第五十七話 もっとワガママに
「本当に、あそこで決めて良かったのか?」
帰り道。
彬は運転しながら、助手席の未来に尋ねた。
未来は窓の外を眺めながら、嬉しそうに笑う。
「うん。」
「日当たりも良かったし、家賃も今の部屋とあまり変わらなかったし。」
「それに……。」
少し照れくさそうに彬を見る。
「彬の家まで、自転車で十分くらいなのも嬉しいなって思って。」
「……そうか。」
彬は前を向いたまま、小さく頷いた。
少しの沈黙が流れる。
やがて彬が、意を決したように口を開いた。
「未来。」
「お願いがある。」
「何ですか?」
「マンションの敷金と礼金、それから保証人。」
「俺にやらせてほしい。」
未来は驚いたように目を丸くする。
「それは……駄目です。」
「私だって、社会人なんだから。」
「自分のことは自分でできます。」
彬は少しだけ困ったように笑った。
「分かってる。」
「未来が自分で払えることも。」
「でも……。」
一度言葉を切る。
「今回、引っ越しをしてほしいって言ったのは、俺の安心のためでもある。」
「だから、それくらいはさせてほしい。」
未来は黙って彬を見る。
彬は少しだけ視線を逸らした。
未来はしばらく考えたあと、小さく頷いた。
「……分かりました。」
「ありがとう。」
彬は、ほっとしたように息を吐いた。
そして、少しだけ照れくさそうに続ける。
「その代わり……。」
「悪いと思うなら、別の形で返してくれ。」
「別の形?」
「ああ。」
彬は未来を見る。
「週末でも、平日でもいい。」
「未来の手料理を食べさせてほしい。」
「え……。」
未来が目を瞬かせる。
「俺も、そろそろ会社の仕事が溜まり始めてるから。」
「明日から仕事に戻る。」
「だから毎日とは言わない。」
「でも……。」
彬は少しだけ視線を逸らしてから、静かに続けた。
「一緒に過ごす時間を作ってほしい。」
未来は驚いたように彬を見る。
「そんなことで……いいんですか?」
彬は一度だけ小さく息を吐いた。
「いいとか悪いとかじゃない。」
「俺のワガママだから。」
「……ワガママ、ですか?」
「ああ。」
彬は少しだけ苦笑する。
「一緒にいる時間が増えたから……。」
「もっと一緒にいたいって、思ってしまうんだろうな。」
未来はしばらく黙っていた。
そして、ふっと笑う。
「じゃあ……。」
「頑張って料理します。」
彬はすぐに首を横に振った。
「頑張らなくていい。」
「未来が作ってくれるなら、それだけで十分だから。」
「……はい。」
未来は嬉しそうに頷いた。
そして、ふと胸の奥で思う。
(私は……。)
(そんなに彬に寂しい思いをさせていたのかな。)
一緒にご飯を食べる時間も。
話をする時間も取らなかったのかな?
(過去の私は、何をしていたんだろう……。)
(彬のこと、好きじゃなかったのかな?)
記憶がないからこそ、分からない。
けれど今の彬を見ていると、自分が何か大切なものを置き去りにしてきたような気がした。
未来はそっと彬を見る。
「彬。」
「ん?」
「これからは……。」
少しだけ照れながら続ける。
「私も、彬との時間を大切にしたい。」
彬は一瞬、目を見開いた。
それから、いつものように少しだけぶっきらぼうに答える。
「ああ。」
「約束な。」
「はい。」
未来が笑う。
その笑顔を見ながら、彬は心の中で静かに呟いた。
(仮初めの恋人でもいい。)
(未来が俺の隣にいてくれる時間があるうちは。)
(もう少しだけ……。)
(この時間を、夢見させてくれ。)
彬はそれを口には出さず、未来の頭をそっと撫でた。
未来は驚いたように目を瞬かせたあと、嬉しそうに笑った。
人はどんどん欲張りになるものですね。
ブレーキが効くうちは良いのですが、
未来が真二の元で働く様になったら、
どうなるのでしょうか?




