第1話:派遣される最強の奴隷(1)
仕事に向かう探偵ナラティブ・ヴェリタスの前に、一人の男が飛び出した。
「あ、あのっ! ナラティブさん!」
現れたのは、近所のパン屋でアルバイトをしている青年、ジンタだった。
彼はひどく痩せており、風が吹けば飛びそうなほど頼りない。
顔は真っ赤で、手には安っぽい包装紙に包まれた小さな箱を握りしめている。
「……あら、ジンタじゃない。朝からどうしたの?」
ナラは、少しだけ足を止めた。
彼女は基本的に男が苦手だが、こういう「ひ弱な小動物」には、少しだけ寛容だ。
「これ……その、今日、焼けたパンの余りで作ったラスクなんですけど……。ナラティブさん、いつも忙しそうだから……糖分補給にと思って……!」
ジンタは震える手で箱を差し出した。
彼はナラに恋をしている。
だが、それは高嶺の花を崇めるような、決して触れようとはしない聖なる片思いだった。
「あら、気が利くわね。ありがとう、貰っておくわ」
ナラは箱を受け取り、颯爽と歩き出した。
ジンタはその後ろ姿を、拝むように見送っていた。
「あぁ……今日も素敵だ……。強く気高く、僕なんか視界の端にも映らない……。それでいいんだ……」
ジンタの純粋すぎる好意は、ナラにとって朝の清涼剤のようなものだった。
・・・・・・・・・・
場所は変わり、王都の一等地にある高級ホテル『ロイヤル・クラウン』。
その最上階、VIPスイートルーム。
ナラは、部屋の隅で直立不動の姿勢をとっていた。
依頼内容は「VIPの警備」。
報酬は日当3万クレスト。
ただ立っているだけでいいという、破格の条件だった。
ナラは鉄扇を弄びながら、部屋の中央で行われている商談に耳を傾けた。
そこには、三人の男がいた。
一人目は、この部屋の主である豚男爵。
丸々と太った体に宝石をジャラジャラとつけ、脂ぎった顔でソファに沈み込んでいる成金だ。
二人目は、今回の仕事をナラティブに仲介した男、ゴンダ。
女衒気質の詐欺師で、揉み手をしながら男爵に媚びている。
三人目は、作業服を着た手配師、ヒルメ。
彼は以前、ナラに車の修理を依頼しようとして断られた因縁がある。
「へへへ……男爵様。あそこにいるのが、例の『商品』です」
ゴンダが、ナラを指差して言った。
しかし、次の瞬間。
ゴンダの口から飛び出した言葉は、ナラの鼓膜を疑わせるものだった。
「あいつ、今夜一晩、どうです?お値段は1,000,000クレストで」
ナラの眉がピクリと動く。
すると今度は、ヒルメが男爵の反対側の耳元で囁いた。
「男爵。俺に800,000クレスト払ってくれれば、旦那の故障した魔導装甲車をあいつに修理させます。ついでに、邪魔なライバル組織の壊滅も『タダ』でやらせますよ」
(……はぁ?)
ナラの目が座った。
豚男爵は、欲望にまみれた目でナラを舐め回した。
「つまり、あの極上の女を抱けて、しかも車も直って、殺しの仕事までしてくれると?それが締めて1,800,000クレストか!安い!安すぎる!」
「へへへ、そうでしょ?本人には俺たちから小遣いを渡しておくんで、男爵様は1クレストも払わなくていいです!」
「あいつは道具ですから。使い潰してください!」
ゴンダとヒルメは、顔を見合わせてニタリと笑った。
彼らの頭の中で、計算式が弾け飛ぶ。
売上180万クレスト、人件費3万クレスト、純利益177万クレスト、中抜き率98.3%。
当事者であるナラの意思など、1ミリも介在しない。
彼らにとってナラは、「勝手に動く便利な人形」であり、「錬金術の道具」でしかなかった。
契約は成立したかに見えた。
だが、ここで外道特有の醜い争いが勃発した。
男爵が小切手を切ろうとした瞬間、ゴンダとヒルメが小声で揉め始めたのだ。
「おいヒルメ!あの女を見つけたのは俺だぞ!俺がマージンの7割をもらう権利がある!」
「ふざけんなゴンダ!俺は労働力と技術力という付加価値をつけて売るんだ。俺が6割だ!」
二人は罵り合いを始めた。
「じゃあこうしよう。ナラティブに車を修理させて、その作業中に男爵に襲わせる。これなら両取りだ」
「バカか!車と人材とクライアントの商品価値が下がるだろ!」
彼らの会話には、「労働者の人権」や「正当な報酬」という概念が完全に欠落していた。
あるのは、「いかに従業員を騙して安く使い、自分たちの懐を温めるか」という、たいへん「合理的」な性根だけ。
豚男爵は、そんな二人のやり取りも知らず、ニタニタ笑いながらナラに近づいてきた。
「おいガキ。お前を買った。まずは庭にある魔導車を直せ。それが終わったら風呂に入って寝室に来い。安心しろ、金は全て彼らに払った」
男爵の手が、ナラの肩に伸びる。
ナラは、男爵の手が触れる直前で、一歩下がった。
そして、鉄扇を「パチン」と閉じた。
その音は小さかったが、部屋の空気を一変させるほど冷ややかだった。
「何の話?あたしは警備よ?それは業務に含まれていないわ。」
ナラは踵を返した。
ゴンダとヒルメへの説教もしない。
男爵への弁明もしない。
ただ、出口へと歩き出した。
その行動に、ゴンダとヒルメが慌てた。
ドル箱が勝手に歩いて出て行こうとしているのだ。
「お、おい待て!ナラティブ!」
ゴンダが立ちふさがる。
ヒルメもドスを抜き、ナラの喉元に突きつけた。
「俺らのメンツを潰す気か!男爵に恥をかかせたら、ただじゃ済まねえぞ!シャブ漬けにして、海浜サブロクのヒミズ湾に沈めるぞ!あそこに落ちたらまず助からねえ!なぜなら……」
通常なら、ここでか弱き市民は泣き崩れるか、脅しに屈する。
だが、ナラティブ・ヴェリタスは探偵の姿をした「蛮族」である。
彼女は、ドスを突きつけるヒルメを、見もしなかった。
ただ、歩いた。
ヒルメの横を、まるでそこに誰もいないかのように、通り過ぎようとした。
「なっ……!?」
ヒルメは、ドスを突き出そうとした。
刺してやる。足を刺して動けなくしてやる。
そう思った。
だが、体が動かなかった。
ヒルメの脳が「刺せ」と命令しているのに、指一本動かない。
ナラティブから放たれる、目に見えない圧力。
それは殺気ですらなかった。
「道端の石ころを避ける」程度の、無関心。
「お前如きには無理」という、圧倒的な格の違い。
もし今、このドスを1ミリでも動かせば。
自分の首が飛ぶ。
心臓が止まる。
細胞の一つ一つがそう理解し、生存本能が強制的に体の機能をロックしたのだ。
ゴンダも同じだった。
ナラティブの背中を見送ることしかできなかった。
声を出すことさえ、死に直結する気がした。
ナラティブは、暴力すら振るわず、ただその「存在感」だけで、この理不尽な商談を粉砕して帰宅した。
部屋に残されたのは、静寂と、そして男爵の爆発だった。
「ふ、ふざけるなァァァァッ!!」
豚男爵がテーブルをひっくり返した。
「金返せ!1,800,000クレスト!今すぐだ!俺に恥をかかせやがって!女も逃げた!車も直らない!どう落とし前つけるつもりだ!」
ゴンダとヒルメは、金縛りが解けた途端、青ざめた。
金はすでに、コンカフェ「ぷにぷにファクトリー」で全額使い込んでいる。返せるわけがない。
このままでは、自分たちが殺されて海に沈められる。
「ま、待ってください男爵!」
ゴンダが必死に叫んだ。
「あいつ……逃げやがりましたが、居場所は割れてます!」
「そうだ!あいつ、確か『ヴェリタス』って名乗ってました!」
ヒルメが悪知恵を働かせる。
「ヴェリタス……あの、エラーラ・ヴェリタスの娘です!」
その瞬間、外道たちの脳内で、悪魔的な転換が起きた。
暴力で勝てないなら。
逃げられたなら。
「社会」を使って殺せばいい。
ゴンダの目が、いやらしく細められた。
「男爵!これはチャンスですよ。相手は有名人の身内だ。スキャンダルを一番嫌う。『娘が詐欺を働いた』『契約を反故にした』『金を巻き上げた』と騒ぎ立てれば……」
ヒルメもニヤリと笑った。
「賠償金が取れます。180万どころじゃない。5000万……いや、100,000,000クレストはむしり取れる!」
彼らは、ナラティブを「物理的な敵」から「金ヅル」へと再定義した。
自分たちが嘘をついて売ろうとした事実は棚に上げ、「ナラティブが契約を破ったせいで損害が出た」という、被害者ポジションを捏造し始めたのだ。
「男爵。弁護士を連れて行きましょう!……獣病院へ」
数時間後。
獣病院のリビング。
ナラは、ようやく落ち着いてコーヒーを飲んでいた。
「あーあ。結局タダ働きだったわ。ジンタのくれたラスクだけが救いね」
そこへ、インターホンが鳴った。
モニターには、スーツに着替えたゴンダとヒルメ、そしてニヤニヤ笑う豚男爵と、弁護士バッジをつけた男が映っていた。
ナラティブが舌打ちをしてドアを開けると、彼らはドカドカと上がり込んできた。
奥から、騒ぎを聞きつけたエラーラも顔を出す。
「おや、賑やかだね。宗教の勧誘かね?」
ゴンダが進み出た。
彼は、ホテルでの脅し文句とは打って変わって、慇懃無礼な態度でエラーラに頭を下げた。
「突然申し訳ありません、ヴェリタス様。我々は、お宅の娘さん……ナラティブさんの件で参りました」
「ナラ君の?」
ゴンダは、芝居がかった口調で言った。
「実は、ナラティブさんは本日、こちらの男爵様と『業務委託契約』を結びました。しかしですね、彼女は現場を放置し、逃亡しました。そのせいで、男爵様は精神的ショックを受け、重要な商談もパーになりました」
弁護士が、分厚い書類をテーブルに置いた。
「これより、『債務不履行』および『信用毀損』に基づく損害賠償を請求します。請求額は、男爵様の精神的慰謝料、および我々の仲介手数料の逸失利益を含め……80,000,000クレストです」
「はぁ!?」
ナラが叫んだ。
「何言ってんのよ!契約なんてしてないわよ!アンタたちが勝手にあたしを売ろうとしたんでしょ!人身売買よ!」
ヒルメが、悲しそうな顔で首を振った。
「ひどいなぁ、ナラティブさん。あなたは確かに現場に来た。そして『(警備の)仕事をする』と頷いたじゃないですか。男爵様も見てますよね?」
「うむ!見たぞ!約束したのに逃げた!おかげでワシの心は傷ついた!誠意を見せろ!」
男爵が、被害者面で吠える。
これは「言った言わない」の水掛け論ではない。
彼らの狙いは、裁判に勝つことではない。
「スキャンダル」を武器にした恐喝だ。
つまり……
「まさか、天下の英雄!……の、エラーラ・ヴェリタス様が、娘の不始末で一般市民を泣き寝入りさせるんですか?」
「払わないなら、週刊誌に売りますよ?『英雄の娘、結婚詐欺と寸借詐欺で訴えられる』ってね」
「ま、裁判なんて大ごとにはしたくないでしょう?私達は詐欺師や極道ではない。……そうですね。ここで示談金を払えば、全て水に流しますよ。……50,000,000クレストで、手を打ちましょうか?」
……こういうことを言い出す。
ナラは、鉄扇をギリギリと握りしめた。
ここで彼らを殴れば、相手の思う壺だ。
「暴力探偵、市民を暴行」という記事が出る。
最強の武力を持つ彼女だが、この「社会」という名の粘着質な蜘蛛の巣の中では、身動きが取れない。
エラーラは、静かに電卓を叩き始めた。
「フム……。つまり君たちの要求は、ナラ君という金融商品、を用いた交際斡旋、という人材派遣、の失敗を巡る存在しない契約に基づいた架空請求……そうか!君たちの正体はは、特殊詐欺屋さんか!」
「言葉が過ぎますな!我々はただ、『誠意』を見せろと言ってるんです!」




