一章 第30話:感情束ねる空の中心
【1】
エルダレンの集落では、静かな異変が広がっていた。
夜明けはもう、草原の端を淡く染めている。
空は冷たく澄み、風だけが、どこまでも遠くへ伸びていく。
集落では人々が火を起こし、荷を運んでいた。
誰もが知っている。
――今、浮島では戦いが始まっている。
だからこそ本来なら、ここはもっと騒がしいはずだった。
不安の声が混じり、祈りは切実に震え、
時には怒鳴り、泣き、縋りつくように空を見上げる者もいるはずだ。
笑い声も話し声も、確かにある。
祈っている者もいる。
風除けの布の下で手を組み、
焚き火の前で目を閉じ、空の向こうへ届ける言葉を、胸の奥で編んでいる。
「どうか、無事で」
「風を取り戻せますように」
「皆が戻ってきますように」
口に出された願いは、形を保っている。
――けれど、その音はどこか薄い。
子供が転んでも、泣き叫ばない。
「大丈夫!?」と母親は駆け寄り、抱き上げる。
だが、その声に大きく慌てた様子がない。
心配の重さがなぜか軽い。
感情は存在している。
それが根を強く張らない。
祈りも、不安も、決意も――全て角を削られ、均された温度に変わっていた。
痛む、燃える。
しかし強く痛まない、激しく燃えない。
立ち上がる前に、奪われていく。
集落を吹き抜ける風だけが、
何か大事なものが奪われたことを、低く唸って伝えていた。
⸻
【2】
《ソリスタの聖壁》、その最頂部。
その中心で、ヴァリウスは静かに立っていた。
足元には、複雑に絡み合う紋様。
天へと伸びるエーテルの奔流。
そして、その風に溶けるように――光の糸となった感情が巡っている。
怒り。恐れ。祈り。後悔。
それらは一度、彼へ集い、彼の内で均され、再び大陸へ還されていく。
彼は動かない。
祈ることも、唱えることもない。
ただ、世界の“支点”として、空の中心に在り続けていた。
そこへ、足音が一つ。
「――昔話をしている暇は、なさそうだね」
振り返らずとも分かる声。
少しだけ、乾いた響き。
だが、懐かしさを隠しきれていない声。
「……来たか、メキース。久しいな」
ヴァリウスは振り返らないまま、淡々と応じた。
メキースの声は柔らかい。
「アークティアに来たのは、君に会う為じゃなかったんだけどね」
「…………」
「共鳴風の異常、そして君のやり方。
結局――今、私がここにいるのは……、
風が運んでくれた運命なのかもしれない」
ヴァリウスは鼻で笑った。
「ふん……運命だと?
相変わらず、詩人じみた言い方をする」
「君が、そうさせる」
ふぅっというため息の後。
メキースの声が静かに鋭さを帯びた。
「感情の統制など意味がない。今すぐやめろ」
怒鳴らないが、一歩も退かない声。
ヴァリウスは即答した。
「意味はある。
少なくとも、壊れきってしまうよりはな」
初めて、ゆっくりと戦友の方へと振り返る。
戦場で幾度も背を預けた男に向ける目。
だが、今そこにあるのは、決して友情ではなかった。
「感情は伝染する。
制御されぬ共鳴は、憎悪も恐怖も増幅させ、連鎖させる」
淡々とした言葉なのに、重い。
「人は、恐れを抱いた瞬間に正義を持つ。
正義を持った瞬間に、他者を殺せる。
俺が統制すれば衝突は減る――争いも起きず、犠牲は抑えられる」
それはヴァリウスが何度も何度も見てきたもの。
手から溢していた、地獄の総括だった。
メキースはヴァリウスをじっと見る。
「……それは、抑えられるんじゃない。
あるべき感情を握り潰しているだけだ」
ヴァリウスは即答しない。
その沈黙が、肯定に近かった。
メキースは友へと、声を投げ続ける。
「統制とはおそらく、感情を君の元へ集め、君の力で抑え、還す仕組みだろう。
感情はどこか鈍り、薄まる。
生きているのに、どこか熱がない――そんな世界になると思わないか」
ヴァリウスの表情は崩れない。
メキースがヴァリウスの方へ、真っ直ぐと指を向ける。
「そして――その負荷を一身に背負っているのは君だ」
その言葉だけは、矢のように刺さった。
ヴァリウスはわずかに目を伏せる。
「今は耐えられても、いずれ君の精神は摩耗する。
“それで世界が保つなら安いもの”なんて思っているなら、
――君は本当に、君自身を殺す」
メキースの声の冷たさの奥には、まだ戦友を手放したくない温度が残っていた。
一瞬だけ、二人の間に過去が差し込む。
あの戦場。
あの夜。
互いが互いに背を預け、生き残らせた記憶。
⸻
【3】
だが――それはすぐに断ち切られる。
ヴァリウスの声が、別の重みを帯びた。
「俺が本当に危惧しているのは、感情伝染そのものではない」
「……なに?」
メキースが、わずかに眉をひそめた。
論点が変わる。
それはヴァリウスが“核心”へ踏み込む時の癖だった。
「元から自由なものであるほど、
それが自由であることに、人は気づかん」
ヴァリウスの視線が、空の彼方を刺す。
「――《正典》と《外典》だ。
お前も、嫌というほど見てきただろう」
言葉が、冷たく響く。
「この地では、正典が優先されることも、外典が迫害されることもない。
自由な世界だ。
――だがそれは、“大書院の体制”とは相容れない」
メキースは、その言葉の奥を読む。
ヴァリウスが今も、世界の構造を見ていることを。
「今回の“感情伝染”も同じだ。
俺がここで押さえ込まなければ、大書院は必ず介入してくる。
やがて毒が巡るように、《正典》と《外典》の線引きも始まる。
“守るべき秩序”、などと言ってな」
「……なるほど。
君は筆聖の立場で見てきたんだな。
あらゆる思惑。正義の顔をした利害。大書院の黒い意思を」
ヴァリウスは頷かない。
だが否定もせず、言葉を紡ぐ。
「共鳴風の実験も、その一端だ。
この大地は、常に外から狙われている。
自由であるが故に。秩序を外れた幸福であるが為に、な」
メキースの声が低くなる。
「――だから君は、統制を選んだのか。
外から壊される前に、君だけの手で守る為に」
ヴァリウスは初めて、少しだけ目を細めた。
「相変わらず、理解が早いな」
その一言が、肯定だった。
メキースは大きくため息を吐いた。
(まったく、この男は……)
正しいことしか言わない男が、
正しい理由で、正しいとは思えない道に進んでいる。
「……ヴァリウス。君は変わっていないな。
今も昔も、“自分だけがやれば済む”と思っている」
ヴァリウスの目が、ほんの僅かに揺れる。
「背負う者がいなければ、世界が崩れる」
「違う。君は――背負わせることを恐れているだけだ」
風だけが唸る。
ヴァリウスは静かに言った。
「……メキース。お前は希望を信じすぎる」
その言葉が、戦友としての最後の警告のように聞こえた。
だが、メキースは引かなかった。
「希望を信じる者がいなければ、秩序はただの牢獄だ。
今の君も、その牢獄の中にいる」
そして、確信に満ちた声で言う。
「大丈夫だ。それを変える可能性を持つ者がいる」
「………?」
「“世界の深淵を背負ってくれる者”は、もう来ているよ」
その言葉に応えるように――
階段の奥。
まだ刃鳴りが続き、この頂へ続く道で、誰かが命を削っている中。
そこから、足音が重なった。
「間に合った……みてえだな」
――カズヤが姿を現した。
そして、少し遅れて。
「話は後で聞くぜ。メキース」
――火槍を肩に担いだアインも、歩み出た。
風が強く吹いた。
外典は、風を変革へと向かわせる“刃”。
ヴァリウスは二人を見据える。
静かに、しかし確かに。
この場所で、世界の行方が交わろうとしていた。
⸻
【4】
頂部へ辿り着いた二人に、メキースが労いの声を掛けた。
「……もう少しかかると思っていたが。
よく辿り着いてくれたね、二人とも」
その一言で、カズヤとアインの肺に溜まっていた緊張がわずかに抜ける。
だが、ヴァリウスは低く笑った。
「“災厄の外典”。それに……叛逆者、か」
視線が、カズヤとアインを順に射抜く。
その眼差しは冷たいのではなく、あまりに重い。
「これらが――お前の言う“可能性”とでも言うのか、メキース」
メキースは否定せず、即答した。
「ああ。その通りだとも」
ヴァリウスは鼻を鳴らす。
「……ふん。バカなことを!!」
その瞬間。
ヴァリウスの周囲で、エーテルが爆ぜた。
風ではない。光でもない。
“感情そのもの”が奔流となり、渦を巻く。
怒り、恐れ、祈り、後悔――
個であったはずの揺らぎが境界を失い、彼へと溶け込んでいく。
それは制御ではない。
分離でも、抑圧でもない。
――同化だ。
“感情の綴り”の光を背負うように、筆聖ヴァリウスが一体化する。
感情を束ね、己の内に取り込み、世界へと還流させる存在。
支配者ではなく、回路。
兵器ではなく、器。
それはもはや、人智を超え、人の領域を越えた者。
“神格”、という言葉が最も近い。
見えない重さが、カズヤの胸を押し潰す。
「う……っ!!」
膝が勝手に折れる。
呼吸が乱れ、思考が鈍る。
胸の奥で燃えていたはずの熱が――抑えられる。
それはアインも同じだった。
「……く……!?」
怒りも焦燥も、火にならない。
感情が強く灯らない。
まるで導火線そのものを摘み取られたように、膝をついた。
だが――
その中でただ独り、立っていた。
メキースの足元だけ、風が別の渦を巻き、統制の意思が流れ去っていく。
ヴァリウスの視線が僅かに細まる。
メキースは友へと語る。
「君なら知っているはずだ。私に“それ”は通用しない」
メキースのその声と共に、
カズヤとアインの感情にも再び、火が灯った。
「あ……?」
「なんだ……!?」
メキースとヴァリウスは、互いを真っ直ぐに見据える。
世界を一身に背負おうとする者。
世界から一歩引き続けた者。
二つの異質が、蒼空の頂で向かい合う。
その背後で、カズヤとアインは悟り始める。
――この戦いは、人の域を超える。




