第三十三茶番 詰めの甘さ
夏の午後。
特務隊筆頭室には、いつもの面々が揃っていた。
窓から差し込む陽射しは強く、感情素子式の空調が室内を一定の温度に保っている。外では蝉が鳴き、机の上には書類が積まれ、ソファではゆかりが我が物顔でくつろいでいた。
そして、その中央。
ヒロは正座していた。
「陽主様」
「はい」
「もう一度、確認いたします」
ユウカは眼鏡の位置を直し、手元の端末へ視線を落とした。
「陽主様は、カヨナさんを追うために大型ダンプカーを使用しました」
「したな」
「その後、警察の制止を振り切りました」
「急いでたからな」
「港へ到着後、既に出航していた客船を追跡するため――」
ユウカの指が止まった。
「紫色の競泳用パンツ一枚で海へ飛び込みました」
「そこは重要か?」
「極めて重要です」
即答だった。
ソファから、ゆかりの笑い声が飛んでくる。
「ゲハハハハ! 紫ブーメランパンツ筋肉ォ!」
「うるせぇ」
ホシは窓際で腕を組んだまま、深いため息を吐いた。
「……続けろ」
「はい。その後、常識では説明困難な速度で客船を追跡。途中で一度通過し、最終的には何故か船上へ到達されました」
「間に合っただろ」
「普通は間に合っておりません」
先日も聞いた。
ヒロは僅かに目を逸らした。
その様子を、カヨナはソファの端から不思議そうに眺めていた。黒いポニーテールが、小さく揺れる。
あの日、一度は遠ざかっていった場所へ、カヨナは戻ってきた。
誰かに引き留められたからではない。
自分で帰ると決めたから。
だから今、こうしてこの部屋にいる。
ただし、どうやら帰ってきた早々、目の前の筋肉は怒られているらしい。
「そして」
ユウカが端末を机へ置いた。
「客船上でカヨナさんを無事に引き留め、その後、私が手配したヘリコプターで帰還されました」
「そうだ」
「大変結構です」
「おう」
「では――」
眼鏡の奥の瞳が細くなる。
「本来の目的は?」
「……」
沈黙。
「陽主様?」
「……」
ヒロの眉間に皺が寄る。何かを思い出そうとしている。
ゆかりが身体を起こした。ホシもヒロを見る。カヨナも見る。
全員が見ている。
やがてヒロは、ゆっくりと口を開いた。
「……何だっけ?」
ユウカのこめかみが動いた。
「採用試験です」
「あ」
「あ、ではありません」
冷たい声だった。
「そもそも陽主様がカヨナさんを追われた理由は、感情保安庁の採用試験を受ける意思があるか確認するため。そして――」
ユウカがヒロを見る。
「カヨナさんへ、居合についてお話しするためでしょう?」
「ああ」
完全に思い出した顔だった。
「忘れてた」
「でしょうね」
あれだけ走り、あれだけ泳ぎ、あれだけ飛び、船まで追いかけた。
そして、本来の用件を忘れた。
詰めが甘いにも程がある。
もっとも、あの時のヒロにそんなものを思い出している余裕があったのかは、また別の話である。
「えっと……」
カヨナがおずおずと手を挙げた。
「アタシ……採用試験を受ける予定だったんですか?」
「予定じゃない」
ヒロが正座したまま答える。
「受けないかって聞く予定だった」
「なるほど!」
分かったらしい。
たぶん。
「それで、どうする?」
「どうする……」
カヨナは少し考えた。
感情保安庁。特務隊。
自分がこれまで生きてきた場所とは、何もかも違う。
ここへ帰ってきたいとは思った。みんなと、もう少し一緒にいたいとも思った。
けれど、ここで働くかどうかは、また別の話だ。
「……まだ、分かりません」
カヨナは素直に答えた。
「そうか」
ヒロも、それ以上は言わなかった。急かすことも、説得することもない。
その返事にホシが僅かに頷き、ユウカも何も言わなかった。
決めるのはカヨナだ。
ただ、それだけだった。
「でも」
カヨナが顔を上げる。
「居合っていうのは……ちょっと気になります」
「そうか」
ヒロが立ち上がり、部屋の隅に立て掛けてあった祢々切丸を手に取った。
「なら、見てみるか?」
「はい!」
返事は早かった。
「お前、二本の剣を使ってただろ」
「はい。瑞鶴と翔鶴です」
一瞬だけ、カヨナの声が静かになった。
もう、ここにはない二振り。
けれどヒロはそこへ踏み込まず、そのまま話を続けた。
「あの戦い方を見てて思った。お前は力で押し切る剣士じゃない」
「そうなんですか?」
「速い。身体も柔らかい。それに、最初の一歩がいい」
「最初の一歩?」
「ああ。動き出す瞬間に、ちゃんと力を溜められてる」
カヨナは自分の足元を見る。
そんなことを考えて戦ったことなどなかった。ただ生きるため、勝つために、身体が覚えたまま剣を振ってきた。
「だから、お前は居合に向いてるかもしれない」
「……居合」
聞いたことはある。だが、まともに見たことはない。
「難しいですか?」
「難しい」
「強いですか?」
「使う奴次第だ」
「かっこいいですか?」
「かっこいい」
即答だった。
カヨナの目が輝く。ヒロも僅かに口角を上げた。
「剣士なら、一度は憧れるものだ」
そして、妙に自信満々に言った。
「まさに――浪漫だ」
「ロマン……」
カヨナが目を丸くする。
そして何かを理解したように、大きく頷いた。
「ロマンはロマンスです!」
「……」
ヒロが止まった。
ホシが目を閉じた。
ユウカが眼鏡を押し上げた。
ゆかりだけが笑った。
「ゲハハハハ! 嬢ちゃん、何言ってんだ!」
「えっ!? 違うんですか!?」
「知らねぇよ! 筋肉に聞け!」
「ヒロさん!」
「俺にも分からん」
誰にも分からなかった。
それでも、興味を持ったのなら十分だった。
「行くぞ」
ヒロが扉へ向かう。
「どこへですか?」
「道場だ」
カヨナが立ち上がる。その黒いポニーテールが、嬉しそうに跳ねた。
「居合、見せてくれるんですか?」
「ああ」
「ロマンですか?」
「たぶんな」
「ロマンスですね!」
「それは知らん」
二人の声が廊下へ遠ざかっていく。
残された三人は、しばらく黙って扉を見ていた。
「……大丈夫でしょうか」
ユウカが呟く。
「何がだ」
「色々とです」
もっともな心配だった。
こうしてカヨナは、また一つ知らないものへ足を踏み出した。
まだ、特務隊へ入ると決めたわけではない。ここで生きていくと決めたわけでもない。
ただ、見てみたい。知ってみたい。
その程度でいい。
未来というものは、案外そんな小さな好奇心から動き始める。
そしてこの日、カヨナは初めて――鞘の中に眠る剣と出会うことになる。




