36
まさか、と思った。
自分の目を疑って、何度も胸元の結晶の反応を確かめた。
「っ、頼むから、やめてくれ」
彼女だけは、やめてくれ。
ベースを出てから、結晶の反応の強い方に向かった。
反応の一番強い所で、待ち構えていると、いつのまにか、近くに具現化した人間の思念が現れる。それがいつものパターンなのに。
急に結晶の光が弱まって、何かおかしいと感じたのだ。しばらく辺りを歩き回ると、信じられない事に、ベースの方向に向かうにつれて、どんどん光が強くなった。
無事でいてくれ、と祈りながら、レンガ作りの建物に向かって走る。たどりついて、玄関に向かって、庭を通り抜けようとしたら、何かの違和感。
芝生から、ところどころ、土が見えている。
プランターが、いくつか倒れている。
玄関の扉が、開け放されている。
急いで胸元に目をやると、先程示していた光よりも、反応が弱くなっている。
違う。ここではない。
ほっとして、息をついてから、気付く。
何故、玄関の扉が開いているのか。
何故、風もないのに、プランターは倒れているのか。
勢い込んで、部屋の中に入る。笑って出迎えてくれる人間は、どこにもいなかった。二階にも、緋天が入った事のない、ベリルの部屋にも。
どこにも、いない。
木が密生する、森の入り口。
半透明の怪物と、その腕に絡め取られた緋天。
どうして、と。嫌だ、と。
何物にも、彼女を害して欲しくはない。
今それを思っても仕方がないのに。それでも、そう思わずにはいられなかった。
遠めに見ても、その腕の中の緋天は、ぴくりとも動かない。
冷たいものが全身を駆け巡って、立っていられるのがおかしく感じてしまう。
既視感。
こんな、雨の日に。
人生が、反転した。
大事なものを、奪われたのだ。
あの時と違う事は、ひとつ。
彼女はまだ消滅していない。
何かに操られたかのようにナイフを投げる。
自分の体を怒りが支配していて。それがナイフを投げ続けていた。許さない、緋天を奪うことは許さない。神に祈ることはしなかった。過去に祈った時は、あっさりと無視されたのだから、きっと自分の願いなんて聞き入られることなどないのだ。それならば、自分で奪い取ればいい。
正確に。操られていても、動いているのは自分の体だから。
機械的にすりこまれた、ナイフを投げる技術。それが、今の自分には備わっていた。雨を処理する能力が。
またたく間に雨が結晶化していくけれど、それを見届けることすら、もどかしかった。
地面に投げ出された緋天に駆け寄る。
彼女は自力で起き上がって。呆然とした表情を見せた。
それを見たら、不覚にも涙が出そうになって。
「・・・怪我はないか?」
音に出したそれは、自分でもおかしいと笑えるほどに。低くかすれて、不安定なものだった。もう少しで、震えてしまう。指先を揺らす、その動揺を隠し、そして。
緋天に近寄りながら腕を伸ばすと。びくりと彼女の肩が震えて後ずさる。
うつろな目をした緋天の肩に触れようと、また手を伸ばして、もう一度声をかけた。
「・・・おい」
「やっ!!」
自分の手が、緋天の腕に触れた。
その瞬間、彼女は腕を跳ね上げて、こちらの手を払いのける。自分を拒否する。触るなと、言わんばかりに。
「やぁっ、いやぁ!」
腕を振り回して、後ろへ逃げようとする彼女。
「・・・落ち着け、俺だ」
パニックを起こしているのだ、とようやく理解して声をかける。
それは今までに出した覚えのない、優しい響きを伴っていた。それを耳にして、どこか遠くの、ずっと昔の何かを。自分の中に呼び寄せた気がした。忘れていた、何かの欠片が戻ったような。
手を伸ばして、緋天を腕の中に閉じ込める。
そんな風に怯えないで欲しい。自分を見て欲しい。
「・・・緋天。俺だ」
回した腕から逃れようと暴れていた緋天の体から、力が抜ける。
「落ち着け。もう何もいない。お前を傷つけたりしない。怖くない」
ああ。
きっと、これは。自分に言い聞かせている。
傷つけないから、傍にいて。柔らかな何かが、体の中で生まれているようだった。どこまでも優しく、落ち着いた気持ちになって。
抵抗をやめた彼女に安心して欲しかった。
「・・・そう、う、さん」
自分の腕の中で、静かに涙を流す、その存在が。
たまらなく、愛しくて。
体の奥に眠る、暗い衝動も、今はどこにも感じない。
大粒の雨が、いつのまにか、細かい霧に変わっていた。




