第5話:筆聖
【1】
夜が明け始めていた。
霧が薄くなり、湿った風が森を撫でていく。
洞窟の入口では、ヴァージニアが岩に背を預けたまま、両腕を縛られていた。
痛みも恐怖もなく、ただ冷たく澄んだ沈黙があった。
何度問いかけても、彼女はほとんど表情を変えない。
「……本当に、何も話さないつもりか?」
カズヤが呆れたように問う。
ヴァージニアは薄く笑った。
「私は何も知らない。命令に従っただけよ」
その声は、氷が割れるように乾いていた。
しばらくして、空が白み始める。
森の影が色を取り戻し、鳥の声が遠くから響いた。
アマネが静かに立ち上がった。
「行こう。これ以上、ここにはいられない」
「……ああ」
彼らにできるのは、彼女を縛ったまま置いていくことだけだった。
アマネは最後にちらりと振り返る。
朝靄の中で、ヴァージニアの姿は淡く滲み、やがて見えなくなった。
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【2】
太陽が昇り、ふたりは南へと歩き続ける。
「うー。眠い……」
アマネの声には限界ぎりぎりの疲労が滲んでいた。
その呟きに、カズヤは居心地の悪そうな顔で詫びる。
「……悪かった。
俺が寝てる間に戦ってくれてたんだよな……助かったよ」
アマネは首を振り、少しだけ笑う。
「謝らなくていいよ。私がやるべきことだったから」
そして、軽く冗談めかして言う。
「ちゃんと寝れた?」
カズヤが肩をすくめて苦い顔をした。
「はいはい、ぐっすり寝れました!」
「ふふっ。冗談だよ。助けてくれてありがとう」
「お互い様な」
ふたりの間に、柔らかな笑いがこぼれた。
フォーンシティまではあと一日。
彼らの影は、朝日を背に並びながら、ゆっくりと長く伸びていった。
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【3】
――セントラル・ドミナ大陸。
大書院が本拠地を構える、世界の中心。
その上空を、監査局の飛空挺が滑るように進んでいた。
深紅の外殻に刻まれた大書院の紋章が、朝日に淡く光る。
窓辺に佇み、セイル・オーウェルは無言で地上を見下ろしていた。
遠くに、リムランドの大地が薄く霞んで見える。
手元の通信端末が点滅し、小さく指を触れると、声が聞こえてきた。
『……監査局第二課、ヴァージニア・ブローディ』
セイルは淡々と応じた。
「報告を」
『任務失敗。対象は逃走中。
……申し訳ありません。
拘束を試みましたが、例の外典の介入もあり』
「――そうか」
セイルの表情はほとんど動かない。想定通りといった具合だ。
だが、その瞳の奥には静かな光が宿っていた。
「気にするな。〈導灯の残響〉で“捕捉”はできたのだろう?」
『はい。彼女がどういう経路を辿っているのか、いつでも観測可能です』
「十分だ。目的は達成した。一度戻れ」
通信機越しに、ヴァージニアは一瞬だけ眉をひそめた。
『……最初から、捕縛が目的ではなかったのですか』
セイルは微かに笑う。
「ふ…。君の残響は戦闘向きではないだろう」
『……』
ヴァージニアは何も返さなかった。
通信が途切れ、ノイズの余韻だけが空気に残る。
操舵士が振り返る。
「隊長、まもなくセントラル・ドミナ中央です」
「了解した」
セイルは上着の襟を整え、窓の外を見た。
霧の切れ間から、白く輝く塔――筆聖院が姿を現した。
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【4】
セントラル・ドミナの中心に聳える、白金の尖塔である筆聖院。
天蓋を支える柱はすべてエーテルの結晶でできており、
近づくほど空気が澄み、音が吸い込まれていく。
この場所に足を踏み入れた者は、誰もが言葉を失い、息を潜めるという。
筆聖――それは世界の七大陸をそれぞれ統べる、七名の最高責任者。
行政、記録管理、裁定、秩序の維持。
あらゆる権限を掌握し、大書院の頂点に立つ存在。
人々は、敬意と畏怖をもってその名を口にする。
筆聖に仕える秘書官に案内され、セイルは重厚な静寂に包まれた廊下を進む。
白磁の床を踏むたび、わずかな靴音が壁に吸い込まれていった。
廊下の最奥、荘厳な両開きの扉の前で足が止まる。
秘書官が一礼し、扉の向こうへ報を上げる。
「セイル・オーウェル様が参られました」
かすかに震える光の帳の向こうから、静かな声が響く。
「……入りなさい……」
扉が開いた瞬間、視界を白が包んだ。
床も壁も天井も、淡く光を放つ文字の紋様に覆われている。
それは“記録”そのものが空間を構成しているかのようだった。
中央の円卓に座る壮年の女性――
筆聖、グレース・ユルスナール。
リムランドを統べる筆聖。
白銀の外套に刻まれた筆聖の紋章。
灰と銀の混じった長い髪を肩に流し、瞳は琥珀の光を宿している。
その姿は、慈悲と威厳、そして“世界を記す者”の静かな威光を帯びていた。
セイルは膝をつき、深く頭を垂れる。
グレースは短く息をつき、丁寧な語り口調で言葉を紡いだ。
「ご苦労様でした。セイル・オーウェル隊長。
急遽来ていただいたのは――。
今リムランドで起きている“いくつかの異常”についてです」
「異常……消えた人々の件ですか」
「ええ。“存在の消失”……昨日だけで三件。
被害はリムランド大陸全土に拡大しています。
特別調査室でも、原因の特定には至っていません」
声は淡々と落ち着いていたが、その奥にはわずかな憂いが滲んでいた。
セイルは口を開く。
「――書状にあった、アマネ・チャペックの件との関係は?」
グレースはわずかに目を細めた。
「彼女は、残響を失った史上初めての人間です。
そして――“存在の消失”の最初の被害報告と、彼女が残響を失った日は同じだった」
沈黙。
セイルの眉がわずかに動く。
「つまり何らかの関係があると?」
「関係があるのではなく、“同じ事象の両側”なのかもしれません。
どちらにせよ、異常は排除されねばならない。
記録から外れた存在は、いずれ綴りそのものを崩しかねない」
「……“保護”とは名ばかり、ですね」
グレースの瞳が静かに光を帯びた。
「秩序のための、記録の清めです。貴方も理解しているでしょう?」
「……」
セイルはただ、深く呼吸した。
グレースはゆっくりと立ち上がり、白い手を掲げる。
「二つ、命じます。
一つ――アマネ・チャペックの動向を監視し続けること。
もう一つ――“存在の消失”の件で、監査局は特別調査室と合同で調査にあたること。
……その記録が、次の正典を導くでしょう」
セイルは無言で頭を垂れた。
静かな祈りの声が、筆聖院の奥で微かに響いていた。




