表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
残響詩篇  作者: 宗一郎
序章:綴られぬ者達の夜明け
6/20

第3話:導灯

【1】


夜明け前の海は、息を潜めていた。


波はひとつも立たず、風も止まっている。

ただ――海面の上だけが、ぼうっと光っていた。


小さな漁村、ミング。

港の片隅で、漁師のラオがいつものように網を繕っていた。

毎朝一番に港へ出る、村の誰よりも働き者の男だ。



その手が、ふと止まる。


沖の方で、青白い光がゆらゆらと揺れていた。

灯火のような、炎のような、けれどどちらでもない。


「……なーんだありゃ?」


ラオは煙草をくわえたまま、眉をひそめた。



遠い昔に祖父が言っていた言葉が脳裏をよぎる。


――“海に導かれた者は、帰ってこない”。


迷信だ。

夜光虫か漁船の灯りだろう。



光はふたつ、みっつと増え、まるで誰かがこちらを見ているかのように揺れる。

海の匂いが濃くなり、耳鳴りのような響きが頭の奥をくすぐった。


ラオは無意識に立ち上がり、海辺へ歩み寄る。

足元の砂が湿って重く、靴にまとわりつく。


光が、ゆっくりと近づいてきた。


「……んんー?」


次の瞬間――視界が青白く染まった。


音も波も消えた。

ただ光だけが、世界を満たす。


そして、すべてがふっとかき消えた。

網も、靴も、足跡も。




そこには、もう誰もいなかった。




朝日が昇る頃、別の漁師が港へ来て首をかしげた。


「おーいラオ!奥さん呼んでるぞー!」


答える者はいない。

ただ潮風が吹き、吊るされた風鈴が、寂しげに鳴った。




【2】


丘陵地帯を抜け、カズヤとアマネは南へ進んでいた。


フォーンシティまでは、あと二日の距離。

地平の向こうに、薄い水面の光がちらりと見える。



崩れた石垣のそばで、ふたりは小休止をとった。


アマネは地図を広げ、細い指で進路をなぞる。

カズヤは剣を背に預けながら、少し迷った様子で口をひらいた。


「アマネってさ……戦えるんだよな?」


「うん、訓練は受けてるよ。どうして?」


「綴士は“記録を取る人間だから戦えねえ”って聞いてたんだ。

でも、逃げる時戦ったって言ってたし……ちょっと気になってな」



アマネは風に髪を揺らしながら小さく微笑んだ。


「そうだね。

綴士にもいろいろあって、私は各地で記録を取る役目だったから。

自分の身も守れないといけなくて」


「なるほどな……。じゃ、他の大陸も行ったことあんのか?」


「うん。アークティアとオルドニアには行ったことあるよ」


「オルドニアって、世界一の市場があるとこだろ!? 行ってみてぇなぁ」


アマネは楽しそうに目を細める。


「うん、すごかったよ。

見たことない香辛料や道具が並んでて、匂いも人の声もごちゃ混ぜで、どこに行っても活気に満ちてた。

ご飯もほんとに美味しくて……。また行きたいな」



カズヤは空を見上げ、ほんの少し笑った。


「……色々落ち着いたらさ、行ってみようぜ」


今の状況で、それが現実的ではないことは、ふたりとも分かっていた。

けれど、その一言だけで十分だった。


アマネは少し戸惑った後、優しく頷いた。


「……うん。行けたら、良いね」



風がふたりの髪を揺らし、未来の匂いがほんのわずかに混じった。




【3】


夜、ふたりは廃坑近くの岩場を野営地に選んだ。


「俺が見張るよ。お前は休め」


「ううん、私が先にやる。

カズヤ、昨日あんまり寝てなかったでしょ?」


穏やかな声だが、譲る気のない調子。

結局、アマネが先の見張りについた。


カズヤは渋々寝袋に入ったが、相応に疲れていたのか、すぐに深い寝息を立てた。


焚き火の火がゆらめき、アマネの横顔を照らす。

風が止み、世界が静察するような夜だった。



――その時。



遠い森の向こうに、青白い光が浮かんだ。


最初は星の反射かと思った。

だが、光はゆらりと揺れ、確かにこちらを見ている。



“呼んでいる”。



言葉ではなく、心に直接響く感覚。

アマネは思わず立ち上がった。


胸の奥がざわつく。

それは恐怖というより――懐かしさに似ていた。


「……誰?」


声が漏れた瞬間、光がふっと動いた。

光はゆっくりと森の中へ滑り込む。


アマネは無意識に立ち上がり、その後を追っていた。



寝袋のカズヤを置き去りにして――。




【4】


森は闇に沈んでいた。


白い霧が地面を漂い、湿った草が足に絡む。

風もないのに、木々の影だけが揺れている。


光は糸のように細く、青白く漂っていた。

木と木のあいだをするすると泳ぐように進む。



アマネは夢遊病者のような足取りで光を追う。



やがて――罠が、牙を剥いた。

足元が跳ね、鋼線の網が背中に絡まる。


「……っ!」


反射的に懐から武器を抜く。



それは、綴士の時から護身用に携帯していた細剣、ワイヤーブレード。



アマネは一息で網の結び目を斬り裂く。

地面に着地し、呼吸を整える。


木の上から杭が落ち、横から矢が飛び、地面は爆ぜた。


(……狙われてる! 追っ手!?)


立ち止まる暇もなく、罠と殺意が次々迫る。

息を呑む間もなく右手の茂みが揺れ、仕込まれた矢が数本放たれた。



アマネは膝を折り、ブレードの柄を軽く払う。

放たれた金属糸が鞭のように走り、矢を空中で叩き落とした。


手慣れた操作、まるで風の軌跡のような精密さ。



だが。


最後の一歩。

ふわり、と足元が沈んだ。



「しまっ――!」



底が抜け、視界が反転する。



アマネは暗闇の穴へと落ちていった。




【5】


柔らかい土壌に落ち、幸い大きな怪我をせずに済んだ。


湿った空気、苔むした岩。

そこは月の光だけが差す、大きな空間の洞窟だった。



そして――光は、まだいた。

青白い粒が霧の中に散り、呼吸するように揺らめいている。



やがて、どこからともなく声が響いた。


「アマネ・チャペック――対象を確認」


その声は、まるで洞窟そのものが話しているようだった。


「……誰?」


「監査局第二課・観測情報局。ヴァージニア・ブローディ。

あなたを“保護”します」



姿は見えない。

だが、光は怯まず近づいてくる。



アマネは胸の奥に熱を覚え、足を踏み出した。


「ごめんなさい。私は……まだ終われない」



静寂の奥で、冷ややかな声が返る。


「保護を拒否する場合、あなたも……もう一人も、容赦しない」



光が強く揺らぐと同時に、四方に仕掛けられた網が一斉にアマネを襲った。


ワイヤーブレードを奮い、空気が震える。

金属糸が細い稲妻のように周囲を駆け、網は散り散りになって宙を舞った。


一連の動きの中で感覚が研ぎ澄まされていき、彼女の呼吸だけが澄んでいた。

“今となっては”不本意だが、外典の人々との戦いによって得た経験。



訓練ではなく、生きるための戦闘感覚。




アマネは小さく息を吸い、前を見据えた。


(誰かひとりでも、ほんの少しでも手を伸ばしてくれたら、人は救われる)


あの夜、カズヤの言葉が胸に響く。



「……私も、あの言葉を証明する」



彼女は洞窟の闇へ向かって一歩を踏み出した。


だがその一歩が、彼女を“罠の中心”へ導いていることを――まだ知らない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ