第3話:導灯
【1】
夜明け前の海は、息を潜めていた。
波はひとつも立たず、風も止まっている。
ただ――海面の上だけが、ぼうっと光っていた。
小さな漁村、ミング。
港の片隅で、漁師のラオがいつものように網を繕っていた。
毎朝一番に港へ出る、村の誰よりも働き者の男だ。
その手が、ふと止まる。
沖の方で、青白い光がゆらゆらと揺れていた。
灯火のような、炎のような、けれどどちらでもない。
「……なーんだありゃ?」
ラオは煙草をくわえたまま、眉をひそめた。
遠い昔に祖父が言っていた言葉が脳裏をよぎる。
――“海に導かれた者は、帰ってこない”。
迷信だ。
夜光虫か漁船の灯りだろう。
光はふたつ、みっつと増え、まるで誰かがこちらを見ているかのように揺れる。
海の匂いが濃くなり、耳鳴りのような響きが頭の奥をくすぐった。
ラオは無意識に立ち上がり、海辺へ歩み寄る。
足元の砂が湿って重く、靴にまとわりつく。
光が、ゆっくりと近づいてきた。
「……んんー?」
次の瞬間――視界が青白く染まった。
音も波も消えた。
ただ光だけが、世界を満たす。
そして、すべてがふっとかき消えた。
網も、靴も、足跡も。
そこには、もう誰もいなかった。
朝日が昇る頃、別の漁師が港へ来て首をかしげた。
「おーいラオ!奥さん呼んでるぞー!」
答える者はいない。
ただ潮風が吹き、吊るされた風鈴が、寂しげに鳴った。
⸻
【2】
丘陵地帯を抜け、カズヤとアマネは南へ進んでいた。
フォーンシティまでは、あと二日の距離。
地平の向こうに、薄い水面の光がちらりと見える。
崩れた石垣のそばで、ふたりは小休止をとった。
アマネは地図を広げ、細い指で進路をなぞる。
カズヤは剣を背に預けながら、少し迷った様子で口をひらいた。
「アマネってさ……戦えるんだよな?」
「うん、訓練は受けてるよ。どうして?」
「綴士は“記録を取る人間だから戦えねえ”って聞いてたんだ。
でも、逃げる時戦ったって言ってたし……ちょっと気になってな」
アマネは風に髪を揺らしながら小さく微笑んだ。
「そうだね。
綴士にもいろいろあって、私は各地で記録を取る役目だったから。
自分の身も守れないといけなくて」
「なるほどな……。じゃ、他の大陸も行ったことあんのか?」
「うん。アークティアとオルドニアには行ったことあるよ」
「オルドニアって、世界一の市場があるとこだろ!? 行ってみてぇなぁ」
アマネは楽しそうに目を細める。
「うん、すごかったよ。
見たことない香辛料や道具が並んでて、匂いも人の声もごちゃ混ぜで、どこに行っても活気に満ちてた。
ご飯もほんとに美味しくて……。また行きたいな」
カズヤは空を見上げ、ほんの少し笑った。
「……色々落ち着いたらさ、行ってみようぜ」
今の状況で、それが現実的ではないことは、ふたりとも分かっていた。
けれど、その一言だけで十分だった。
アマネは少し戸惑った後、優しく頷いた。
「……うん。行けたら、良いね」
風がふたりの髪を揺らし、未来の匂いがほんのわずかに混じった。
⸻
【3】
夜、ふたりは廃坑近くの岩場を野営地に選んだ。
「俺が見張るよ。お前は休め」
「ううん、私が先にやる。
カズヤ、昨日あんまり寝てなかったでしょ?」
穏やかな声だが、譲る気のない調子。
結局、アマネが先の見張りについた。
カズヤは渋々寝袋に入ったが、相応に疲れていたのか、すぐに深い寝息を立てた。
焚き火の火がゆらめき、アマネの横顔を照らす。
風が止み、世界が静察するような夜だった。
――その時。
遠い森の向こうに、青白い光が浮かんだ。
最初は星の反射かと思った。
だが、光はゆらりと揺れ、確かにこちらを見ている。
“呼んでいる”。
言葉ではなく、心に直接響く感覚。
アマネは思わず立ち上がった。
胸の奥がざわつく。
それは恐怖というより――懐かしさに似ていた。
「……誰?」
声が漏れた瞬間、光がふっと動いた。
光はゆっくりと森の中へ滑り込む。
アマネは無意識に立ち上がり、その後を追っていた。
寝袋のカズヤを置き去りにして――。
⸻
【4】
森は闇に沈んでいた。
白い霧が地面を漂い、湿った草が足に絡む。
風もないのに、木々の影だけが揺れている。
光は糸のように細く、青白く漂っていた。
木と木のあいだをするすると泳ぐように進む。
アマネは夢遊病者のような足取りで光を追う。
やがて――罠が、牙を剥いた。
足元が跳ね、鋼線の網が背中に絡まる。
「……っ!」
反射的に懐から武器を抜く。
それは、綴士の時から護身用に携帯していた細剣、ワイヤーブレード。
アマネは一息で網の結び目を斬り裂く。
地面に着地し、呼吸を整える。
木の上から杭が落ち、横から矢が飛び、地面は爆ぜた。
(……狙われてる! 追っ手!?)
立ち止まる暇もなく、罠と殺意が次々迫る。
息を呑む間もなく右手の茂みが揺れ、仕込まれた矢が数本放たれた。
アマネは膝を折り、ブレードの柄を軽く払う。
放たれた金属糸が鞭のように走り、矢を空中で叩き落とした。
手慣れた操作、まるで風の軌跡のような精密さ。
だが。
最後の一歩。
ふわり、と足元が沈んだ。
「しまっ――!」
底が抜け、視界が反転する。
アマネは暗闇の穴へと落ちていった。
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【5】
柔らかい土壌に落ち、幸い大きな怪我をせずに済んだ。
湿った空気、苔むした岩。
そこは月の光だけが差す、大きな空間の洞窟だった。
そして――光は、まだいた。
青白い粒が霧の中に散り、呼吸するように揺らめいている。
やがて、どこからともなく声が響いた。
「アマネ・チャペック――対象を確認」
その声は、まるで洞窟そのものが話しているようだった。
「……誰?」
「監査局第二課・観測情報局。ヴァージニア・ブローディ。
あなたを“保護”します」
姿は見えない。
だが、光は怯まず近づいてくる。
アマネは胸の奥に熱を覚え、足を踏み出した。
「ごめんなさい。私は……まだ終われない」
静寂の奥で、冷ややかな声が返る。
「保護を拒否する場合、あなたも……もう一人も、容赦しない」
光が強く揺らぐと同時に、四方に仕掛けられた網が一斉にアマネを襲った。
ワイヤーブレードを奮い、空気が震える。
金属糸が細い稲妻のように周囲を駆け、網は散り散りになって宙を舞った。
一連の動きの中で感覚が研ぎ澄まされていき、彼女の呼吸だけが澄んでいた。
“今となっては”不本意だが、外典の人々との戦いによって得た経験。
訓練ではなく、生きるための戦闘感覚。
アマネは小さく息を吸い、前を見据えた。
(誰かひとりでも、ほんの少しでも手を伸ばしてくれたら、人は救われる)
あの夜、カズヤの言葉が胸に響く。
「……私も、あの言葉を証明する」
彼女は洞窟の闇へ向かって一歩を踏み出した。
だがその一歩が、彼女を“罠の中心”へ導いていることを――まだ知らない。




