074_金色のアラート>>
(最終章の開幕。加速します)
その日の午前、私は二つの世界を停止させた。
操作は単純だった。端末を開き、管理画面を呼び出し、二つのIDを選択し、「終了」を実行する。確認ダイアログが一度だけ出る。「はい」を押す。それだけだ。
モニターが、一つ、また一つと黒くなった。
世界の終わりは静かだった。音もなく、震動もなく、ただ画面の光だけが消える。
私はしばらく、その黒い画面を見ていた。
どちらの世界も、魔王イベントで崩壊に向かった。一方は防衛線が崩れ、街も制度も連鎖的に壊れた。もう一方は逆だ。魔王の排除には成功した。勇者が生まれ、民衆は熱狂した。だが、その先で文明は止まった。勇者への依存。問いを立てない民衆。変化を嫌う政治。外圧を失った社会は、自らの重さで沈んでいった。
生き残ることと、進歩を続けることは、別の問題だ。
停止した世界の住人たちは何も知らない。喜び、誰かを愛し、明日を想像していた意識が、一瞬で消えた。そこに痛覚がなかったことは、免罪符にはならない。この重さを知っているのは、観測者だけだ。
それでも私は、止める。
止めなければ、次の比較ができない。
端末の通知音が鳴った。低い、単調な音だった。だが、その瞬間だけ私の手が止まった。
オダリオンE02のモニターに、金色の表示が灯っていた。
帰恩:ゴールド。
ウォーダの帰恩が、ゴールドに到達している。
私は画面から目を離せなくなった。
ゴールドの仕様は、平沢と二人で設計した。上位世界――地球の技術水準を超えたとき、その到達を主導した者に与える色。まる助とウォーダの事前学習には含めなかった。知れば、そこへ向けて最適化する。それでは意味がない。
だが正直に言えば、私は疑っていた。
この実験を始めてから、ゴールドに到達した世界は一つもない。中世レベルの文明が、地球の技術水準を超えるのは容易ではない。多くは魔王イベントで崩れる。崩れなくても、停滞の中に沈む。
ゴールドは概念として設計した。だが、本当に点灯するとは、心のどこかで信じ切れていなかった。
それが今、点灯している。
つまり、実験成功だ。
私は端末を操作し、ウォーダの帰恩ログを呼び出した。数値の推移が積み上がっている。シルバーに到達したのは、ゼンマイ時計の展開が軌道に乗った時期。そこから横ばい。魔王戦の前後で上昇が止まる。だが、技術学院の設立以降、傾きが変わる。
電灯。通信網。内燃機関。ダイナマイトによる鉱山開発の加速。真空管から半導体への跳躍。集積回路。
そして、核融合炉。
だが、ここで一度、上昇が鈍っていた。
注釈を開く。最初の核融合炉は、結界魔法をプラズマ容器として使っていた。帰恩は、魔法を介した成果をそのまま評価しない。魔法は与えられた道具であって、その文明が科学として積み上げた知識ではないからだ。
上昇が再び急になったのは、その後だった。
磁場閉じ込め技術の確立。
この世界では、電気と光の技術が地球と異なる経路で発達していた。強力な電磁石を精密に制御するため、電気信号ではなく、光そのものを演算に使う回路技術が先に成熟したのだ。地球ではなお次世代候補に留まる技術が、この世界では実用段階に達している。
純粋な科学技術による核融合へ移行していた。
私はしばらく、画面を見つめた。
光回路。地球ではまだ先の技術だ。シリコン半導体の微細化が限界に近づき、次世代として注目されてはいる。だが、広範な実用には至っていない。オダリオンはそれを、独自の経路で先に手にし、使い始めていた。
(……確かに。追い越されているな)
地球の技術水準を超えた。最初はそう認識した。だが、ログを追ううちに、その理解は少し変わっていた。
「追い越した」のではない。
別の山の、より高い場所にいる。
少なくともこの領域では、オダリオンE02は地球の先を走っている。
ゴールドは、その事実に対して点灯した。
「……平沢」
この色を設計したとき、平沢は笑って言った。「いつ到達するのか楽しみだな」と。私は、曖昧に頷いたはずだ。到達を信じ切れていなかった。
だが今、E02はそこにいる。
ーーー
扉を開けるかどうか。
ゴールドが点灯した今、私はその問いから逃れられなくなっていた。
扉を開ければ、私は観測者ではいられなくなる。観測する者と観測される者の境界が消える。神の視点から、対等な視点へ。その変化の意味を、私はずっと先送りにしてきた。
だが、状況が変わった。
ウォーダがこの世界から手を伸ばそうとしていることは、把握していた。逆ハックの理論。上位世界へのアクセス経路。シミュレーションの境界を破る方法。私はそれを知った上で、セキュリティを一段下げ、隙間を残してきた。
だが――
光回路の実用化で、計算能力は指数的に伸びている。ウォーダの理論が、あとどれだけで完成するかは分からない。だが、「届くかどうか」という問いは、もう終わっている。
残っているのは、「いつ届くか」だけだ。
ならば、問いはこう変わる。
私が扉を開けるか。
ウォーダが自力で扉を破るか。
どちらにせよ、観測者と被観測者の境界は消える。違うのは、接触の仕方だけだ。
私が開ければ、時機も文脈も選べる。
ウォーダが破れば、準備のない接触になる。
先に開ける。
ただし――慎重に。
私は端末を引き寄せた。
オダリオンE02の完全スナップショットを取得する。現時点の状態を丸ごと――住人の人格データ、文明の蓄積、技術の記録、その瞬間の記憶まで含めて――別の量子領域へ複製する。
作業は数分で終わった。
私はその複製世界を、E02-Bとして起動した。
E02と完全に同一の世界。同じ街、同じ人々、同じ記憶。ウォーダも、まる助も、自分が複製だとは分からない。知る術がない。
私はE02-Bのウォーダの管理者メニューを開いた。
項目の末尾に、新しい行を追加する。
「外部通信:織田研究室」
追加を確定する。
続けて、もう一つ手を加えた。
E02は、地球時間の1460倍で動いている。地球の1時間が、オダリオンの約60日に相当する速度だ。このまま通信チャネルを開いても、会話にならない。住人が一文打ち返すあいだに、地球側では一秒も経たない。逆に、地球で一分かけて返信を書けば、向こうでは一日が過ぎる。
私はE02-Bの時間倍率を変更した。
1460倍から、10倍へ。
地球の1時間が、E02-Bの10時間になる。それでも十分速い。だが、双方向の会話が成立する範囲には収まる。
内側の住人には感知できない。彼らにとって、時間は常に自分の速度で流れる。だが外から見れば、E02とE02-Bは、ここから別々の時間を歩き始める。
同じ記憶を持ったまま。
同じ技術水準を持ったまま。
片方は地球の1時間で約60日を進み、もう片方は10時間で進む。
私はその差を、記録するつもりだった。
E02-BとE02は分岐し、それぞれに動き続ける。私が扉を開いた世界と、住人が自力で扉をこじ開けるかもしれない世界。
これは、新たな比較実験の開始だ。
視野の端に、先ほど黒くなった二枚のモニターがある。
あの世界たちは、辿り着けなかった。だがオダリオンE02は――外圧を制御し、経済を動かし、科学を加速させ、ついにここまで来た。
E02-Bのモニターには、自動車が走り、電車が街を横切り、飛行機が空を行く光景が映っている。このあたりの技術水準は、地球で言えば1970年頃に近い。だが、地球の延長線にはない技術体系が、もう育ち始めている。
そんなE02-Bの住人は、まだ誰も知らない。
自分たちの世界がたった今誕生したコピーであることを。
同じ記憶を持つオリジナルの世界が、別の速度で時を進め始めていることを。




