13
シドは老爺の肩に手をかけて、無理やり立たせようとする。だが老爺は深いお辞儀をしたまま動かなかった。
「申し訳ございません。立つわけにはいきません」
「ベルナール、頼む。今は」
「いいえ。やっと、やっとでございます……」
老爺は顔を上げた。皺に隠れた小さな目に滲むものがある。
「もう十五年、お待ちしておりました。あなた様にお目にかかれる日を」
シドの肩がぴくっと震え、彼は老爺を抱きしめた。ぎゅっと抱き合う二人を私は見つめる。何が起こっているのか半分も理解できない。
――殿下。
その言葉だけが、頭の中で何度も繰り返されている。
「シド」
私がそうっと名を呼ぶと、シドは名残り惜し気に老爺から離れる。
「その、殿下って、どういうこと?」
シドは口を噤んだまま私を見つめた。立派な体格をしているくせに迷子みたいな目だった。
冷たい夜風が彼の黒髪を揺らし、紫色の目は涙ではないもので揺れている。
迷っているように見えた。でも今度は、今度こそ、隠さず全部話してくれるのではないか。私がそう期待するに十分な迷い方だった。
「……お嬢様」
彼はゆるゆると口を開く。
「まずは中に入りましょう。そして全部お話しします」
それでそのようになった。暖炉に火が入れられ、応接間は暖かかった。
椅子に腰を下ろした私を、ベルナールはちらりと見て、それから顔をしかめた。
「それで、殿下。この小娘はどこの馬の骨です?」
老爺は鼻に皺をよせ、なんだか嫌なものを見る目で私を見る。
そりゃそうか、と私は苦笑した。男物の服を着て突然現れた、得体の知れない娘である。
「こんな格好でこんな時間にごめんなさい。ミストリオス公爵家の娘、ヴィオレッタ・ミストリオスと申します」
この世界では女性の盛装はドレスで、どんな貧しい平民でも冠婚葬祭用に黒いドレスを持っているのが当たり前だ。スカートを履いていないので、妙な子だと思われたんだろう。
丁寧にお辞儀をすると、老爺の態度はあからさまに変わった。
「な、なんと……ミストリオス公爵の!? ジークフリード様の娘御とな? これはこれは、失礼いたしました。さあさ、火の前へ……」
「現金な奴だな、じいや。――お嬢様、何か飲みます?」
シドは口をへの字に曲げて、暖炉の前の揺り椅子に腰かけた私と、甲斐甲斐しくひざ掛けを持ってきてくれた老爺を眺めた。
(確かに現金、ね)
と苦笑しながら思う。やっぱり私はまだ、ミストリオス公爵の娘でしかないのだ。でも、今回ばかりは老爺の態度が軟化してくれて助かった。
キッ、と眦を立てて老爺は言う。
「失礼ですが殿下。私は十五年、あなた様のお身を案じておりましたが、それと礼儀作法は別の話でございます。公爵令嬢に対してそのような口の利き方をなさるとは、母君のレティシア様がどれほどお嘆きになるか」
「は、はい、すみません」
シドが急にしゅんとして謝るのを見て、私は思わず吹き出してしまった。
「ふふっ。シドがこんな顔するの初めて見た」
「お嬢様、笑わないでください」
「殿下も。人前でお嬢様などと呼ぶのは、もう許されませんぞ。ヴィオレッタ様、またはレディ・ヴィオレッタとお呼びするのが筋でございましょう」
「じいや、それは」
「いいえ、申し上げます。今この場で正していただかなくては、私は死んでも死にきれません」
老爺はふふんと胸を張る。シドが助けを求めるような目で私を見たが、私はそっぽを向いてやった。
「私はいいと思うわ、ベルナールさん」
「ヴィオレッタ様、わかってくださいますか!」
「お嬢様、裏切らないでください」
「ふふ。だって、ちゃんとした名前で呼ばれるあなたって、新鮮だもの」
からかってみるとシドは耳まで赤くなった。こんな彼を見るのも初めてである。
ベルナールは満足そうに何度も頷き、それからようやく真面目な顔つきに戻った。
「では、ヴィオレッタ様。改めまして、私はバジル・ベルナールと申します。先ほどは失礼を致しました」
「はい。お話はシドから少し伺いました。あなたが代々、王宮地下牢の牢番を務める家の長なのだと」
はい、と老爺は頷く。
「そして、前王妃レティシア様にお仕えしておりました」
「……そこから先は、俺が」
シドが進み出る。私の前の椅子に座って視線を合わせてくれた。
ふっきれたように見えた。あるいは、彼の中で何かが決壊したように見えた。ずっと、本当は言いたくてたまらないことをせき止めていたものが。
「俺の本当の名前は、ルクサリス・フォン・クレシアと言います」
私は膝の上で両手を痛いほど握りしめる。骨の軋みで叫ぶのをこらえた。
――クレシア。
――王家の家名。
「クレシア……王家の、人なのね……」
「ええ。ルパートの、兄です」
夜の静寂に暖炉の火がパチパチ爆ぜる。私はしばらく、何も言えなかった。
「異母兄、ということになります。俺の母はレティシア・アルメイダ。一応、前の王妃ということになっています」
「前王妃……」
私はその名前を、歴史の授業でしか聞いたことがなかった。今の王妃陛下が即位する前に、亡くなったと言われている方だった。
「十五年前、母の実家であるアルメイダ公爵家は政変で潰されました」
シドの声は淡々としている。淡白さは逆に何かを必死に抑えているように聞こえた。
「理由は、今でもはっきりしません。ただ、当時の宮廷内の派閥争いに巻き込まれたのだと、後から聞きました。母の実家を支持していた貴族たちは、次々と失脚し、領地を没収され、あるいは処刑されました」
私は、言葉を失った。
今、王都で起きていることと、あまりにも似ていたから。
「母も、俺も、危険な立場に置かれました。今の王妃陛下――当時はまだただの未婚の娘であった方の実家が、母の実家を追い落とす側になったんです」
「シド」
私は咄嗟に彼の手を握りたいと思った。とても孤独で苦しそうに見えたから。だが彼は気丈にも続けた。
「母は俺を連れて、騎士団の一部とともに逃げました。その先が、黒鷲砦です」
「だから……あなたは、あそこで育ったのね」
「ええ。ですが……母は長く保ちませんでした。心労が祟ったのでしょう。俺がまだ五歳の頃に、病で亡くなりました」
五歳。そんな子供が。本当なら愛され慈しまれ守られていなければならない年頃の子が、追われ、逃げ続け、母を亡くした。
そんな子供時代を、彼は一度も話したことがなかった。
私は自然と震える肩を、唇を嚙み締めることで抑えた。
「黒鷲砦の連中はアルメイダ公爵家の元騎士たちとその妻たち。皆で俺を育ててくれました。バルトロメオも、その一人です」
「バルトロメオ殿は」
「ええ。彼は、母の護衛騎士でした。だから、最初から俺のことを知っていましたよ。お嬢様の前でしらばっくれていたのは……おそらく、あなたを巻き込みたくないと思っていたからでしょう。俺もそれには同意見でした」
彼はふっと目を細めて私に微笑む。
「あなたには安全でいてほしいから」
「……」
「俺が十三歳になったくらいでしょうか、王妃陛下の追っ手が俺の存在を嗅ぎつけてきました。砦にいては、いつか見つかってしまう。そこで、ジークフリード様――お嬢様のお父様が、俺を引き取ってくださったんです」
「お父様が」
「ええ。ミストリオス公爵家であれば、王家もそう簡単には手を出せません。お父様は俺に剣を教え、自分の家の護衛騎士として育ててくださいました。表向きは、ただの孤児として」
紫色の目が潤んだように見えるけれど、たぶん暖炉の火の錯覚だろう。じっと話を聞いている老爺がいなければ、私はおそらく泣き出していた。
「だから……お嬢様の傍にいられたことが、俺にとって、どれだけ……」
言葉は尻すぼみになり、途切れた。
「お嬢様。あなたは俺にとって、光でした」
私は呆然とする。
何もできない、しないことを自ら選択したと思っていた。家名や血筋しか見てもらえないとふてくされた。それでいいと思っていた。悪者になりたくなかった。
でも、シドはそんなくだらない悩みなんて超越したところにいたのだ。だから私を……あんな優しい目で見ることができたのだ。
「母を失い帰る家も失って、名前すら失った俺に、お嬢様が笑いかけてくれました。俺はミストリオス公爵家に行って初めてただの『シド』になりました。族の血のことも、過去のことも、何も知らずにいてくれたあなたが笑って、甘えてきてくれることで俺がどれほど救われたことか」
「シド……」
「だから、隠していたかったんです。お嬢様を巻き込みたくなかったんです。俺は――俺はルパートが王位を継ぐのでいいと思っていたんです。王族だったことなんか忘れようと思っていた。ただ、お嬢様の騎士でいたかった。でもどうやら、この国の方が俺を放してくれないらしい」
彼はくつくつと低い声で笑う。
「ルパートに任せていてはこの国はだめになるでしょう。あんな女にいいようにされているのだから。止めなきゃいけない。王の子として。それが責務だから」
責務。
私は咄嗟に彼の荒れた大きな手を取った。
「それじゃ、一緒に背負うわ」
「お嬢様」
「あなたが王子だろうと、孤児だろうと、何だろうと。私にとって、あなたはシドよ。大事な家族よ。黒鷲砦にいても、どこにいたって関係ない。あなたが背負うもの、一緒に背負わせて」
彼の目が大きく見開かれた。紫色の星が飛んできそうなほど綺麗だった。
「私だってミストリオス公爵家の娘よ。でもルパート王子に唯々諾々と従って婚約破棄されて……。あの婚約破棄で、どれほどの人が困るかなんて考えもしなかったの。私一人が追放されたらそれでおしまいだと思っていたの。その甘い決断がこんな事態を招いたのだわ」
「それは違うよ」
「違わないわ。だから、だから――あなたと一緒に、ルパート王子を止めます。アリサの不気味な力と戦うわ。持てるものは全部使って。家の力も、私自身に力があるかわからないけれど、それも全部使う。一緒にやろう。一緒にいたいの」
「……敵いませんね、本当に」
彼はそう言って、両手で顔を覆った。笑っているのか泣いているのかわからない。私はその背中をぎゅうっと抱きしめた。彼の身体は硬くて大きくて、夜の匂いがした。彼の大きくて長い腕が伸びてきて、私もまたぎゅ、と抱きしめられた。
どちらともなく腕をといたとき、やっと老爺のことを思い出してものすごく恥ずかしかった。見るとベルナール老は壁際で、静かに涙を流している。
「殿下」
「……ベルナール、その呼び方は」
「いいえ、申し上げます」
老爺はハンカチを握りしめ、震える声で続けた。
「あなた様は、生きておいでだった。それだけで、私にとっては救いです。レティシア妃様にお仕えできなかったこの十五年、私はずっと、悔やんでおりました」
「ベルナール」
「あなた様が、無事にお育ちになったと知れただけで……これで、もう、何も恐れることはありません」
シドは目を伏せた。開いた時にはもう、紫色の目は揺れていない。彼はゆっくりと頷いた。
「ああ。後悔しない選択を、しよう」
そうして私たちは手を絡ませる。これ以上ないほど心強かった。




