第18話:霓ヶ崎の地
父さんがいる因幡会館は、新市街地にある。
明治初期、西洋列強に対抗するための高度人材育成施設として建てられた洋館で、現在は植物園と昆虫館を併設した文化施設として一般に公開されている。
父さんは学術調査の名目で、たびたび会館を訪れ、書庫に収められた資料を片っ端から調べているらしい。
大学と隣接していることもあり、「立地的にとてもありがたい」と以前こぼしていた。
新市街地までは緩やかな下り坂が続く。
足を取られないよう、歩幅を調整しながら進む。
ふと後ろを振り返る。
上機嫌で歩く茜と、その腕にぬいぐるみのように抱えられた夜。
夜はすでに観念したのか、耳を垂らし、大人しく目を閉じていた。
……お疲れ様。
同情が伝わったのか、夜が片目だけ開けてこちらを見る。
何か言いたげだったが――俺は子供なので、わからないことにしておく。
川のせせらぎが近づき、やがて天満川が視界に入った。
水場特有の湿った空気が、身体をゆっくりと冷やしていく。
市内を分断するように流れるこの川は、江戸時代初期まで度重なる水害を引き起こしてきた。
父さん曰く、人柱を立てた記録も複数残っているという。
そうした惨状を受け、当時の藩主は莫大な費用を投じて治水工事を行い、周辺一帯を肥沃な農地へと作り変えていった。
明治維新以降は近代化の波を受け、農地は次第に転用され、煉瓦造りの西洋風建築が建ち並ぶようになる。
現在では、この新市街地エリアは複数の大学や付属の中学・高校が集まる学園都市として成り立っている。
父さんが准教授を務めている縹嶺大学霓ヶ崎キャンパスも、その一角にある。
霓姫伝説の影響を色濃く残す旧市街地に対し、新市街地の根幹にあるのは、近代化の歩みだ。
天満川に架かる駒留橋に差し掛かった。
大きな主塔から無骨なケーブルが伸びる斜張橋らしいが、専門外なので詳しいことはわからない。
強くなった横風に注意しながら歩を進める。
その一方で、水面は春の光を反射し、穏やかにきらきらと輝いていた。
魚の影が揺れ動いている。
つい見下ろしてしまい、高さに足がすくむ。
冷たい風に手が悴み、ポケットに突っ込んで温めながら橋を渡りきった。
ふと見ると、茜が夜の腹をもしゃもしゃしている。
……少しだけ羨ましい。
ちゃんと嫌そうな顔をする夜の顔は面白かった。
「茜、大丈夫か?」
早足になって距離ができていたことに気づき、声をかける。
「大丈夫!」
夜の肉球を触りながら返事するのはやめないか?
足を止めて待っていると、欄干にひらがなで『こまどめばし』と達筆な文字が彫られているのが目に入った。
その脇の小さな櫓には、馬頭観音の石仏が鎮座している。
長い年月、風雨にさらされてきたのだろう。
風化した表情は落ち窪み、どこか不気味だった。
……ちょっと怖いんだよな。
心の中で呟いた瞬間、追いついた夜が片目を開ける。
石仏を、じっと見ている。
アイスブルーの瞳が、周囲の温度を一段下げたように感じた。
「夜ちゃん、どうしたの?」
茜もその視線に気づき、夜に問いかける。
「……なんでもない」
ぼそりと呟くと、再び目を閉じた。
なんとなく話を続ける空気ではなく、俺と茜は顔を見合わせて苦笑するしかなかった。
「いまさらだけど、嚮夜さんに相談していいの?」
霓ヶ崎商店街の近くで、茜がぽつりと聞いてきた。
因幡会館までは、あと五分ほどだ。
「父さんは見えないだけで、この手の話には興味津々だよ」
「そうなの? 前に相談しに行ったとき、難しい顔してたから苦手なのかと」
「昔、母さんに質問攻めして怒られたらしい。その名残」
「あぁ、なるほど……」
クスリと笑う茜は、どこか嬉しそうだった。
昼時を過ぎても、商店街はまだ活気がある。
花畑駅から続く鈴蘭通りとの合流地点にあるためか、住民や通学する学生、学校関係者の姿が多い。
じいちゃん行きつけの蕎麦屋「長寿庵」の前には、十人ほどの列ができていた。
列の最後尾にくたびれた見覚えのある背中があった。
……父さんだ。
「お疲れ様」
声に気づくのに少し間があって
「遅かったな」
ゆっくり振り向き、疲れた顔で笑った。




