第三十八茶番 感情保安庁における感情管理政策について論じなさい
――感情保安庁本部。
採用試験会場。
広い室内には机が規則正しく並び、その一つ一つに、感情保安庁を目指して集まった受験者たちが座っていた。
誰も喋らない。まだ伏せられたままの問題用紙から漂う紙の匂いと、僅かに椅子が軋む音、誰かが息を呑む気配だけが、これから始まる試験を前にした独特の緊張を伝えている。
「……」
カヨナは小さく息を吐き、無意識に右耳へ触れた。
指先には小さな太陽。反対側にはひまわり。そして胸元には、ゆかりから渡された古びたお守りがある。
昨日までのことを思い出す。
山積みの参考書。ユウカの講義。ホシの解説。椅子へ縛り付けられながら、何度も解いた問題集。
そして――。
『みんななかよく』
「……ふふっ」
思い出したら、少しだけ笑えた。
逃げたいとは何度も思ったし、実際に逃げようともした。それでも今日は、逃げない。
カヨナは一度だけ深く息を吸い、顔を上げた。
――アタシなら出来る。
試験官席では、ユウカが手元の書類を確認していた。
いつもの柔らかな表情ではない。今の自分は試験官であり、数百人いる受験者の中でカヨナだけを特別扱いすることは出来ない。
それでも視線が一度だけ、遠く離れた席へ向かった。
ちゃんと座っている。逃げていない。
――まずは第一関門。
心の中でそう呟き、ユウカは僅かに息を吐いた。
本当なら声を掛けたい。
大丈夫です。
頑張ってください。
貴女は一人ではありません。
けれど今は、どれも言えない。
だから胸の中だけで。
――頑張ってください、カヨナさん。
試験開始を告げるベルが鳴った。
伏せられていた問題用紙が、一斉に表へ返される。
カヨナの、剣を持たない戦いが始まった。
◇
試験開始から三十分。
会場を満たしているのは、紙をめくる音とペン先が走る音だけだった。カヨナも問題用紙へ向かい、一問ずつ答えを書いていく。
「……あれ?」
ペンが止まった。
だが、それは分からないからではない。
「……簡単」
小さく漏れた。
分かる。ちゃんと分かる。
昨日まで何度も間違えた問題も、ユウカに説明されたことも、ホシに補足されたことも、頭の奥から次々と出てくる。
逃げようとして捕まり、それでも何度も繰り返した時間は、ちゃんと自分の中に残っていた。
「……!」
カヨナのペンが再び走り始める。
遠くからその様子を確認したユウカも、ほんの僅かに表情を緩めた。
――思ったより出来ていますね。
心配しすぎていたのかもしれない。
カヨナは、やれば出来る。
このままなら、たぶん、きっと、おそらく、いける。
そんな希望が見え始めた。
そして――一時間後。
カヨナのペンは、完全に止まった。
「……」
問題を見る。
『感情保安庁における感情管理政策について論じなさい』
「…………」
首が傾いた。
次の問題を見る。
『感情素子流通管理法の基本理念を説明しなさい』
「………………」
さらに次。
『感情保安庁職員として必要な資質を述べなさい』
「…………………?」
さらに傾いた。
分からない。
先ほどまで頭の中から次々と答えが出てきたのに、突然、何も出てこなくなった。
カヨナは問題用紙をじっと見つめる。
問題用紙も、じっと見つめ返しているような気がした。
もちろん、答えは教えてくれない。
「……変なの」
問題は変ではない。
おそらく。
変なのは、つい先ほどまで絶好調だった彼女の頭の方である。
周囲ではペンが走り、紙がめくられ、時計の針だけが進んでいく。みんなが先へ行く中、カヨナだけが動かない。
「うーん……」
問題文を読む。考える。もう一度読む。
それでも、出てこない。
遠くの試験官席で、ユウカは静かに額へ手を当てた。
――止まりましたね。
やはり来た。
あれほど勉強したとはいえ、一晩でどうにかなるほど世の中は甘くない。
カヨナは眉間に皺を寄せ、問題用紙と本気で睨み合っている。
その顔は、昨日まで勉強から逃げ回っていた人間のものではなかった。
真剣だった。
一問でも、一文字でも、自分の力で答えようとしている。
ユウカの指先が、手元のペンへ触れた。
助けたい。
ほんの一瞬、その思いが身体を動かしかけた。
けれど、指は止まった。
カヨナは、自分でここに居たいと言った。自分で試験を受けると決めた。今ここに座っているのも、誰かに命じられたからではない。
ならば、ここから先は彼女の戦いだ。
「……不粋なことは、よしましょう」
誰にも聞こえないほど小さく呟き、ユウカはペンから指を離した。
助けたい気持ちは消えていない。
だからこそ、今は手を出さない。
ユウカは背筋を伸ばし、再び試験官の顔へ戻った。
ただ、見守る。
カヨナが自分で選んだ場所へ、自分の力で辿り着くために。
時計の針が、また一つ進んだ。
カヨナの前には、まだ白い解答欄が残っている。
残り、五分。
「……」
分からない。
それでも今日は逃げないと決めて、ここまで来た。
なら――。
カヨナは一度だけ目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
そして、もう一度問題用紙へ向き直る。
カヨナの指が、ペンを握った。




