サブエピソード:ある綴士の一日
【1】
朝の鐘が鳴る前に目が覚めた。
起きる理由があるわけではない。
ただ、遅刻するわけにはいかないという感覚だけが、体に染みついている。
顔を洗い、パンを一切れ食べ、外套を羽織る。
鏡に映る自分は、どこにでもいる三十代の男。
特別なところは何もないが、それでいいと思っている。
うむ、悪くない朝。
世界の中心、セントラル・ドミナ。
さらにその中心にあるのが、大書院本部。
本部を囲うようにして都市が広がり、《正典》の人々が生活を送っている。
白を基調とした、整然として穏やかな街並み。
自分は結構気に入ってる。
今日も朝から慌ただしかった。
本部の入口の受付では、既に列ができている。
赤子を抱えた母親、書類を握った老人、苛立った表情の男。
「おはようございまーす」
警備担当に軽く頭を下げ、エーテル照合のゲートを潜って中へ入る。
廊下には、紙束を抱えた綴士達が行き交い、奥からは誰かの怒鳴り声が聞こえる。
「だからその書式は旧式だって言ったじゃん!」
「先週はこれで承認取れてたんすよ!」
「はぁ!? なんじゃそら!」
これもまた、いつもの光景。
⸻
【2】
所属は第四綴課・判定局。
朝礼は三分で終わる。
課長が前に立ち、咳払い。
「えー……、本日も件数が多いので、皆さん迅速に処理しましょうね。
あと、監査局から照会が来ている案件は優先で」
以上、誰も発言などしない。
「では今日も一日、良き綴りを」
「「「良き綴りを」」」
業務開始、各自まばらに席へと戻る。
午前の仕事は残響判定だった。
装置に手を置いてもらい、エーテル位相を読み取る。
単純作業に見えるが、判断は簡単ではない。
正典寄りか、外典寄りか、判定保留か。
境界は常に曖昧だった。
装置の判断が主だが、綴士による記憶の“目視”も大事。
今日最初の子供は問題なかった。
迷うことなく《正典》の位相。
念の為、装置のモニターで記憶を覗いた。
『川のせせらぎの音。そして、芽吹く植物から滴る雫』
うん、目視でも問題なーし。
母親も泣いて喜ぶ。
「ありがとうございます……!」
一応こっちも、軽く頭を下げた。
別に礼を言われる仕事でもないだろう。
⸻
【3】
本日五件目の判定。
少年。
そして母親が緊張した顔で座っている。
装置の光が揺れ、位相を確認する。
……微妙。外典傾向が少し強い。
母親が声を震わせる。
「大丈夫……なんですよね?」
すぐに答えられず、もう一度位相を見る。
並行して前例検索、家系履歴。そして目視での記憶確認。
モニターで、少年の宿す記憶を覗いた。
『若者が、妹を殴っていた父親に対して刃物を向けた。
父は血の上に倒れ、若者は震えているが、妹は喜んでいる』
うーん、これは。確かに微妙な部類。
「……再検査に回します」
母親の顔が青くなる。
「そんな……なんで……」
「まあ、確定ではありませんので」
事務的に返すしかない。感情を乗せると仕事にならないんだ。
⸻
【4】
お昼。
職員は一斉に休憩を取る。
食堂は混んでいた。
ありがたいことに、食事は無料。
プレートを持って列に並び、メニューの中から食べたい物をおばちゃんに伝え、受け取る。
なんとか空いたテーブルに、同僚達と座る。
「今日人多くない?」
「何かあったっけ?」
「監査局がピリピリしてるらしいよ」
「そんなのいつもじゃん」
そんな会話をしながら、ややしょっぱい気がする野菜スープを飲む。
若手がボソッと漏らした。
「外典って……そんなに危険なんすかね」
ベテラン女性が即答する。
「そりゃあもう、危険よ〜」
間が空く。
それ以上は誰も言わなかった。
⸻
【5】
午後、再検査結果が届いた。
少年の位相。外典傾向強。
……確定。この後を考えると、少しため息が漏れてしまう。
母親との面談室に入ると、彼女はすぐに立ち上がった。
「どうでしたか!?」
「《外典》判定となります」
母親の口が開いたまま止まる。
数秒後、崩れた。
「そんな……嫌……」
少年は黙って母親を見ていた。
状況を理解していないのか、しているのか分からない目。
母親に縋りつかれる。
「お願いします……もう一度検査を!
この子は優しいんです! 悪い子じゃ、ないんです……」
何度も何度も見てきた光景だった。
「規定に基づいていますから」
嘘ではないし、再検査しても無駄。
覆る方法なんて知らない。
⸻
【6】
夕方。
判定書を作成する。
さすがに書き慣れた。
分類番号。位相記録。家系履歴。最終判定。
すでに《断章化》の手続きも済ませた。
少年は、今後記録に残らない。生きていたことにならない。
最後に確認印を押す。
はい。これで終わり。
日が落ちる頃、監査局から通知が届いた。
例の少年は追放対象。
追放予定は明日。母親の方も手続きを済ませている。
どうやら、一緒にセントラル・ドミナの外へ出るそうだ。
まあ、そうなるだろうなとは思った。
特別な感情は湧かない。
……湧かないはずだった。
ペンを取って日報を書く。
本日処理件数:31件
うち外典判定:1件
⸻
【7】
帰り道。街には灯りが点き始めていた。
他人の家から漂う夕飯の匂い、街の喧騒。
犬の吠える声、子供の笑い声、色々。
どこにでもある夜。
ふいに空を見上げてみたが、考えることはあまりない。
明日も同じ仕事をする。
同じように記録を書く。
同じように判定する。
それが、綴士としての自分の仕事。
そういえば、昨日用を足してた時。
残響を失ったとかどうとか聞こえたんだけど、本当だろうか?
そんなことあり得ないし、まあどうでもいいや。
大書院の奥。
記録庫の棚には、無数の人生が並んでいる。
名前。分類。事実。
全てが紙の中に収まっている。
今日も一冊を棚に戻した。
そして次の書類を手に取る。
ペン先が紙に触れ、インクが滲む。
世界は、今日も綴られていく。
「夕飯、何にしようかなー」
残響詩篇
〜 ある綴士の一日 〜 完




