一章 第36話:果てなき荒野の終着点
【1】
ヴァリウスの世界が崩れ去っていく中で。
メキースは、ふっと笑った。
あらゆる障害を払い除け、やっと友と正面から向き合えたような、そんな表情。
血の滲む唇で、かすれた声が風に溶ける。
「やっと……君に、説教できるよ」
出てきたのは、この場にあまりにも似つかわしくない言葉。
ヴァリウスは不意を突かれた。
「……ふ……」
張り詰めた心が緩み、低い笑い。
そして――
「フハハハハハハハハ!!!!!」
爆ぜるような笑い声が、二人の世界を震わせた。
「お前はここにきて、
この極地で……この状況で、説教だと!?」
それはあまりにも、人間的な笑いだった。
メキースも釣られるように笑った。
「はは…っ。もう他に、いつやるんだい……」
二人は、しばらく笑ったまま黙っていた。
戦場で、何度も見た光景。
背中を預け合い、生き残った夜の記憶。
その延長線上に、今がある。
やがて、メキースの声が落ち着く。
「……なあ、ヴァリウス。君はさ……」
「何だ」
「君は――自分を、信じすぎてるだけだ」
ヴァリウスから、笑みがゆっくりと消えた。
「……ほう」
「他人を信じていないわけじゃない。
できなかったら、自分が悪い。守れなかったら、自分が弱い。
失敗したら、自分の責任。そうだろ?」
ヴァリウスの眉が、わずかに歪む。
「……それの何が悪い。
俺がやれるなら、俺がやる。
背負えるなら、俺が背負う。それが――責任だ」
メキースは首を振った。ゆっくりと。
「違う。それは……ただの、“過信”だ」
「…………」
感情が、一瞬揺らぐ。
メキースは言葉を紡ぎ続ける。
「自分ならできるって信じすぎたんだ……。
幼い頃からずっと、本当にできてしまったんだろう。
それが君の幸運であり不運だと、私は思うよ」
声が、少しだけ震える。
「今の君も、過去の失敗の揺り戻しなんじゃないか?
だから失敗した時……誰も責めないくせに全部自分を責める。
――そういう男だよ、君は」
蒼空の裂け目から、風が流れる。
ヴァリウスは、しばらく黙っていた。
やがて、低く呟く。
「……それが、悪いとでも?」
「悪いさ。悪い。最悪だ」
メキースは即答した。
「それは、誰にも未来を渡さないことだ。
頼らず、君が全部抱えたまま――独りで終わる。
その時、君の周りに託せる者がいるかい?」
ヴァリウスの喉が、わずかに鳴る。
「……俺は……」
言葉を探す。
「俺は皆を……この大地と空を、守りたいだけだ」
メキースは微笑んだ。それは友を見る目。
「知ってるよ。だから皆、君に付いていくんだ」
一歩、踏み出す。
「――頼れ。
私でも、君の弟子でも、誰でも。
風で詠まずとも……本音を交わせば、心を共にできる」
ヴァリウスの瞳が揺れた。ほんの一瞬。
「……お前は……相変わらず、厄介だな」
メキースは笑う。
「ははっ。今さらだろう。
頼りないと思ってるなら……試してみてあげてくれ。
きっと彼らは――乗り越えてくれる」
もう、言葉はいらなかった。
互いに分かっている。
ここまで来た理由も。ここで終わる意味も。
「……もう、十分だな」
「ああ……。十分だ」
メキースはゆっくりと歩み寄った。
そして――友の背へ、これまでの歩みを労うように手を置いた。
そこには、無数の光の糸。
感情の綴りとの結節点。
指先に意志を込め、荒野が静かに広がる。
孤独が、優しく包む。
――断つ。
世界から音が消え、綴りとの繋がりがほどけていく。
光が風に還る。
ヴァリウスの身体から、重圧が抜け落ちる。
神でも、器でもない。
ただの人へ。
⸻
【2】
メキースはふと、視線を逸らした。
「……そうだ」
震える腕で、己の剣を引き抜いた。
あれほどの戦いを経ても刃は折れず、濁らず、澄んでいた。
「カズヤ君。これを」
「――!?」
突然宙を舞った剣を、カズヤは反射的に掴んだ。
――というより、掴まされてしまった。
軽く、しかし異様な存在感を放つ剣。
不思議と拒まず、初めから自分の手にあったと思わせるような。
「《イシュトリナ》という。
創世の巫女の名を冠する剣だ――君に託すよ」
カズヤは、溢れ出そうになる感情をぎゅっと抑えた。
「貰っていいもんじゃねえのにな……」
カズヤはそれ以上言葉を紡げず、強く柄を握った。
ただ、感謝を。
「――ありがとう」
メキースはもう言葉にならないまま、カズヤとアインへと微笑んだ。
荒野と天衡が、静かに溶けていく。
二つの物語はゆっくりと、頁を閉じた。
⸻
【3】
風が、元の速さに戻った。
裂けていた蒼空は、縫い直された布のように静かに張り、
歪んでいた光の糸は、どこか遠い場所へ引き潮のように退いていく。
《ソリスタの聖壁》は風の音が響く場所を取り戻した。
そこに残るのは――何かが終わったという、取り返しのつかない静けさだけだった。
メキースは、どこにもいなかった。
影も、声も、遺っていなかった。
「……っ」
カズヤの喉の奥で何かが詰まる。
目線を上げると、空が近い。感情の行き先が分からなくなる。
アインも同じだった。
言葉が見つからないのに、拳だけが硬くなる。
怒りでも悲しみでもない、ただ燃やす場所のない熱。
そして、ヴァリウスがいた。
背にあったはずの光の糸は消え、あれほど世界を歪めていた“重さ”も消えている。
息が荒れるでもなく、膝が折れるでもなく、ただ――そこに立っていた。
むしろ、どこか澄んで見えた。
大嵐が去った後、空だけが異様に青く、透明に広がる時のように。
ヴァリウスは一度だけ、ゆっくりと息を吐いた。
自分が今、確かに“人の身”としてここにいるという確認。
そして、消えてしまった友の言葉を、胸の内に響かせるように。
「……互いに、奴から託されたというわけだ」
その声は低く、揺るがない。
哀悼ではない。終わりを受け取った者の、責任の響き。
ヴァリウスは視線を上げ、蒼空を一瞥する。
「さて……、可能性ども」
言葉が、空の上を滑って落ちる。
名ではなく、役割。
「お前達は――どうする」
風がひとつ鳴いた。
カズヤは剣を握り直した。
手の中には、託された剣《イシュトリナ》。
さっきまでメキースの手にあったはずの重みが、今は自分の掌に馴染んでいるのが、腹立たしいほど自然だった。
もっと話したかった。
もっと知りたかった。
喉の底で暴れる感情が、確かにいる。
だがそれより先に、背中を押す感覚があった。
「……決まってんだろ」
カズヤの声は少し掠れていた。
けれど、言葉の芯だけは折れていない。
「あんたの友達が、命を賭けて俺らに託したんだ。
――んなら、やることは一つだろ」
アインも笑った。
笑ってしまった、という方が近い。
胸の奥が焼けるから、笑って息を通すしかない。
「そういうこった。
……感傷に浸んのは、全部終わってからだな」
⸻
【4】
ヴァリウスは二人を見た。
初めて真正面から、心から、二人の姿を見た。
その眼に侮蔑はない。
在るのは、測るような静けさ。
「勝ち目は薄いぞ。それでも、俺に挑むか」
カズヤの握る《イシュトリナ》の鍔が、冷たく指に当たる。
その冷たさが、逆に自分を現実に縫い止めてくれる。
アインが火槍を肩に担ぎ直す。
獲物を強く握り、覚悟を研ぎ澄ませ、息が鋭くなる。
同時に、応える。
「「当然だ!!」」
ヴァリウスは微かに目を細めた。
笑ったのかどうかは分からない。だが、空気が一段だけ澄んだ。
「ならば――来い!!!!」
圧が、空の頂に強風を吹かせた。
その大剣に、先ほどまでの異次元の重圧はない。
だが刃の意志だけは、何ひとつ欠けていない。
風が鳴く。
蒼空は、裂け目の跡も見せずに、ただ高く広がっていた。
――託されたものは、悲しみに浸る為の花束じゃない。
ここから先は勝ち負けではない。
応えられるかどうかの、試練の場。
戦いの綴りは、第二節を迎える。




