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「蒼羽さん」
草原の中を歩きながら、緋天がぽつり、と言葉を落とした。
レンガ作りの建物がもう目の前に見えている。風に乗ったその声が、耳に柔らかく入って。
「ん?」
何気なく返事をするのが、随分と難しく思えた。
そんなこと、今まで一度も気にかけたことがなかったのに。自分の名前を紡いだ緋天の声に、心臓が震えた気すらした。
「あのね、昨日、あたし、前のバイト先に謝りに行ったんですよ」
緋天の足が止まっている。
少しだけ空いた距離が、もどかしい。
「なにも・・・何も分かってなかったのに、いきなり辞めてごめんなさい、って言ったら。店長がね。日曜だからすっごい忙しいのに、休憩室に連れて行ってくれて」
うつむいて、彼女は言葉を続ける。
これは、緋天が自分だけに言おうとして、だから、こうやって道の途中で止まっているのだと。何となく、そう思った。とにかく緋天は必死で何かを伝えようとしている、そんな風に思えたのだ。
「・・・それで、あの時はごめんね、って逆に謝られて。店長と、デパートの支店長に怒られた時に、事務室にいたんですよ。あたし達は、テナントの人間で。周りは全員、デパートの社員で。支店長の前で、店長があたしを庇ったら、これからの仕事に支障が出るから、ってそう思って。厳しくあたしを叱ったんだ、って・・・。嫌な思いしたでしょ、本当にごめんね、って。大人なのに、あたしに、頭、下げてくれて」
視線をいつまでも下に向けたまま、緋天が小さい声で言うので。
泣いているのかと思って、手を伸ばそうとした。
「本当にあたし、何も分かってなかったんだ、って思ったら。店長が、わざわざ来てくれてありがとうって言うんです。人に教えられてやっと分かったんです、って、蒼羽さんが話してたことを言ったら。その人はなんだかすごいね、って。あたし、それが、すーごくうれしかったです」
顔を上げて、笑って、自分を見る。
その笑顔にどこかほっとした。
緋天の髪が傾きかけた日に光って、とてもきれいだと、心から思う。
つややかな黒髪が明るい茶色に透けていて。
「髪。染めないのか?」
「え?・・・えっと、別に必要ないですし」
「お前の年代のアウトサイドはみんな染めてる」
「うーん。でも、なんて言うか、自分の髪の色、嫌いじゃないですから」
唐突に出した問いに、困惑した顔を見せはしたものの。
真面目に答えるその様子に、口元が緩んでしまう。
「ん。・・・きれいだ」
左手が、自然と緋天の肩口におりた髪に伸びる。ようやく縮まった距離なのに、もっと彼女に近づきたい、と思う。
そのまま、一房を手につかんで、そっと持ち上げた。
指先に触れた、手触りのいい緋天の一部。
それだけで、経験のない充足感を覚えて。
信じられないほど、それが愛しい。
ああ、壊してしまう、と思いながらも不思議と心は落ち着いていて。
緋天の目を見ながら、そのきれいな髪に口付けた。
「そ、蒼羽さん・・・?」
気付いたら、緋天が驚いた顔で自分を見ていた。その頬が染まっている。
拒否をされていないという事実は嬉しかったが、これ以上彼女の傍にいるのは、今は痛かった。緋天から離れる。
「・・・悪い。先に帰ってろ」




