第一章9:神の静寂に触れるとき
≫観測補記:SIG-EX-B28-01
≫義体修復ログ確認──損傷率:57%
≫記憶同期:局所異常/“侵入スキル”パターン記録なし
≫再解析中──識別不能コードを検出
いつもの埃まみれの、あの薄汚れた工房ではなかった。
ここの灯りは瞬いたり途切れること無く、無機質な静寂のなかに灯っていた。光源の周囲だけが白く、ほかは灰色に沈んでいる。
ノアは仰向けに横たわっている。
修復中の義体は半分ほど外装を解かれ、幾重もの神経束を露出させていた。
動かない彼の傍らで、ザインは”オラクル”とは違う端末を手に持ち、眺めている。無言のまま、表示されている情報を、指先で一行一行をなぞるように。
やがて、言葉がこぼれた。
「……記録なし、か。ふむ……」
声音は落ち着いていたが、その内側には微かな苛立ちが潜んでいた。
「まあ……、分かっちゃいたがな。ログは何一つ残っていない。だが、観測ユニットの補記だけが、“不一致”を囁いている」
ノアはまだ目を閉じたままだ。が、ザインは彼が“目覚めている”ことを知っている。
「俺が異常通信を拾ったのは偶然だ。最下層の通信帯域なんて、本来は誰も使っていない層だ。そもそも存在が知られていない。そこに一瞬だけだが、ほんの一瞬だけ、呼吸のような“脈動”が走ったのを捉えたのさ」
ザインの視線が、天井へ向く。
「”神”の観測域に近いレイヤーでは、記録と記憶の境界が曖昧になる。あそこにいた“お前”は──記録されず、記憶にだけ焼き付いた」
ノアの瞼がゆっくりと開かれた。
「……脈動?」
「“呼吸”、と言っても良いかも知れん。おそらくエニアが意図せず漏らしたノイズだ。非常にか細く、まさに雑音のようだった。だがあの帯域は普通は沈黙している。当たり前だ、情報を発信するモノが無いからな。ノイズすら存在しない。だから、気付いた。……まるで、助けを求めているようだったぜ」
その言葉に、ノアの眉が微かに動いた。
「神……?」
ザインは続ける。
「……俺は、あの存在を“神”と呼ぶのには、いささか抵抗がある。いや……正確には、“語ること”ができないだけかもしれん。存在する確証が無いからな。だが、他の情報を統合、精査していくと”そういう存在が居る”とでもしないと、他との整合性が取れない」
沈黙。
静寂のなか、ノアが低く呟く。
「……あれは……見ていた」
それを聞いたザインが目を細めた。
「視られていた、のか?」
「……いや、……違う。……正確には、聞かれていた、と思う」
不思議な表現だったが、ザインは否定しなかった。
「そうか。お前の左目、そのレンズだけが、観測されざる領域を映せたというわけだな」
ノアはうなずき、そっと自身の義眼を押さえる。まだ、そこには熱の残滓があった。
「ザイン。あれは──本当に、神なのか?」
問いかけは静かだったが、どこか根源的な響きを含んでいた。
ザインはしばらく何も言わなかった。
やがて、ぽつりと呟く。
「もし、神が何かを観測することで世界が保たれているのだとしたら……それは、本当に“神”と呼べるのだろうか?」
ノアが目を伏せた。
ザインはその様子を見て、続ける。
「俺があれを“神”と認識したのは、お前のような存在を初めて見た時だ。記録ではなく、記憶に刻まれるシーカー──あり得ない、はずの個体」
その言葉に、ノアは何も返さなかった。
ザインの声が、ふっと軽くなる。
「ま、難しいことはあとだ。とにかく、今は修復が必要だ。半壊状態で再起動したのが奇跡みたいなもんだぞ。次はそこまでいく前に逃げろよな」
「……了解」
ノアは無表情で答えた。
「次があれば、だけどな」
冗談めいたザインの言葉に、ノアはわずかに目線を動かした。
◇◆◇
ノアのボディの修復が八割方終わった頃、ノアの”オラクル”が震えた。
【任務通知:再訪調査指示】
【依頼指名:SIG-EX-B28-01】
【対象地点:《神域端層──オルド・エニア》地下構造】
【目的:記録ログ不一致箇所の再走査/対象タグ付け処理の試行】
「また、地下か。しかも指名。こう何度も呼ばれるものか?」
いつの間にかノアのオラクルの情報はザインにも共有されていて、ザインも任務の概要だけは見ることが出来る状態にある。既にザインにいくつもの借りがあるノアは、そのことに関しては何も言うつもりはないらしい。
通知を見たザインは目を細めた。
「ま、”お前だから”呼ばれている、ってことだろうな」
ノアはゆっくりと身を起こした。まだ、身体の節々には違和感が残っているが、次の任務が“待っている”ことに、疑問はなかった。
「行ってくる」
「無理はするなよ。あまりやりすぎると、最後には整備の請求をアドミに回すことになる」
何でも無いことのようにザインはそう言い、ノアの肩を軽く叩いた。
ノアは黙って、しかし、しっかりと頷いてみせた。
◇◆◇
ノアの足音だけが響く、聖堂の深層。
灯りは最小限に絞られ、空気は凪いでいた。誰もいないはずの空間なのに、何かが見ている気配がある。記録ではない視線だ。何故だが、今のノアにはそれが分かった。
階層の縁を抜けて、彼は再び、あの円環の前に立った。
今、それは存在しないことになっている。観測タグは付けられず、レンズの映像も定義不能のまま保留されている。
だが──。
ノアの目には、それは、はっきりと見えていた。
「……戻ってきたぞ」
誰に言うでもないその言葉が、空気に沈んで消える。
再調査のオーダーは、あくまで“形式”だ。アドミの側も、本気で解明しようとしているわけではない。
《静域》の観測網が及ばないこの場所は、かつて“禁域”と呼ばれていた、と出掛けにザインが教えてくれた。
封鎖されていたわけではない。ただ、誰も触れようとしなかった。
……恐れていたのだ。
神の沈黙が、本当に“沈黙”である可能性を。
≫観測補記:義眼レンズが局所的パターンを再検出
≫記録ログと映像一致率:5%未満──同一視不可
≫現象識別:未定義構造体/タグ付け不能状態継続
円環の下に、通路がある。
前回、交戦により進入できなかったその奥へ今、ノアは足を踏み入れる。
天井が低くなり、壁面は有機的な紋様で満たされていた。
技術なのか、信仰なのか。
判別はつかない。
やがて、視界が開けた。
そこは、円形の部屋だった。
中心には台座。かつて神像があったと思しきそれは、今は空でありながら、圧倒的な“気配”を放っていた。
静寂。
だがそれは、観測ではそうなっているだけ。
──聴こえる。
(……まただ)
前回と同じく、ノアの義眼だけが拾う音があった。
それは言葉ではない。
意味のない揺らぎでもない。
限りなく近い、だが、決して届かない声。
彼は、ゆっくりと台座に近づく。
そのときだった。
≫接続試行:義眼レンズが上位レイヤー信号と干渉開始
≫識別不能な“記憶の断片”を検出──ログ変異開始
≫記録補記:観測値に位相ブレを検出/接続警告レベル2
光が、灯った。
台座の上に、“誰かの背中”が現れた。
それは人の形をしていたが、輪郭が曖昧で、まるで過去の夢のなかにいた誰かのようだった。
声も表情もない。ただ、背を向けて、座している。
(……君は……)
ノアの足が止まった。
この記憶は──知らないはずのものだ。
だが、懐かしい。
懐かしいという感情を、なぜ“今”抱いているのかもわからない。
だが、その背に──彼は、呼ばれていた。
≫映像ログ:未登録記憶との整合率 98%
≫タグ処理:保留/記録対象外フィールド
ふと、ノアの中で“像”が浮かぶ。
遠い過去。
まだノアが“ノア”として目覚める前の、何か別の存在だった頃。
そこに、この背中は、あった。
彼は、知らず知らずに右手を伸ばしていた。
触れようとする指先が、空気を震わせ──。
次の瞬間、部屋全体が“光”に包まれた。
激しい音はない。
ただ、眩いほどに静かな光だけが、あった。
レンズはすべての情報を遮断し、ログはすべて無効化された。
≫観測遮断:全領域リセット処理発動
≫接続終了──“神の観測”より除外されました
そして。
光のなかに、ひとつの“声”が、ノアにだけ、届いた。
「──見つけた、君を」
それは、かつて聞いたことのない、だが確実に“知っている”声だった。
性別も、年齢も、区別できない。
ただ、“呼びかける”声。
彼の存在を──“思い出した”者の声。
ノアは、目を閉じた。
そして、初めて自分の内側から何かがほどけていく感覚を覚えた。
プログラムでもなく、記録でもなく、ただ、“記憶”が──自らを認めた瞬間。
≫記憶補記:自己識別の再構築を開始
≫タグ処理:対象個体に再分類フラグ【Σ】が付与されました
──あたりを包んだ静寂は、終わりではなく。
それは、再起動の合図だった。