表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヴェリタスの最終定理2 ナラティブ・ヴェリタス  作者: Wan Liyue 王璃月
愛の当事者

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

220/291

第2話:愛の当事者(2)

墓地を包んだ閃光が収束する。

土塊から再構成された少女、ライラが、生気を取り戻した肌で呼吸を始めた。


「…………ん……」


その吐息は、奇跡そのものだった。

エラーラは、膝をつき、肩で息をしていた。

全身の毛穴から脂汗が吹き出し、銀髪は老婆のように白く褪せている。寿命の2割、魔力の8割。代償は確かに支払われた。

彼女は、目の前で身を起こすライラを見て、心の底から安堵した。

だが、その瞬間に彼女の脳裏をよぎった「思考の澱」こそが、彼女の運命を決定づけた。


(これで……ナラも納得してくれるだろう。償いは済んだ。……まあ、これ以上、殴られずに済むだろう)


それは、生物としての生存本能が生んだ、ほんの些細な計算だった。

「代償を払ったのだから、見返りがあるはずだ」という、等価交換の論理。

だが。

その思考が脳内物質として分泌された、0.1秒後。


「……あ?」


ドス黒い殺気が、墓地の空気を凍りつかせた。

エラーラが顔を上げる。

そこには、ナラが立っていた。

だが、それはさっきまで泣いていた娘ではなかった。

未来の地獄の戦火と、戦後のスラムという二つの地獄を生き抜き、人の「悪意」や「慢心」を嗅ぎ分けることにおいて野生動物すら凌駕する、怪物的な嗅覚を持つ捕食者。

ナラは、笑っていた。

口の端を吊り上げ、目は虚無のように黒く濁っていた。


「てめえ今……『これで許される』って……思っただろ。金払ったら何しても良いみたいな、お客様根性を出しただろ。なあ。なあ!」


言葉ではない。

ナラは、エラーラの瞳孔の開き具合、筋肉の弛緩、安堵の吐息の成分から、その思考を完全に読み取っていた。

エラーラの背筋が凍る。


(バレた? なぜ? 何も言っていないのに!)


「生き返らせりゃあチャラか?そうか。殴られるのが怖かったから、慌てて善人ぶって蘇生させたのか。……上等だ。かかってこい。てめえが正しいんだろ?証明してみせろ。」


ナラが一歩踏み出す。

その足元で、地面が陥没した。


「ほら。殺してみろ。殺らなきゃ先に殺っちゃうよ?」


「待て!ナラ!私は……!」


エラーラは本能的に動いた。

懐に隠していた護身用の短刀。魔力がなくても使える最後の武器。

彼女はそれを抜こうとした。娘を殺すためではない。ただ、この圧倒的な「死」の気配から距離を取るための威嚇として。

だが、それが合図だった。

ナラが、足元の墓石の破片を蹴り上げた。

石礫は弾丸のような速度で飛び、エラーラの額を直撃した。


「ぐっ!?」


頭蓋が割れる嫌な音が響き、エラーラの額から鮮血が噴き出す。

視界が血で染まる。

エラーラがよろめきながら、防御のために腕を前に出した、その瞬間。


「……覚悟もねえのに意見を持つな。頭でっかちなクソガキさんよ」


ナラは既に懐に入っていた。

彼女はエラーラの手から短刀をもぎ取ると、逆手に持ち替え、躊躇なく振り下ろした。


「ぎゃああああああああッ!!」


エラーラの絶叫が墓地に木霊する。

ナラは、エラーラの右肩から指先にかけて、腕を「縦」に切り裂いたのだ。

筋肉が断裂し、神経が剥き出しになる。

魔術師にとって命よりも大事な指先が、だらりと垂れ下がる。


「楽しいか?でもまだ足りねえよなぁ!?」


ナラは止まらない。

彼女は「激怒」の閾値を超え、一周回って「愉悦」すら感じる殺人鬼のモードに入っていた。

彼女の拳が閃く。


「あ……が……」


エラーラの左目が、眼窩の中で破裂した。

最速の打撃。反応すらさせない神速の突き。

エラーラは片目を失い、平衡感覚を失って崩れ落ちようとする。

だが、ナラは倒れることすら許さない。


「寝てんじゃねえぞ!!」


ナラの拳が、エラーラの腰骨を捉えた。

右、左。

たったの二撃。

だが、その拳には魔力障壁すら貫通する技術が乗っていた。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


エラーラの両足が、腰の付け根から粉砕された。

彼女は地面に叩きつけられ、芋虫のようにのたうち回る。

もはや立つことも、逃げることもできない。ただの肉塊。

騒ぎを聞きつけた人々が、墓地の周りに集まり始めていた。

野次馬たち。かつて、この場所でライラを見殺しにした「観客」たちだ。

彼らは悲鳴を上げ、目を覆いながらも、その惨劇から目を離せないでいた。

ナラは、血まみれの短刀を放り投げ、血に染まったドレスで仁王立ちした。

そして、足元の「肉塊」に向かって叫んだ。


「お前さ、偉そうなこと言ってんじゃねえよな、ババア。てめえはさ、てめえのことしか言ってねえんだよ。じゃあ、てめえはオナニー野郎じゃねえか!……あ?違うか?」


ナラは、エラーラの潰れた顔面を靴底で踏みつけた。


「てめーはさ!些細なコスト計算と世間体で、ガキ一人を見殺しにしやがった。それだけなんだよ。」


ナラの怒号は、エラーラだけでなく、遠巻きに見ている群衆にも突き刺さる。


「何が『観測者』だ?だからてめえは転んだ人にカメラ向けてたわけだ?……気持ち悪んだよッ!てめえはいつも論理だの規範だの御託を並べるくせに!結局てめえは、自分の欲望を、正論とやらで誤魔化してるだけじゃねえか!発想がレイプ魔じゃねえか!」


ナラは、エラーラの胸ぐらを掴んで引きずり起こした。

エラーラの残った片目からは、涙が流れていた。


「てめえに助けてもらったっつー義理はあるがな……てめーが性根の腐ったボケカス野郎なら話は別なんだよ!」


ナラは、エラーラの髪を引きずり回し、聖母のような優しい笑顔で、震える群衆の方を振り向いた。


「なあみんな!こいつ殺していいか?目玉潰したから、ついでに今から首もへし折ってやるんだがよ!なあ!」


ナラは、かつてライラを殺した斧を持った男の真似をした。


「あと、この場にいるお前らも例外なく皆殺しだからな!一報的な殺しは久しぶりだからなあ!あたしはてめえらとは違って、ちゃんと『自分の手』で殺すからよ!安心しろよ!」


群衆が悲鳴を上げて後ずさる。

彼らは見たのだ。自分たちの醜悪な欲望が、人の形をして具現化した姿を。

蘇ったライラは、その地獄絵図の中で、ただ一人、呆然と立ち尽くしていた。

恐怖で声が出ない。

だが、彼女の心臓は、激しく脈打っていた。


(……ああ、そうか)


彼女は、理解してしまった。

この異常な屠殺場で、ナラという黒衣の女が、何に対して激怒しているのかを。

それは、エラーラ個人への怒りではない。

あの日、自分を見殺しにした「世界そのもの」への怒りだ。

名もなき自分。使い捨てられた自分。

そんな自分のために、この少女は、世界最強の魔女を敵に回し、自ら殺人鬼の汚名を被ってまで、怒り狂ってくれている。


(私のために……こんなに、怒ってくれる人がいたんだ……)


ライラは泣いた。

死の恐怖よりも、魂の震えが勝った。

そして、彼女は見た。

足元で血まみれになっている、エラーラの姿を。

エラーラは、まだ意識があった。

残った片目で、ナラを見上げている。

その目には、怨嗟の色はなかった。

あるのは、深い悲しみと、そして……「感謝」だった。

ライラは悟った。

エラーラは、世界最強の魔導師だ。

たとえ魔力を失い、手足を砕かれても、隠し持っている魔導具や、契約精霊を使えば、ナラを弾き飛ばすことなど造作もないはずだ。

だが、彼女は抵抗しない。

防御魔法一つ展開せず、ただ生身で、ナラの拳を受け続けている。

なぜか。

「反省」しているからだ。


(口から「ごめんなさい」と音を出すのは簡単です。ろくでもない大人は、そうやって音を出して、頭を下げて、やり過ごします。でも、貴女は……)


エラーラは、あえて殺されようとしている。


かつて自分が「傍観者」として見殺しにした少女と同じ痛みを、同じ絶望を【当事者】として【実体験】味わうことでしか、償えないし、理解を深められないと知っているからだ。

そして、今まさに周囲で見ている「観客」たちに、身を持って示そうとしているのだ。

『傍観者であることは、これほどの罪なのだ』と。

エラーラの唇が、音なく動いた。


『……ありがとう、ナラ』


そう言っているように見えた。

ナラが、トドメの拳を振り上げた。

その目からは、ボロボロと涙がこぼれている。

まだ、殺したくない。母親を、殺したくない。

だが、振り上げた拳を下ろす場所が、もう見つからない。


「……死ねやよッ!」


ナラの拳が振り下ろされる。


「やめてぇぇぇッ!」


ライラが飛び出した。

彼女はナラの腰に抱きつき、その動きを止めようとした。

蘇ったばかりの細い腕。喧嘩屋のナラを止められるはずもない。


「離せガキ!てめえも傍観者野郎か!」


「離しません!貴女の手を汚させない!」


「うるせえ!このガキはいま!ババアはいま!死ななきゃならねんだよ!」


ナラはライラを振り払おうとする。

その勢いで、ライラの手が、ナラのポケットに触れた。

そこから、箱が落ちた。

『SILENT SMOKE』。

潰れたタバコの箱が、血の水たまりに落ちる。

その瞬間。

ナラの動きが、ピタリと止まった。

ナラの視線が、水たまりに落ちたタバコに釘付けになる。

それは、彼女が「大人ぶって」買ったもの。

エラーラに見せつけるために用意した、反抗の証。


(……あたし、何やってんだろ……)


ふと、憑き物が落ちたように、ナラの肩の力が抜けた。

目の前には、手足の折れた母親。

足元には、蘇った少女。

そして、恐怖に震える群衆。

ナラは、震える手で、泥だらけのタバコを一本拾い上げた。

火をつける。

手が震えて、なかなかつかない。

ライラが、そっと両手で火を覆ってくれた。

紫煙が立ち昇る。

血と泥と、硝煙の匂いが混ざった、ひどく不味い味がした。


「……けっ。湿気てやがんよ」


ナラは煙を吐き出し、足元の肉塊――エラーラを見下ろした。


「……おいババア。」


エラーラが、うっすらと目を開ける。


「片付けろ。」


ナラは、周囲の血溜まりと、逃げ惑う群衆を顎でしゃくった。


「……それと、てめえ自身も片付けろ。」


「……魔力、が……ない……」


エラーラが、掠れた声で答える。


「知るか。」


ナラは、しゃがみ込み、エラーラの残った片目に、タバコの煙を吹きかけた。


「……反省が済んだら」


ナラの声が、震えた。


「ちゃんと謝れ。」


言葉にしなかった想いが、煙に乗って伝わる。


『詫びるな』


『償え』


エラーラは、涙を流しながら、血まみれの口元を微かに緩めた。


「……ああ。……善処するよ」


エラーラの体から、微かな、本当に微かな光が漏れ出した。

それは魔力ではない。生命力そのものを燃やした、最後の残り火。


・・・・・・・・・・


雨上がりの墓地には、血の匂いが立ち込めていた。

ナラは、懐からハンカチを取り出し、返り血で汚れた手を丁寧に拭った。

乱れた黒髪をかき上げ、ゴシック調のドレスの埃を払う。その所作には、先程までの修羅のような暴力性は微塵もなく、まるで茶会を終えた深窓の令嬢のような気品さえ漂っていた。


「……ふぅ。まったく、野蛮な真似をさせたわね」


ナラは、あたかも人を殴ったことなど一度もないと言いたげな素振りで、足元に転がる肉塊――大魔導師・エラーラを見下ろした。

エラーラは全身の骨を砕かれ、魔力を使い果たし、ただのボロ雑巾のように呼吸を繰り返している。だが、その瞳には、憑き物が落ちたような静けさがあった。


「……生きてる? お母様」


「……ああ。なんとか、ね」


エラーラが掠れた声で答える。

ナラはふん、と鼻を鳴らし、鉄扇をパチンと閉じた。


「一流のレディたるもの、暴力は好みじゃないのだけれど。

……アンタがいつまでも『観測者』なんて寝言を言っているから、教育的指導が必要だったのよ。感謝なさい」


「……厳しいな、ナラ」


「あら?これでも手加減したつもりよ?あたしが本気なら、アンタは今頃、粉々になってたわよ」


ナラは強がりを言ったが、その声は微かに震えていた。

彼女は、泥だらけのエラーラの手を、汚れるのも厭わずに握った。その手は冷たく、そして華奢だった。


(こんな小さな手で……アンタは一人で未来を背負っていたのね)


ナラは、胸の奥が熱くなるのを覚え、慌てて視線を逸らした。


「さあ、帰るわよ。這ってでもついていらっしゃい。……と言いたいところだけど、その足じゃ無理ね」


ナラは溜息をつき、エラーラを背負おうと身を屈めた。

その時だった。


「あ、あの……!」


蘇ったばかりの少女、ライラが声を上げた。

彼女は呆然と立ち尽くしていたが、二人が去ろうとするのを見て、我に返ったのだ。


「待ってください! 私……私、どうすれば……」


ナラは、背中を向けたまま足を止めた。

だが、振り返らない。


「ん?……どうすれば……とは?……どういう、意味、カナ?…………」


「だって……!」


ライラは泣きそうな声で訴えた。


「私、行くところがありません!家も焼かれて、家族も殺されて……もう、誰もいないんです!貴女たちが私を生き返らせてくれたんでしょう!?だったら……最後まで面倒を見るのがスジじゃないですか!?」


それは、極限状態に置かれた被害者の、切実な叫びだった。

助けられたのだから、守られる権利がある。

被害者なのだから、救済されるべきだ。

その論理は、正論かもしれない。

だが。

ナラティブ・ヴェリタスは、地獄の掃き溜めから這い上がってきた女だ。

彼女にとって、その言葉は「甘え」以外の何物でもなかった。

ナラは、ゆっくりと振り返った。

その赤い瞳が、夕日を受けて妖しく輝く。


「……お黙りなさい」


透き通るような、けれど絶対零度の冷たさを含んだ声。


「スジ?……何の?……アンタね、いったい、自分がいま何を言っているのか分かっていて?」


ナラは優雅に、しかし音もなくライラとの距離を詰めた。


「え……だって、私は被害者で……」


「ええ、そうね。アンタは可哀想な被害者よ」


ナラは微笑んだ。慈愛に満ちた、聖母のような笑みで。

そして次の瞬間。


「がはっ……!?」


ライラの体がくの字に折れ、後方へ吹き飛んだ。

ナラの拳が、蘇ったばかりの少女のみぞおちを、的確に、容赦なく貫いたのだ。

ライラは泥水の中に転がり、激しく咳き込んだ。


「げほっ……え、あ……な、なんで……?」


「痛いでしょう?」


ナラは、鉄扇を広げ、口元を隠しながら見下ろした。


「理不尽でしょう? 訳が分からないでしょう?……それが『世界』よ、お嬢さん」


「な、何を……」


「立ちなさい!!」


ナラの一喝が、墓地の空気をビリビリと震わせた。

いつもの気品ある口調が崩れ、地獄を生き抜いた戦士の咆哮が混じる。


「『行くところがない』? 『どうすればいい』?知ったことじゃあないわ!アンタは赤ん坊なの?察してほしいなら、酒場で胸でも出して媚びを売ってなさい!」


「私は、何も悪くないのに……!」


「そうよ!アンタは紛れもなく『悪くない』!通り魔に刺されるのも、戦争で焼かれるのも、交通事故で死ぬのも!被害者はいつだって『悪くない』わ!」


ナラは、ライラの胸ぐらを掴んで引きずり起こした。

その顔は、先ほどエラーラを殴った時よりも、さらに真剣で、さらに悲痛だった。


「でもね!『悪くない』からって、誰も助けてはくれないのよ!正しさには何の意味もないの!……アンタは一年半前、斧を持った男が来た時、どうした?」


ライラは息を呑んだ。

記憶が蘇る。あの恐怖の夜。

彼女は、動けなかった。逃げなかった。戦わなかった。

ただ震えて、「どうしてこんなひどいことを」と嘆いていただけだった。


「アンタは思考を停止した。『自分は被害者だから、多分誰かが助けてくれるはずだ』って。『こんな理不尽なことは起きるはずがない』って。……だから、だからアンタは命を取られたんじゃあないの!?」


ナラの言葉が、ナイフのようにライラの心臓を抉る。


「あの時、お母様が助けなかったのは罪よ。だからあたしは断罪した。でもね……自分の命の舵取りを他人に委ねて、沈没した船の上で泣いていただけのアンタにも!生きる意志が欠けていたのよ!」


ナラは、ライラを突き放した。

ライラは泥にまみれ、ナラを見上げた。


「……あたしはね、未来で見てきたのよ。アンタみたいに『どうして』『助けて』って言いながら、ゴミのように死んでいった連中を山ほどね。あいつらは悪くなかった。でも、弱かった。……生きるっていうのはね、明日へしがみつくことなのよ!」


ナラは、ドレスの裾を翻し、背を向けた。


「生き返ったんでしょう?だったら二度目の命くらい、自分で使い道を決めなさい。……誰かの物語の『可哀想な脇役』で終わるつもりなら、今すぐそこで舌を噛んで死になさい。その方がマシよ」


ナラは、倒れているエラーラを背負い上げた。

華奢な体には不釣り合いな重量だが、彼女は顔色一つ変えない。

そのまま、ライラを一瞥もしないで歩き出す。

夕闇が迫る。

墓地には、冷たい風が吹き始めていた。

ライラは一人、泥の中に残された。

痛い。体も、心も。

助けてくれたはずの人に殴られ、突き放され、罵倒された。


(……ひどすぎる)


涙が溢れる。

でも。

不思議と、先ほどまでの「空虚な絶望」は消えていた。

代わりに、腹の底から、熱い塊が込み上げてくるのを感じた。

ライラは、泥を握りしめた。爪が割れるほど強く。

ライラは立ち上がった。

足が震える。視界が滲む。

だが、その瞳には、初めて「自分の意志」という光が宿っていた。


「待ちなさいよッ!!」


ライラの叫び声が、ナラの背中に届く。

ナラは足を止めた。だが、振り返らない。

ライラは走った。

転びそうになりながら、ナラを追いかけ、その前に回り込んだ。

そして、両手を広げて立ちはだかった。


「私『が』、アンタの家に行くわよ!」


ライラは叫んだ。

それは、主語を伴った、宣言だった。

ライラは、ナラを睨みつけた。

涙でぐしゃぐしゃの顔で、泥だらけのドレスで。

それは、一年半前の「可哀想な被害者」の顔ではなかった。

自分の足で立ち、自分の人生を掴み取ろうとする、「人間」の顔だった。

沈黙が流れる。

ナラは、無表情でライラを見下ろしていた。

赤い瞳が、値踏みするように細められる。

そして。

ナラは、小さく笑った。

どこか満足げで、そして愛おしそうな、姉のような微笑みだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ