一章 第33話:もう戻れない場所へ
【1】
冷たい夜、焚き火の小さな炎が揺れていた。
戦う為に生き残っている者達が、たった数刻だけ“人に戻れる”時間。
剣を置き、明日の死を数えることを一旦止める、短い猶予。
その輪の端。
火に照らされる二つの影が、向かい合っていた。
どっしりと巨躯を沈めるように腰を落とし、簡素な食事をガツガツと貪る男。
もう一方は杯を手に、味を確かめるようにゆっくりと喉を潤し、火の粉の行方まで見ているような目をしている男。
「今日の戦いも見事だった。
ヴァリウス……やはり君は強いな」
ヴァリウスが反応し、食べる手を止めないまま返事をする。
「ふん、嫌味か? さっき俺を助けた男が」
「やっと借りを返せただけさ。以前の借りをね」
メキースはそう言いながら杯をひと息にあおった後、
もう一つの杯に酒を注ぎ、ヴァリウスへと差し出した。
「だが……君が落とした拠点の攻め方。
あれはなんだ? たった一人で無茶な攻めをする。
なぜ君が今、ここで酒を飲めているのか分からないよ」
ヴァリウスは無言で杯を受け取り、飲み干す。
その動作にためらいはなく、戦場の敵と同じ速度で酒が減った。
そして即答した。
「あの状況、やらなければ何人も死んでいたかもしれん。
だから――やれることを全部やったまでだ。
できることを捨てる理由がない」
メキースは、乾いた笑いをした。
「頼もしい言葉だがな……そういう理屈が一番危険だ」
その笑いは軽いのに、目だけは笑っていない。
「君は強い。そして正典だ。
世界は君を、“正しい”側に置きたがる。
だから君が剣を振るえば、自然とそれは“秩序”になる」
ヴァリウスが低く返す。
「何が問題だ?」
「強いから、できるからと……。
君が何でも抱えたら、最期に残るのは秩序じゃない。君の骨だけだ」
ヴァリウスはしばらく黙っていた。
そしてまた、ぐいっと酒を飲み、口を開いた。
「――問題なかろう」
メキースの指が止まる。
「……ん?」
「俺が崩れない限りは誰も死なん。
俺が生きている限り、大勢を守れる。
その証としての骨なら、何も問題はないだろう」
あまりにも真っ直ぐで、あまりにも残酷で。
そしてその残酷さが、おそらく無自覚に、彼自身に向いているからこそ。
――メキースは言葉を選ぶことすら腹立たしくなった。
「君は、ほんとに……」
最後まで言い切れない。
叱らなければ、こいつはまた独りで背負う。
だが叱れば、この焚き火の時間が――“人に戻れる時間”が壊れてしまう。
短い沈黙。
メキースはゆっくりと立ち上がり、手を伸ばしてヴァリウスの杯に酒を注ぐ。
それは励ましや赦しではなく、ただ戦友としての手続きだった。
「……飲め。明日もまた地獄だ」
「お前はもう少し、戦いを楽しめ。
地獄も慣れれば、居心地が良かろう」
「なら、慣れる前に終わらせないとな」
焚き火の炎が揺れ、二人の影が寄っては離れ、また重なる。
夜はまだ深い。
そして彼らはまだ知らない。
――この夜の先、互いに刃を向け合う未来を。
⸻
【2】
蒼空に浮かぶ円環。
刃が触れた瞬間、二人の影は弾ける。
空気が爆ぜ、さらに次には縁を蹴って宙へ舞い、風脈の乱流を足場にして空を蹴る。
相も変わらず、ヴァリウスの剣が振り抜かれる度に空が裂ける。
衝撃だけで石が剥がれ、紋様が砕ける。
怒りが熱を生み、恐怖が圧を生み、祈りが重さを生む。
――彼の大剣は世界の心音すら、武器へ変えてしまっている。
メキースはその全てを、受けない。
受ければ潰れる。
刃を滑らせ、角度をずらし、動きの一寸を奪い差し込もうとする。
「感情は世界を焼く!!!」
ヴァリウスが吠える。
背後で光の帯がうねり、まるで大陸そのものが同意しているように轟く。
「焼くとも!それが感情だ!」
メキースは叫び返す。刃を走らせながら。
「だがそれは、人が人である証だ!!」
火花。斬撃。轟音。思想。
――剣がぶつかる度に、言葉より雄弁に、価値観が擦れ合う。
そして、ヴァリウスの眼が鋭くなる。
大剣の構えが低く、重く、世界の底へ沈むように変わる。
それと同時に、背後の感情が一段と濃く束ねられていく。
メキースは本能で理解する。
次の一撃は、あらゆる物を押し潰す。
(来る――!)
ヴァリウスの大剣が振り抜かれた瞬間、世界の“硬さ”が一段変わった。
刃が届くより先に圧が来る。
圧が来るより先に、空気が潰れ、風が千切れ、
次の瞬間には《ソリスタの聖壁》そのものが――斬られていた。
壁面に巨大な裂け目が走る。
刃が当たった場所だけではない。
聖壁の紋様を縫っていた光の流路が、衝撃に耐えきれず一斉に割れた。
メキースは間一髪でその斬撃を避けていたが。
「――逃がさん」
ヴァリウスの追撃が来る。
「――!!」
当然のように飛ばされる巨大な斬撃。
メキースは避けない。避ける時間がない。
剣が、ヴァリウスの斬撃と正面からぶつかり合い――。
ガァァァァァァァァンッ!!!!
衝撃が、空を揺らした。
受けた瞬間、刃の角度をずらし、外へと捨てたはずだがそれでも。
「……っ、ぐ……うぅ!!!」
押し込められるように、
メキースの身体は円環の壁面へ叩きつけられた。
血が口内で鉄の味になる。
なおヴァリウスは追う。
巨大な体躯が空を裂き、感情の奔流が背を押す。
「止めると言ったなメキース!
だが止まるのは! お前だ!!!」
刃が横薙ぎに走り、壁をまとめて切断する。
反応したメキースは空を踏み、逃れた。
壁が崩壊し、瓦礫がそのまま浮く。
メキースは。
その崩壊の中で――笑った。
それは恐怖ではない。
ようやく、この男と同じ地獄へ立てたような、喜びの笑いだった。
⸻
【3】
外。蒼空。
草原の彼方。
だが爽快さなどなく。
むしろ空気は薄く、冷たく、研がれている。
ここは世界の高み、世界の“縁”だ。
ヴァリウスの巨躯が空を蹴る。
踏みしめる足場など無いのに、風脈が彼の意思を受け止め、跳躍の度に空間が歪む。
メキースはさらに軽い。
そこに一瞬の足場が生まれ、彼はその“無”を踏んで走る。
空の中。
剣と剣が交差し、火花が散り、落ちた破片が雲海へ沈む。
そして――周囲の浮島が、巻き込まれ始めた。
余波が岩盤を砕き、風脈を裂き、島の縁が崩れていく。
浮島の断崖が割れ、巨岩が宙へ浮き、次の瞬間にはヴァリウスの剣圧で粉砕され、砂のように散る。
剣戟は、言葉すら置き去りにした。
空が裂ける。聖壁が震える。浮島が崩れる。
二つの意志が、互いの存在そのものを世界へ刻み込む為に、ただぶつかり合っている。
――そして。
ほんの一瞬。
ヴァリウスの背で束ねられていた感情の流れが、わずかに乱れた。
その乱れは、目では見えない。
だがメキースには“視えた”。
剣士ではなく、繋がりを断つ者として。
世界に生じたほんの僅かな綻び。縫い目がほどけかけた刹那。
「――そこだ」
息のような声とともに、メキースは消えた。
刃が走る。
乾いた線が、光の束を縫い裂き――
ヴァリウスの胸元を一閃、真っ直ぐに斬った。
「っ――ぐぅッ!!!!!」
巨軀の血が宙に散り、風がそれを赤い霧として運ぶ。
空を仰ぎながら、戦いを見守っていた二人。
カズヤの握る手が強くなる。
アインが一歩踏み出しかける。
だが――
同時に、それは。
すでに振り切られていた。
ヴァリウスの大剣。
衝撃が空の密度を叩き割り、蒼穹に白い亀裂のような軌跡が走った。
メキースの身体が、その中心で弾かれた。
――蒼空を断つ、斬撃。
「…か………ッ……!!!」
命に届く傷。
勝敗を分ける一手。
それでもメキースは落ちなかった。
落ちることすら拒むように、剣を握り続け、空の縁で踏み止まった。
世界は、決定的な瞬間の手前で――息を止めた。
ヴァリウスの胸元に走る傷が、確かに“結果”として残っている。
だが、その代償として。
――メキースの身体は、もう戻れない場所へ踏み込んでしまっていた。




