第五十話 兆候
真二から聞いていた部屋番号──207。
彬はその前で足を止めると、壊れ物を扱うように未来をゆっくりと床へ下ろした。
「行っておいで。」
「俺はここで待ってる。」
未来は少し照れくさそうに笑う。
「ありがとうございます。」
彬は苦笑して肩をすくめた。
「未来。」
「敬語はいらないって言っただろ。」
「あと、感謝してるなら……彬って呼べ。」
未来は少しだけ照れながら頷く。
「……うん。」
「ありがとう、彬。」
その一言だけで、彬の表情が少しだけ柔らかくなった。
「行ってこい。」
「うん。」
未来は鍵を鍵穴へ差し込み、ゆっくりと回す。
カチャリ。
ドアを開けると、懐かしい香りがふわりと鼻をくすぐった。
「……。」
部屋の中は、大学の頃と変わらないくらいシンプルだった。
必要最低限の家具。
整えられた机。
本棚に並ぶ専門書。
どこを見ても綺麗に片付いている。
「変わってない……。」
未来はゆっくりと部屋を見渡した。
ふと、あることに気付く。
「あれ……。」
恋人なら、少しくらい二人で撮った写真があってもいいはず。
歯ブラシが二本並んでいたり。
彬の着替えが置いてあったり。
そんな痕跡を、無意識に探してしまう。
けれど――。
どこにも見当たらない。
「彬は……。」
「あまり、この部屋には来なかったのかな。」
記憶がない今の未来には、それが少しだけ不思議だった。
それでも深く考えず、小さく首を振る。
「まずは着替えを探さなきゃ。」
そう呟いて、クローゼットへと足を向けた。
クローゼットを開ける。
きれいに畳まれた衣類の中に、一着のパジャマが目に入った。
淡いクリーム色に、小さな雪の結晶が刺繍された柔らかな生地。
「これ……。」
手に取った瞬間だった。
――メリークリスマス。
どこかで聞いた覚えのある声。
包装紙を開けながら笑っていた自分。
『未来に似合うと思って。』
誰かが優しく笑っている。
次の瞬間――
ズキッ……
「っ……!」
激しい頭痛が未来を襲った。
目の前がぐらりと揺れる。
「いっ……た……。」
呼吸が浅くなる。
胸が苦しい。
何かを思い出せそうなのに、霧がかかったように掴めない。
「いや……。」
頭を押さえ、その場にしゃがみ込む。
その拍子に身体のバランスを崩し、
ガタンッ!!
開いたクローゼットの扉へ肩をぶつけ、そのまま大きな音を立てて倒れ込んだ。
部屋の外まで響く音。
廊下で待っていた彬が、すぐに反応する。
「未来!」
返事はない。
彬の表情が変わる。
「未来、どうした!」
「何かあったのか!」
一瞬だけ躊躇したあと、ドアノブへ手をかけた。
「悪い、入るぞ!」
勢いよくドアを開けると、
床には頭を押さえてうずくまる未来の姿。
その横には、投げ出されたクリーム色のパジャマが落ちていた。
彬は血の気が引く。
「未来!」
駆け寄り、そっと肩へ手を添える。
「しっかりしろ!」
未来は苦しそうに目を閉じたまま、小さく呟いた。
「頭が……。」
「痛い……。」
そして、震える声で続ける。
「このパジャマ……。」
「誰かに……もらった……気がする……。」
その言葉を聞いた瞬間、彬の表情が固まった。
(……記憶が。)
(戻り始めたのか……?)
部屋には、未来の荒い呼吸だけが静かに響いていた。
「初めて記憶が戻る兆候」
彬も未来も、真二も美香も。
それぞれの想いが交差する時期も近づいてきています。




