『東部諸邦便覧』地誌篇
学術都市アーク・ライブラリ刊
地誌編纂者による東部五公国の概説
まえがき
本書は、東部に位置する五つの公国、すなわち「神胤諸公国連合」の地勢、産業、風俗および諸事情を、域外の編者の立場から記したものである。
なお、同連合の為政者たちは、自らを「神の血を引く選ばれし者」と称することで知られるが、その真偽については本書の扱うところではない。
(第一章 ネルドリンゲン公国より抜粋)
ネルドリンゲン公国は、神胤諸公国連合の最北に位置する山岳国家である。
冬季は長く、積雪も深い。国土の大半を険しい山地と針葉樹林が占めるが、北方との交易路にあたる大隧道を擁することから、連合内でも有数の商業収入を誇る。
大隧道の検問要塞ノルド・ゲートには、年間を通じて多数の商人や運送業者が往来する。関税の徴収は厳格であり、通行証や積荷目録の不備には十分注意されたい。
当地の家具は堅牢さと精緻な木彫で知られ、なかでも北部産の良質な木材を用いた調度品は、諸公国の貴族間で高く取引されている。毛皮製品もまた主要な輸出品のひとつである。
住民は質実剛健を旨とし、過度な虚飾を好まないとされる。ただし、これは必ずしも倹約家であることを意味しない。当地の富裕な商人の邸宅には、他国の宮殿にも劣らぬ豪奢な家具が並ぶことがある。
なお、冬季の山道を軽装で越えようとする旅人は、現地の案内人から例外なく愚か者と見なされる。
(第二章 アルテンブルク公国より抜粋)
アルテンブルク公国は、連合中北部の冷涼な高台に位置する。
白亜の断崖と広大なブナやオークの森を有し、年間を通じて湿度が低い。この風土は書物や羊皮紙の保存に適しており、旧帝国から受け継がれた膨大な文献が集積する学術の地として知られる。
当地の貴族は血統と家格を殊のほか重んじ、旧帝国時代から続く慣習を今日までよく保存している。宮廷礼法は他国に比べて厳格であり、とりわけ服飾と贈答に関する作法は細かい。
貴婦人が屋内においても手袋を着用する風習は、その代表例である。初めて当地の社交界を訪れる者は、あらかじめ礼法書に目を通しておくことが望ましい。
主要な産物には高級羊毛織物、羊皮紙、銀器、精密工芸品などがある。また、良質な乗用馬の産地としても名高い。
当地の古文書を閲覧するために訪れる学者は少なくないが、書庫への立ち入りには相応の紹介状を要する場合が多い。
アルテンブルクにおいては、金銭よりも家名の方がよく通用することがあるためである。
(第三章 レオポルド大公国より抜粋)
レオポルド大公国は、神胤諸公国連合の中央に位置し、同連合の盟主を擁する国家である。
広大な平原と温暖な気候に恵まれ、穀物、葡萄、畜産物の生産量は諸公国随一を誇る。とりわけ小麦の品質は高く、当地で焼かれる白パンは周辺諸国にも広く知られている。
大河沿いには製粉所や食品加工場が立ち並び、穀物の集積と流通を支えている。
政治の中心地でもあることから、宮廷には諸公国の使節、貴族、商人が絶えず出入りする。建築や服飾には金色や鮮やかな色彩が好まれ、宮廷儀礼は華麗を極める。
統治家は旧帝国皇族の血統を継ぐとされ、これが連合盟主としての権威の重要な根拠となっている。
他方、豊かな農地の周辺には草地飛竜が出没することがあり、家畜の被害も少なくない。主要な街道から外れて平原を旅する場合には、十分な警戒を要する。
当地を訪れる者は、その宮殿の壮麗さに目を奪われがちである。しかし、大公国の富の源泉は宮廷の金箔ではなく、果てしなく続く麦畑にあることを忘れてはならない。
(第四章 モルダウ公国より抜粋)
モルダウ公国は、連合中南部の河川と湿地が入り組む地域に位置する。
温暖多湿の気候と豊富な水資源を有し、薬草栽培、調合薬、香料、ガラス工芸などが盛んである。当地の調合師が製する薬品には、他国では入手の難しいものも多い。
西方の黒市都市と境を接することから、交易は活発である。ただし、その流通経路は必ずしも明瞭ではなく、出所の定かでない商品が市場に現れることも珍しくない。
水路の多い都市部では船による移動が一般的であり、黒い石材や色ガラスを用いた建築が独特の景観を形成している。
住民は商談に長け、契約の文言に細心の注意を払うことで知られる。
旅行者に対しては、当地で売買される薬品の効能を安易に信用しないこと、また、価格の安さのみを理由に素性の知れぬ運送業者を雇わないことを勧める。
モルダウでは、尋ねたことには答えが返ってくる。
ただし、尋ねなかったことまで教えてくれるとは限らない。
(第五章 シルヴァーナ公国より抜粋)
シルヴァーナ公国は、神胤諸公国連合の最南端、大河の河口と外洋に面する海洋国家である。
温暖な気候と長い日照時間に恵まれ、柑橘類、葡萄、綿花などを産する。沿岸部では漁業と水産加工業が盛んであり、魚介の塩蔵品や燻製は内陸諸国にも広く出荷される。
最大の産業は海運と造船である。
当地の港には南方諸国から多数の商船が寄港し、香辛料、宝石、真珠、織物など、さまざまな品が取引される。造船所の規模は連合随一であり、その船舶は商業のみならず海上防衛にも用いられている。
街路には白い石造建築や色鮮やかなタイルが多く、服装も北方諸国に比べて軽やかである。住民は外来の風俗に寛容で、異国の言葉が聞こえることも珍しくない。
ただし、外洋には大型の海棲魔獣が出没する海域も存在する。航海に際しては船長の経験と航路の選定が重要となる。
なお、港湾市場では、旅人が異国の珍品を法外な値で買わされることがある。
これについて当地の商人は、しばしば「旅の思い出には相応の値がつくものだ」と弁明する。




