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ヴェリタスの最終定理2 ナラティブ・ヴェリタス  作者: Wan Liyue 王璃月
愛の当事者

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第1話:愛の当事者(1)

●前作「心ある傍観者」の回答篇

ヴェルディゴ王国の夏は、目が眩むほどに美しい。

一年半前の暴動で焼け落ちた市場は、色とりどりのテントが並ぶバザールへと生まれ変わり、石畳は磨き上げられ、観光客の笑い声が風に乗って響いていた。


「ほら、お母様! 見てよこれ! 『名物・王都焼き』だって!」


ナラティブ・ヴェリタスは、串に刺さった香ばしい肉料理を両手に持ち、無邪気にはしゃいでいた。

ゴシック調のドレスに身を包んだその姿は、一見すれば深窓の令嬢のようだが、その食べっぷりと足取りの軽さは、完全にスラムの悪ガキのそれだった。


「……ああ。美味そうだね」


その隣を歩くのは、白衣を纏った銀髪の美女、エラーラ・ヴェリタス。

彼女はサングラスをかけ、周囲の視線を避けるように俯き加減で歩いていた。その表情は、娘の明るさとは対照的に硬い。


「どうしたのよ、辛気臭い顔して。せっかくの旅行じゃない」


ナラが串を差し出す。エラーラは苦笑してそれを受け取った。


「いや……少し、日差しが強くてね。それに、この街は……復興が早すぎる気がしてな」


「復興? いいことじゃない」


「物理的にはね。だが、人の心の傷跡というものは、そう簡単に埋まるものじゃない。……あまりに綺麗すぎる風景は、何かを無理やり隠しているようで、落ち着かないんだよ」


エラーラは、広場の中央にある新しい噴水を見た。

かつてそこには、見せしめの処刑台があった。彼女はその光景を、鮮明に覚えている。

だが、今の彼女は「忘却」を選んでいた。

あの日の自分の無力さと、卑劣な保身。それを思い出さないように、心の奥底に鍵をかけていた。


「ふーん。考えすぎじゃない?」


ナラは笑い、次の屋台へと走っていく。

エラーラは安堵の息を吐いた。


(そうだ。ナラは知らない。私がこの街で何をしたか。あの子には、関係のない話だ)


彼女は、この平和な旅行が永遠に続けばいいと思った。

自分が犯した罪が、永遠に闇に葬られればいいと願った。

だが。

世界は、因果は、それを許さなかった。

昼食のために入った大衆酒場。

昼間からエールを煽る地元の商人たちの席の近くに、二人は座った。

ナラがメニューを見ている間、商人たちの話し声が、嫌でも耳に入ってきた。


「……いやぁ、この時期になると思い出すなぁ」


「あの『魔女』のことか?」


エラーラの手が止まる。心臓が早鐘を打つ。


「そうそう。あの白衣の褐色女。騎士団の娘が見殺しにされた時、一番前で笑って見てたやつ」


ナラの手も、止まった。


「ひでぇ話だよな。あいつ、助けられたはずなんだぜ?俺は見たんだ。あいつが魔導書片手に、騎士が腕を折られる音を聞いて『いいデータだ!』って叫んでるのをよ」


「マジかよ。悪魔だな」


「保身だよ、保身。トラブルに巻き込まれたくなかったんだろ。賢い奴ほど冷血ってこった。あの騎士の娘、ライラちゃんだったか? 可哀想になぁ」


「墓も誰も参らなくて、荒れ放題らしいぜ。ま、あんな死に方したんじゃ、呪われてるって噂だしな」


ナラが、持っていたフォークをテーブルに置いた。

金属音が、エラーラの耳には銃声のように響いた。


「……ねえ、お母様」


ナラの声色は、変わっていなかった。

だが、エラーラは感じ取った。隣に座る娘の空気が、真夏から極寒の冬へと一瞬で凍りついたのを。


「……なにかな、ナラ」


「この人たちの話。……面白い創作ね」


ナラは、ゆっくりと顔を上げた。

その瞳は、笑っていなかった。底知れぬ闇が、渦巻いていた。


「でも、あたし、気になっちゃった。その『ライラちゃん』のお墓。……ちょっと、観光ついでに……行ってみない。」


拒否権はなかった。

エラーラは震える足で立ち上がった。

楽しい旅行は、ここで終わった。


王都の外れ、共同墓地。

管理もされず、雑草が生い茂る一角に、その墓石はあった。

名前だけが刻まれた、粗末な石。『ライラ』。

誰かが手向けた花もなく、ただ泥にまみれて、雨風に晒されている。

エラーラは、その前に立ち尽くした。

一年半前。自分が「観測」し、「記録」し、そして見捨てた少女の成れの果て。


「……ここが、どう、したんだい?」


エラーラは、震える声で尋ねた。まだ、誤魔化せると思っていた。

ナラは答えず、無造作に懐へ手を入れた。

取り出したのは、銀色のライターと、潰れた箱のタバコ。

銘柄は『SILENT SMOKE』。王都の裏社会で好まれる、強い酒のような煙草だ。


「ナラ?……タバコなんて……」


「黙って」


火がつく。紫煙が揺らめき、墓地の湿った空気に溶けていく。

ナラは、深く、深く煙を吸い込んだ。

肺の奥までニコチンとタールを染み込ませ、腹の底で煮えくり返るマグマのような怒りを、無理やり鎮めるように。

長く、細い煙を吐き出す。

そして、ナラはエラーラの方を向いた。


「何か言うことは。」


「何のことだ?」


「……とぼけんなよ?」


ナラの声が、低く唸った。それは探偵の声ではない。

獣の声だ。


「さっきの酒場の話だ。『白衣の魔女』。……てめえのことだろ?」


「まさか。人違いだよ。私は……」


「嘘つくな!」


轟音が響いた。

ナラの蹴りが、エラーラの腹部に深々と突き刺さったのだ。

物理的な衝撃。

世界最強の大魔導師の体が、まるでボールのように吹き飛び、泥の中に転がった。


「がはっ……!? げほっ……!」


エラーラは咳き込みながら、信じられないものを見る目で娘を見た。

娘が。ナラが。

自分を蹴った?

あの、愛らしい娘が?


「……な、何を……ナラ……」


ナラは、タバコを口の端にくわえたまま、ゆらりと近づいてきた。

その歩き方は、完全に喧嘩師のそれだった。


「おい。まずさ、てめえさ、おい。ここ、どこだか分かってんか?」


ナラは、エラーラの胸ぐらを掴み上げ、至近距離で睨みつけた。


「墓だよ、墓。てめえが見殺しにした、ガキの墓だ」


「ち、違う!私は……!」


「何が違うんだよ!言えや!」


ナラは、掴んだままエラーラを揺さぶった。


「てめえの実力なら、叩ッ殺せただろ!時間止めて連れ去ることもできたろ!それしなかったのは!てめえが、自分のメンツを守りたかったからだろ!てめえ本当に下らねえ人間だよな!わけの分からねえ屁理屈でプライドを守ったからこの娘は死んだんだよ!」


図星だった。

エラーラの顔から血の気が引く。

彼女は弁解しようとした。口を開こうとした。


「私は……観測者(かんきゃく)として……」


その瞬間。

ナラの鉄拳が、エラーラの顔面を打ち抜いた。

鼻骨が折れる鈍い音。

鮮血が舞い、エラーラは再び地面に叩きつけられた。


「い……っ……!」


痛み。強烈な痛み。

エラーラは泥の中で身をよじった。

魔導障壁を展開していなかったわけではない。常時展開されているはずの自動防御が、いとも容易く貫かれたのだ。


「おい立てよ。」


ナラが、見下ろしている。


「なんで殴られてるか、わからねえのか?……てめえが『わかってねえ』からだよ」


エラーラの心に、恐怖と、そして防衛本能としての怒りが湧き上がった。


(私は……私は悪くない!私は正しかったはずだ!あの状況で介入すれば、もっと多くの犠牲が出た!私は論理的に……!)


エラーラは立ち上がり、右手に魔力を集束させた。

戦闘態勢。

これは「教育」だ。錯乱した娘を鎮めるための、必要な措置だ。

エラーラが指を振るう。

彼女の指先から、目にも止まらぬ速さで魔力の鎖が射出された。

音速を超える拘束魔法。ドラゴンさえも縛り上げる最強の術式。

だが。

乾いた音が響いた。

ナラが、素手で、その魔法を「叩き落とした」のだ。


「え……!?」


エラーラが驚愕する暇もなかった。

ただの、人間の、意地。

ただの、人間の、喧嘩。


「遅せんだよ、インテリ」


声は、エラーラの懐から聞こえた。

鳩尾に、鉄扇の柄が突き刺さる。


「が……あ……ッ!?」


呼吸が止まる。視界が白む。

エラーラは後ろへ吹き飛ぼんだが、ナラは先回りしてその襟を掴んで逃がさない。


「ほら逃げんな。話、終わってねえぞ」


ナラは、そのまま至近距離で連打を浴びせた。

拳が、肘が、膝が、エラーラの肉体を的確に破壊していく。


「術式……展開……」


エラーラは必死に詠唱し、全方位に衝撃波を放とうとした。

この距離なら、ナラも吹き飛ぶはずだ。

だが。


「騒いでんじゃねえッ!」


ナラの頭突きが、エラーラの鼻柱を粉砕した。

脳が揺れる。詠唱が中断される。

魔力が霧散する。


「ぐぅ……う……!」


エラーラは膝をついた。

勝てない。

魔力勝負なら負けない。遠距離戦なら負けない。

だが、この距離での殴り合いにおいて、魔術師の「思考」というラグは、致命的な隙となる。

ナラは、その隙を見逃さない。

彼女は魔術の理屈を知らない。だが、「相手が動く前に殴る」という、喧嘩の鉄則だけを極めている。


「……なんでだ……私の防御魔法が……」


「てめえは、逃げる時も向かう時も、考えてんだよ」


ナラは、血のついたタバコを吐き捨てた。


「てめえは、考えてから防ぐ。……あたしは、考える前に殴る。それだけだ」


ナラは、エラーラの髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。

その顔は、涙と血でぐしゃぐしゃだった。


「これが『暴力』だ。てめえが安全圏から高みの見物を決め込んでた、あの子が味わった痛みだ。……理屈じゃねえんだよ。痛いだろ。怖いだろ。」


ナラの拳が震える。


「魔法も使えねえただのガキを、大の大人が寄ってたかって、殴って、殺して、てめえはそれをカメラでも向けて見て楽しんでたんだろ!?『興味深い』とか言って楽しんでたんだろ?……つまりお前の性根は、人殺しじゃねえか!」


「……っ……!」


「人が殺されるのが楽しかったんだろ?だったらてめえが殺されるのも、てめえは楽しんでくれよな!」


ナラは、泣きながら殴った。

愛する母を。尊敬する師を。

だからこそ、許せなかった。

彼女が「怪物」であることを。


エラーラは、泥の中で喘いでいた。

肋骨が折れている。内臓が破裂しているかもしれない。

魔力はまだ残っている。

本気を出せば、ここ一帯を焦土にする広範囲殲滅魔法だって撃てる。

ナラごと、この墓地を消し飛ばすこともできる。

だが、彼女はそれをしなかった。

いや、できなかった。

ナラの拳には、殺意以上の何かが籠もっていた。

それは「断罪」の意志。

娘からの、血を吐くようなメッセージ。


『お前は、絶対に間違っている』


そのメッセージが、物理的な衝撃と共に、エラーラの頑固なプライドの殻を叩き割っていく。


「……う……ぁ……」


エラーラは、霞む視界で、ライラの墓石を見た。

あの日。

斧が振り下ろされた瞬間。

少女と目が合った記憶が蘇る。

絶望の瞳。助けを求める声なき声。


(私は……見捨てた……)


自分の保身のために。

観測者(かんきゃく)」という安全な椅子に座り続けるために。


「……あ……ああ……」


エラーラの口から、慟哭が漏れた。

痛みではない。

罪悪感が、津波のように押し寄せてきたのだ。


「立てよ!立って言い訳してみいよ!」


ナラが叫ぶ。

エラーラは、よろめきながら立ち上がろうとした。

だが、足に力が入らない。

彼女は、そのまま這いつくばり、墓石にすがりついた。


「……ごめん……なさい……」


小さな、蚊の鳴くような声。


「腹から声出せや!」


「ごめんなさい……!私は……私は……!」


エラーラは、墓石に額を打ち付けた。


「怖かったんだ……!自分が傷つくのが!だから……見殺しにした!笑って誤魔化した!私は……最低の……卑怯者だ……!」


大魔導師の仮面が剥がれ落ちた。

そこには、ただの弱くて、愚かで、罪深い一人の人間がいた。

ナラは、拳を下ろした。

荒い息を吐きながら、うずくまる母を見下ろす。

ナラは、懐から新しいタバコを取り出した。

火をつける手は、まだ震えている。


「なら、やれ。」


ナラは、墓石を指差した。


「生き返らせろ。」


エラーラが顔を上げる。血と泥で汚れた顔。


「聞こえなかったか?……やれ。」


「で、でも……」


「やれ。」


ナラは冷酷に告げた。


「てめえは『他人の命を踏みにじって良い』くらい偉いんだろ?踏みにじるってことは補償も出来なきゃスジがとおらねえじゃねえか。直せねえのにぶち壊したんか?」


ナラは、煙を吐き出しながら言った。


「……やれ。」


エラーラは息を呑んだ。


「てめえの命は、安い。」


ナラの言葉は、ナイフよりも鋭く、エラーラの心臓を抉った。


「払え。ツケを。」


エラーラは、ナラを見た。

娘は、泣いていた。

タバコの煙を目に染みさせながら、ボロボロと涙を流していた。


「……分かった」


彼女は、覚悟を決めた。

これが、私の贖罪。

これが、私の受けるべき罰。

エラーラは、両手を墓石にかざした。

体内の魔力回路を、限界を超えて逆流させる。

心臓が悲鳴を上げる。血管が焼き切れるような熱さ。


「術式展開……禁忌・魂魄回帰。対象、ライラ……」


エラーラの銀髪が、根元から白く色が抜けていく。

肌の艶が失われ、急速に老化していくような感覚。

エラーラは、寿命の2割を失った。

閃光が墓地を包んだ。

それは、一人の少女が地獄から帰還する、奇跡の光だった。

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