一章 第28話:翠風、災厄を視る
【1】
カズヤの内側で蠢く“何か”。
黒く、重い気配。
忌避してきた、災厄の感触。
骨の裏側を撫でるような、内側から滲む、冷たい歓喜。
だが今は、制御できる保証がない。
アマネも隣にいない。
カズヤは剣を床へ突き立てるようにして、踏み止まった。
それは剣であり、自分自身を縫い止める楔だった。
「……ふざ……けんなよ……」
今この瞬間、痛いほど理解してしまった。
筆聖がやろうとしていること。
人々の喜びや、怒り、悲しみを全て制御下に置くということ。
――そんなものは不可能だということを。
災厄に触れるたびに、壊れそうになってきた。
怒り、悲しみ、恐怖。
人が人であるために持つはずの揺らぎが、洪水のように押し寄せる。
この、たったひとつの身体ですら制御できないのに。
筆聖ヴァリウスはおそらくそれ以上を、独りで背負おうとしている。
カズヤは、剣に縫い止められたまま吠えた。
「できるわけねえだろ……!!そんなこと!!!」
それは怒りではなく。叫びでもなく。
自分自身を押し止める為の咆哮であり、
そして――人として、ヴァリウスを慮る訴えだった。
「あんた……ゲイルっつったよな……!」
震える腕で剣を支えたまま――顔を上げる。
翠の風が揺れる中、ゲイルが見ている。
こちらを。こちらの奥を。
その目は冷静で、研ぎ澄まされている。
だが僅かに、黒の気配に揺らいでいた。
カズヤは歯を食いしばり、言葉を叩きつける。
「弟子なんだろ……!
あんたはそれで良いのかよ! 全部背負わせる気かよ!!」
統制や、構造、正義、それらの議論ではない。
災厄を背負う者として。
ゲイルを真っ直ぐと見つめて、人としての想いをぶつけた。
⸻
【2】
ゲイルは、ゆっくりと刀を鞘へ戻した。
その所作に隙はない。
だがそれは、戦いを終えるための静けさではなかった。
――刃を収めてなお、心は抜き身のまま。
広間をめぐる翠の風が、僅かに速度を落とす。
斬るための風ではない。聞き取り、測り、確かめるための風へと変わっていく。
「……正しいとは、思っていない」
翠の風が、彼の周囲で穏やかに巡る。
「感情を統制することが、正しい救いとは思っていない。
だが――師範は覚悟を決めている」
刀を握る手に、力が籠もる。
「俺は、あの人の弟子だ。
命を救われた。だから俺も力になる。
――俺も支えるさ」
その言葉に、迷いはなかった。
こぼれ出しそうな感情を、奥歯で噛み砕くようにして、カズヤは思う。
(……そうじゃ、ねえよ……!)
支える?
そんな言葉で括れる重さじゃない。
“統制する”なんて、最初から破綻した考えとしか思えない。
ゲイルは何かを噛み殺すように、唇を結ぶ。
「……支える為には、理解しなければならない」
カズヤが眉をひそめる。
「理解……?」
ゲイルの掌がわずかに持ち上がる。
翠の風がそこへ集まり、指先に絡みつく。
「俺の〈翠風の残響〉は、運ぶ力だ。
風に乗せて、感情も、言葉も、痛みも……ありのまま運ぶ」
運ぶ。それはつまり、ゲイル自身に対しても。
彼もまた、感情を受け止めることができるということだ。
ゲイルは目を逸らさなかった。
逃げずに言い切った。
「師範が抱えるというなら、俺も共に抱える。
受ける流れを分け、運ぶ道を変える。
それが、俺の選んだ道だ」
その決意の真っ直ぐさは、
強さであり――実直や盲目、焦りに近い危うさも秘めていた。
⸻
【3】
ゲイルの風が、さらに変わった。
翠の風が、カズヤの周囲を巡る。
攻撃ではない。これは――“風詠み”。
「お前の中にある黒い気配。
世界を歪めるほどの――災厄」
カズヤの背筋が凍った。
「あんた……何考えてやがる」
「お前が俺を観察し、“風”を学ぼうとしていたことは分かっている。
だから俺も、お前から学ばせてもらおう」
ゲイルの声に、初めて熱が宿る。
彼は一歩踏み出す。
「師範の隣に立つと誓った。
なら俺は――師範が抱えるものを知る必要がある」
翠風が、ひとつに収束していく。
「師範を支える為に、俺はお前の“災厄”と向き合い、制す!」
刀を収め、手を伸ばした。
風詠みにより、カズヤの感情を詠む。
「その災厄に、触れさせてもらう!」
カズヤは大きく狼狽えた。
「――っ! 馬鹿、やめろ!! 危ねえって!!!!」
翠の流れが、黒い気配へと静かに近づいていった。
ゆっくりと。だが、確実に。
そして――翠が、災厄に触れた。
⸻
【4】
――“それ”に触れた瞬間、世界が裏返った。
ゲイルの内面。
翠の風が、黒に染まる。
最初に流れ込んできたのは――音だった。
悲鳴。怒号。懇願。断末魔。
数でも、距離でも、時間でも測れない量の“声”。
「――――!!」
世界の終わりが、ゲイルの視界を覆う。
空が剥がれ落ち、地面が溶ける。
世界そのものが否定されていく感覚が叩き込まれる。
焼け落ちる街。
押し潰される祈り。
守れなかった背中。
誰にも届かなかった叫び。
整理されることなく、感情という形ですらなく。
ただの災害、しかし“現実の出来事”として流れ込んでくる。
(これは……感情じゃない……!!)
ゲイルは歯を食いしばる。
風詠みとして、数多の感情に触れ、運び、解きほぐしてきた。
だが、これは違う。
誰かの心ではない。世界が壊れた痕跡、そのもの。
「ぐ……ッ……!!」
翠風が悲鳴を上げる。
あらゆる方向から流れ込む“その時失われたもの”が、ゲイルの精神を容赦なく引き裂いていく。
そして、さらにその先も。
ゲイルが視た災いは、一つの事象に留まらなかった。
病が広がり、争いが燃え移り、物流が絶え、秩序が崩れる。
(これを……この男……内側に……!?)
膝が震え、視界の端で翠の紋が歪み、砕けていく。
(師範もまさか……こんなものを受けようと………!?)
遥か遠くから、細く声が聞こえる。
『……め……やめ――やめろッ!!』
カズヤの叫び。
だが、もう遅い。
ゲイルの中で、何かが壊れかけていた。
「――――ッ、あ……」
言葉にならない音が、喉から零れる。
限界だった。
翠風が、乱れ――断ち切られる。
ゲイルは悪夢から己を覚ますように、自ら風詠みを断った。
だが、流れ込んだものは消えない。
身体が前のめりに崩れ、刀がカランと床に落ちた。
「……っ、はぁ……はぁ……」
呼吸が整わない。
心臓が、まだ世界の悲鳴を打ち続けている。
瞳は開いているのに、焦点が合わない。
風を知る者として、見てはいけないものを見た眼。
⸻
【5】
カズヤが駆け寄り、倒れたゲイルの傍で膝をついて覗き込む。
「おい! 平気か!!!?」
返事はないが、呼吸はある。
だがそれは、生きている呼吸というより、
――世界の瓦礫の奥で、軋む何かに耐えるようなものだった。
ゲイルの指先が床を引っ掻く。脂汗が止まらない。
立ち上がる為ではない。
ただ現実に縋りつく、最後の抵抗。
やっと、裂けた息が漏れる。
「……これが……」
喉が焼ける。
声にすれば、さっき見たものが音になって溢れてしまう。
それでも、言わずにはいられなかった。
「……お前が……外典が、背負っている……」
そのまま、力が抜ける。
翠の風はもう立ち上がらず、広間には上層へ抜ける通風路の冷たい音だけが残った。
ゲイルは虚空を見つめていた。
瞳は開いているのに焦点が合わない――。
“世界が在る”という事実そのものが、さっきの崩壊の記憶に拒まれている。
(師範は……)
思考は繋がらないのに、その名だけが胸の奥で沈まずに残る。
自分は知っているつもりだった。
抱えるものの大きさも、選ぶ痛みも、覚悟の重さも。
――だが、違った。
覚悟なんて言葉で包めるものじゃない。
これは世界の傷の破片、拾えば拾うほど心を裂いていく現実そのものだ。
(……背負わせてはならない…………)
その様子に、カズヤは唇を噛んだ。
「先に行かせてもらうぜ……悪い」
それが誰に向けた謝罪かも分からないままに、
カズヤは立ち上がり、背を向けて広間の奥へ駆け出した。
ゲイルは止めなかった。止められなかった。
けれど。
――災厄を抱える者の背に。
倒れ伏したままのゲイルの内側で、
断ち切られたはずの翠が、刃にも盾にもならぬまま、ひとひらだけ鳴いた。
言葉ではない。声でもない。
ただ感情だけが、風の糸となってカズヤの背へ触れる。
それは風詠み。
今は、“感情の伝染”。
カズヤの背がほんの僅かに揺れたが、足は止まらない。
「――分かった」
振り返らないままカズヤは呟き、さらに加速する。
広間には、冷たい風の音だけが残った。




