。
「お?なんだこれ。おもちゃか?」
浮浪者は、興味なさそうに高級時計を放り投げた。
時計は、汚水の中に沈んでいった。
タカシが存在しない世界では、彼が持っていたブランド品さえも、価値のないガラクタとして処理されるのだ。
王立魔導学会。
財務統括本部長室は、もぬけの殻だった。
そこにあった悪趣味な金色の壁紙も、調度品も、いつの間にか消えていた。
歴史の修正力は、タカシが行った「改悪」すらも徐々に塗り替え、学会を本来あるべき姿へと戻していった。
獣病院の二階。探偵事務所。
ナラは、窓辺で紅茶を飲んでいた。
「……消えたわね」
彼女には分かった。
あの不快なノイズが、世界から完全に消失したことを。
「お母様。今日の夕飯、奮発しましょうか。なんか、スッキリしたから」
研究室から出てきたエラーラは、不思議そうな顔をした。
「何かいいことでもあったのかい?まあいい。……ところでナラ君よ。『タカシ』という言葉が、さっきから頭に浮かぶんだが。これは何かの魔導用語だったか?」
ナラは、カップを置き、ニカっと笑った。
「いいえ。ただの『昔の流行り病』の名前よ。もう根絶されたから、忘れていいわ」
「そうか。ならいい」
エラーラは興味を失い、再び研究に戻っていった。
世界は、正しいロジックで回り続ける。
そこには、学もなく、力もなく、愛も知らなかった黄金の豚の居場所は、最初から1ミリたりとも用意されていなかったのだ。




