二章 第5話:ただひとり、昨日を識る者
【1】
朝。
窓の外では雪が降り続いている。
そして様々な残響が入り乱れ、とても正常な光景ではない。
アマネは布団の中でゆっくりと目を開いた。
周りを見ても、部屋には誰もいない。
自分で布団に入った覚えがない。
その時、頭を過ぎる。
――昨日が、変わった。
身体の奥に残っている記憶が、はっきりと告げていた。
昨夜、窓から街を眺めていたこと。
オルフェンが「頼んだよ」と最後に言ったこと。
世界の空気が揺れたこと。
それらは確かに起きた。
するとコン、コンと。
部屋の扉を叩く音が聞こえた。
「おはようございます」
覚えのない女性の声。
頭が追いつかないまま、アマネが恐る恐る扉を開く。
目の前には四十代ほどの女性が立っていた。
「おはようございます、お客さん。今日も良き綴りを」
アマネは確かめるように聞いた。
「おはようございます。あの……あなたは……?」
「やだ、昨日も話したじゃないですか。私の宿ですよ、ここは」
「え、あ……そうでしたね。ごめんなさい」
「ふふ。他の人はもう下にいますよ。
ご飯も用意しましたから、皆さんで食べてください」
少し冷える階段。
一階へ降りると、食卓にはカズヤとオルフェン、キリヤが座っていた。
机の上には紅茶とパンが並んでいる。
オルフェンはパンを齧りながら手元のモニターを眺め、キリヤは紅茶を啜る。
アマネに気づいたカズヤが、真っ先に声をかけた。
「お! アマネ、おはよう」
「うん、おはよう。みんな早いね」
「今日から調査だからな。準備しとかねえと」
アマネは困惑を隠せなかった。
「……今日、から?」
⸻
【2】
アマネは椅子に座りながら言う。
胸の内に沸き出たものをはっきりとさせる為に。
「私達、昨日一度街を回ったよね?」
三人が一斉にアマネを見る。
状況をすぐに飲み込めない様子で、カズヤが瞬きをする。
「……アマネ?」
キリヤも眉を寄せた。
オルフェンはただアマネを見ていた。
しばらくの間の後、ふっと笑う。
「完璧じゃん」
紅茶をズズズっと飲む。
キリヤはオルフェンへ目線を送る。
「推測通りですか」
「だね。
彼女の言う通り、僕らは確かに、昨日この街を回ったんだ。
なーんも覚えてないけど」
カズヤは、オルフェンやアマネの顔をキョロキョロと見るしかなかった。
「なんだ!? 分かってないの、俺だけか?」
「うん、君だけー。
日を跨ぐと同時に、僕らは昨日の記憶を失ったんだよ。
そして――アマネ・チャペックだけは覚えている」
暖炉の火が弾ける音だけが部屋に響く。
カズヤが慄いた。
「……アマネ。本当……なんだな?」
アマネは俯いたまま答える。
「……昨日、みんなで街を巡ったよ。
でも結局手掛かりは無くて、そのまま夜になって、宿から街を見てた。
0時になった瞬間、世界が揺れる感じがして……気づいたら、寝てた」
オルフェンは、楽しそうに手を叩いた。
「良い感じだ!
……で、君は昨日のこと、どれくらい覚えてる?」
「えっと、昨日は南区と西区を回って、そこにあった残響はある程度覚えてる……かも。
でもそんなに自信は……」
「ふーん。
記憶力はあてにしてなかったけど。ま、そんなもんか」
カズヤとキリヤが同時にオルフェンを睨む。
「アマネにそういうこと言うの、やめてくんねえか」
「失礼です、その言い方」
「はいはいごめん」と意にも介さず、オルフェンは続ける。
「じゃ、僕らにとっては初めてだけど、君は全部知ってる前提で話すよ」
アマネは小さく頷いた。
「昨日は南区と西区を回ったんだよね。
今日は……そうだね、手分けでもするかい?
北と東も見ておかないとね。その辺りは外典の区画だから、ちょっと危険だけど」
カズヤの耳がピクリと動く。
「外典の? 正典と外典で分かれてたりすんのか」
キリヤが説明する。
「アトラシアは元々、外典や罪を犯した者が流れ着く土地でした。
この都市の始まりも、彼らの為の収容地だったのです」
「収容地……」
「ですが、この大陸は昔からエーテルの濃度が濃く、鉱物資源も豊富に存在します。
その為、研究者や鉱夫、商人――正典も移り住むようになりました。
南と西は正典、北と東が外典の居住区画として、明確に分けています」
カズヤは腕を組んで少し考えた後、静かに口を開いた。
「……北と東。そこ、見ておきたい」
オルフェンが眉を上げる。
「気になるかい? どうせ忘れちゃうかもよ」
「関係ねえよ。
意味は無くても……何かできるもんがあるかもしんねえだろ」
そこにアマネが割って入った。
「私なら、忘れない。
そこで見たもの、ちゃんとカズヤに教えるよ」
その言葉に、オルフェンは興味なさげに目を逸らす。
「ふーん……じゃ、僕とキリヤは昨日の場所を再観測。
君らは北区と東区。
ただしお勉強の時間は必要だから、20時までには戻ってきてね」
カズヤとアマネが立ち上がる。
「決まりだな!」
「うん。行こう!」
ふたりは荷物を背負ってそのまま扉へ向かい、外の白い光の中へと消えていく。
⸻
【3】
扉が閉まると同時に、部屋の中には再び暖炉の音だけが残った。
オルフェンは少しぬるくなった紅茶を一口飲み、窓の外へ視線を向けた。
「――正典と外典。そんなに重要?」
ぽつりと呟くと、キリヤがその言葉を拾う。
「重要です。そういう世界なので。
……筆聖としてあるまじき発言ですよ、それは」
淡々とした口調で釘を刺す。
オルフェンは小さく肩をすくめる。
「いやー分かってるよ。立場上ね。
秩序を維持する為の区分。正しく管理する為のラベル。必要なのは理解してる」
視線は外したまま、紅茶を揺らす。
「でもそれって“結果”でしょ。
生きて、世界を識ったあとに貼られるものじゃん。
最初からそれで区切ってたら、見えるものも見えなくなる」
暖炉の火が、ゆらりと揺れる。
「――くそつまらないんだよね」
キリヤは僅かに沈黙した。
否定はしないが、肯定もしない。
「……それでも、線引きは必要です。
秩序をもって人が判断し、導く為には」
オルフェンがくすりと笑う。
「真面目だねぇ」
キリヤも、視線を窓の外へ向けた。
雪の都市。歪んだ残響。
その先にある“正典”と“外典”。
「正直なところ、興味はありません。どちらがどちらかなんて」
ぽつりと零す。
「ですが、仕事ですので」
それだけ言って、口を閉じた。
オルフェンは少しだけ目を細める。
「好きだよ。そういう割り切り」
そして一瞬だけ、眼鏡の奥でさらに視線が鋭くなる。
「線引きはどうでもいいけど……。
アレらがこの世界にとって何を意味するのか。そこは気になるよ」
白い都市の奥へと走り去った、ふたりの足跡を見つめて。
「今回の件が終わったら――ちゃんと話さないとね。
その為に、わざわざここまで呼んだんだ」
暖炉の火が、静かに揺れていた。




