第4話:愛の当事者(4)
●前作「一般的な観察」の回答篇
ライラとレティシアが去った後の、静まり返ったスイートルーム。
エラーラは車椅子の上で、包帯の圧迫感に不満を漏らしながら、死んだような目をしていた。
「……フム。ナラ君。私は……『未婚』というパラメータが、これほど生物としての欠陥を意味するとは……想定していなかったよ」
「やかましいわね?マカロンの味がしなくなるから黙ってて」
ナラティブは、不機嫌そうに足を組み、鉄扇でパタパタと顔を扇いでいた。
「動物としてのルールを忘れた賢者」。ライラの捨て台詞が、二人の胸に重くのしかかっていた。
その、お通夜のような空気をぶち壊したのは、またしても乱暴に開かれたドア……いや、爆音だった。
ドアが物理的に蹴破られる音と共に、耳をつんざくようなエレキギターのノイズが廊下から流れ込んできた。
「久しぶりだなぁ! 天才大先生サマァッ!!」
土足でズカズカと侵入してきたのは、極彩色のパンクファッションに身を包み、ジャラジャラとシルバーアクセサリーを鳴らす女だった。
髪はピンクと緑のツートンカラー。目元には攻撃的なメイク。
8年前、エラーラが実験台にした地味で陰湿な女――アサコの面影は、そこには微塵もなかった。
「……誰だ?」
エラーラが、死んだ魚のような目で問うた。
これが、彼女の悪い癖だ。興味のない「済んだ検体」の顔を、すぐに忘れる。
「ああん!? 忘れたとは言わせねえぞ!今や王都のドームを満員にする最強のロックバンド、『デッド・モルモット』のボーカル!アサコ様だァッ!」
アサコは、マイクスタンド……のように持参した杖を振り回し、エラーラの車椅子に近づくと、挨拶代わりにその背もたれをブーツの踵で蹴り飛ばした。
「うわっ!?」
車椅子が回転し、エラーラは目を回す。
「……ああ。思い出したよ。『幸運保存の法則』の実証実験の……アサコ君か。データは収集済みだ。君は魔導ギルドを追放され、監獄へ……」
エラーラは、まだ状況を理解していなかった。
彼女のデータベースにあるアサコは、「無能で、嘘つきで、嫉妬深い、組織のお荷物」だ。
「監獄?ああ、入ったよ!でもな、そこで気づいたんだわ!あたしのこの『止まらない自己正当化』……これはギルドじゃ確かにゴミ扱いだったがな、『ロック』の世界じゃ最高の才能だってのをなァ!」
アサコは狂ったように笑った。
その笑顔には、かつてのような卑屈さはなかった。あるのは、数万の観衆を熱狂させるカリスマと、底抜けの自己肯定感。
「あたしは出所してからバンドを組んだ!歌詞は全部『自分はいかに正しいか』だ!そしたらもうな、バカ受けだよ!今じゃ男は抱き放題!金も酒も手に入る!……どうだエラーラ!悔しいかァ!?」
エラーラは、呆気にとられていた。
「君の能力値は、魔導師としても人間としても平均以下だったはず。そんな君が、社会的成功を収めるわけがない」
「まだそんなこと寝言言ってんのかこのガリ勉!」
アサコは、エラーラの顔を覗き込んだ。
「アンタはさ。すげえよ。天才だよ。でもな?アンタはずーっと『同じゲーム』だけをしてるんだよ。魔導ギルド、学会、組織……『正しさ』や『実績』が勝利条件になってる、狭苦しいゲームをな!」
アサコは、エラーラの白衣の襟を掴んだ。
「アンタはさ、同じゲームという箱庭の中で『ルールを変える』とか『常識を覆す』とか言ってイキがってるけどよォ……結局は、その『枠』から、一歩たりとも出てねえんだよ!保守的なんだよな、生き方が!」
エラーラは息を呑んだ。
図星だった。
エラーラは革命的な発明をするが、それはあくまで「学者として」の成果だ。
会社員や、アスリートや、農家や、音楽家には……一切関係のない話だ。
彼女は、ギルドやアカデミーという権威ある場所に所属し、そこでの評価を基盤に生きている。
「あたしは違う!あたしは『魔導師』なんていう、自分に向いてないゲームはもう降りた!ゲームを変えたんだよ!ここではな、『賢さ』なんて邪魔なだけだ!『バカで』『デカい声で』『衝動的』な奴が勝つんだよ!」
アサコは、懐から『隷属の首輪』を取り出した。
「さあ、始めようぜ!今日はアンタが『あたしのステージ』で踊る番だ!賢いアンタが、バカなあたしのオモチャになる……なんて最高のエンターテインメントだろうよォ!?」
「や、やめろ! 私は……私は賢者エラーラ・ヴェリタスだぞ!王都の頭脳!世界の守護者……!」
「知らねえよ。誰だおめーは。はい『お手』」
アサコが命令する。
エラーラは屈辱に震えながら、ナラティブに救いを求めた。
「ナラ君!助けてくれ!この無法者を排除してくれ! これは明白な……」
ナラティブなら。
ナラティブなら、この非合理な暴力を止めてくれるはずだ。
だが。
ナラティブは、鉄扇をパチンと閉じた。
そして、冷めかけた紅茶を一口啜ると、静かに言った。
「……パス」
「……へ?」
「あたしは今、機嫌が悪いのよ。それにね、お母様。……今のアンタ、マジで『ダサい』わよ」
ナラティブの瞳は、冷徹な「観客」の色をしていた。
「な……ナラ君!?」
「アサコの言う通りよ。アンタは賢い。でも、生き方はド保守だわ。『私は正しいことをしている』『私は有能だ』って、既存の物差しの保障がないと生きていけない。……でもコイツは、その物差しを自分でヘし折って、自分で新しい物差しを作った」
ナラティブは、マカロンをつまみながら、残酷な事実を告げた。
「アンタがバカにしてた『愚者』はね、自分の愚かさを武器にして、アンタより遥か遠くへ行ったのよ。……これは……これこそが、その『敗北の精算』よ。甘んじて受けなさい」
「ギャハハ!娘にも見捨てられてやんの!」
アサコは狂喜し、エラーラの首に強引に首輪をはめた。
「やめろ……放せ……!」
「鳴けよ! 天才!あたしより価値ある声で鳴いてみろよ!」
アサコは、エラーラの折れた足を、リズムに乗って踏みつけた。
それは、彼女のヒット曲のリズムだった。
「いっ……あぐっ……!」
「あ?聞こえなかった?『ワン』だろ?……犯すぞ?」
そこからは、地獄のライブ会場だった。
「ひっ……!」
「言えよや!ここは『ロック』の世界だ!恥をさらけ出した奴が偉いんだよ!プライドなんてクソ食らえだ!」
エラーラは、這いつくばり、犬のようなポーズを取った。
屈辱で顔が真っ赤になり、涙が床に落ちる。
「見ろよ!これが権威だ!これが知性だ!あたしたちを見下してた『賢い奴ら』の成れの果てだァ!!最高だろォオオ!?」
エラーラは、床の模様を見つめながら、必死に思考した。
なぜだ。なぜ私は負けている。
私は「正しかった」はずだ。
アサコは「間違っていた」はずだ。
だが、アサコは言った。
「間違い?反省?ハッ! そんなもん、アンタのいる『教室』での話だろ!あたしのいる『ステージ』じゃ、間違いは『演出』!反省は『退屈』なんだよ!!」
エラーラは悟った。
アサコは、自分の欠点を直さなかった。
直すどころか、それが『許される場所』へ、それが称賛される場所へと「移動」したのだ。
自分を変える努力をしたエラーラと、自分を変えずに世界を変えたアサコ。
生物としての「生存戦略」において、アサコはエラーラを、ついに、凌駕したのだ。
「……く……ぅ……」
「声が小さい!ワン!」
「わ、わん……」
「ワン!!!」
「わん……!」
「ワンッッッ!!!」
「わんっ!」
「ぅワンッッッッッッ!!!!!!」
「ぅわんッッッッッッッッッ!!!!!!!!!」
エラーラの叫び声が、スイートルームに響いた。
それは、知性が野性に敗北した瞬間だった。
「あ、そうだ。おい。先生よお……!」
「ひいっ!?」
アサコは唐突に遠い目をして、エラーラを……
抱きしめた。
「ありがとな。……あたしを、目覚めさせてくれて!」
アサコは一通りエラーラの顔を舐め回し、身体をいじくりまわして、やおら立ち上がり、満足げに汗などの何らかの汁を拭った。
「あー、スッキリした。最高のウォーミングアップになったわ。これからライブなんよね!」
アサコは、首輪のリードを放り投げた。
「じゃーねー先生!アンタは一生、その狭い『正しさ』の檻の中で、自分の賢さに溺れて死んできな!」
アサコは、嵐のように去っていった。
廊下からは、彼女を取り囲むファンの歓声と、カメラのフラッシュが聞こえてきた。
彼女は、正真正銘の「勝者」だった。
ドアが閉まる。
部屋には、首輪をつけられたままのエラーラと、静観していたナラティブだけが残された。
エラーラは、床に転がったまま、動けなかった。
「……ナラ君」
「……何?」
「私は……狭かったのかねぇ」
エラーラは、掠れた声で問うた。
「私は、世界を解き明かしたつもりでいた。だが……私は、自分が理解できる『合理的な世界』に引きこもっていただけなのかもしれないねぇ」
ナラティブは、ソファから立ち上がった。
そして、エラーラのそばにしゃがみ込み、首輪を外してやった。
「……ええ。狭かったわよ」
ナラティブは、嘘をつかない。
「アサコは『自分の居場所』を勝ち取った。アンタは賢いけど、古宿に安住してた。……その差が出たわね」
ナラティブは、エラーラを抱き上げた。
軽い。魔力を失い、権威を失った母の体は、ただの小さな人間のものだった。
「でもま……あたしは、アサコみたいなロックより、アンタみたいな、面倒くさいクラシックの方が、肌に合うけどね」
「……慰めかい?」
「事実よ。……ほら、顔を洗いなさい。アンタの好きなコーヒー、淹れてあげるから」
ナラは、エラーラを車椅子に乗せ、乱れた白衣を直してやった。
その手つきは、アサコの暴力とは対照的に、静かで、優しかった。
「……ありがとう、ナラ君」
エラーラの目から、涙がこぼれた。
それは、自分の殻を破るための最初の痛みでもあった。
二人は、夕闇の中、静かにコーヒーの香りに包まれる。
「正しさ」だけでは勝てない世界で、それでも「思考」することをやめられない魔女と、それに寄り添う娘。
その姿は、敗者ではあった。
だが、決して、不幸ではなかった。




