一章 第13話:渓谷に刻まれた罪
【1】
渓谷の入り口での戦いの後。
イーリスが先導し、その後ろをカズヤとノエラが歩き、
さらに後方から、渓谷の戦士達が監視するように続く。
彼らは縁に沿って低く進んでいった。
草原で感じた柔らかな風は、ここにはない。
岩肌を擦り、谷底へと落ちていく風は硬く、鋭く、重かった。
「……険しい場所ね」
ノエラが思わず漏らす。
眼下に広がるのは、巨大な断崖に穿たれた集落だった。
谷の岩壁そのものを削り出し、幾重にも連なる段状の住居。
一軒一軒が岩と一体化し、自然に寄り添うというより、
岩に食い込み、噛みつくようにして存在している。
岩壁のあちこちには無数の風抜き孔が穿たれている。
穴は一定の間隔で並び、
谷を吹き抜ける突風を逃がし、分断し、殺すためのものだ。
空気には、鉄と油の匂いが混じっている。
岩粉、鍛えられた刃の残り香、
そして乾燥した獣皮の、かすかに生臭い匂い。
住民達は、風に身を晒しながらも慣れきった動きで行き交っていた。
重心を低く落とし、歩幅は短く、
突風が来る瞬間を“読んでいる”かのように体を預ける。
風を避けるのではない。
“風と拮抗する”ための造り、生き方。
それが、渓谷の部族《カレッシャ》の生き方だった。
先導するイーリスが、振り返らずに言う。
「ここが、私達の居場所だ。
草原のように、風に身を任せることはない」
その背は真っ直ぐで、迷いがない。
だが――その言葉には、わずかな棘が含まれていた。
⸻
【2】
集落の中央、最も広い岩棚に築かれた集会所。
円形の石造りで、天井は開いており、
谷を渡る風がそのまま吹き抜けている。
イーリスはそこで立ち止まり、振り返った。
「改めて名乗る。
私はイーリス。《カレッシャ》を率いる者だ」
カズヤは一瞬、眉を上げる。
「族長じゃねえのか?」
「肩書きはどうでもいい」
イーリスは即答した。
「カレッシャでは、最も強い者が前に立つ。
それだけだ。私はそれに選ばれただけ」
誇りでも自慢でもない。
ただの事実として語る声音。
ノエラは黙って頷き、その在り方を理解した。
集会所を囲うように集まった戦士達の視線は、鋭く、敵意を隠さない。
ノエラは一歩前に出た。
「まず、提案をさせてちょうだい。
アナタ達が聞いてるかどうか知らないけど、
筆聖のヴァリウスは共鳴風を独占して、“感情を統制”しようとしてる。
アタシ達は、それに対抗するつもりなの」
その言葉に、場がざわつく。
イーリスの目が細まった。
「……それを、今さら言いに来たのか。
草原と浮島は、ずっと“風を操る側”だった」
ノエラは静かに続ける。
「共鳴風は、誰かの支配のためのものじゃない。
それは――人が人である為の、揺らぎそのもの。
そうでしょ?」
イーリスは鼻で笑った。
「綺麗事だ。
渓谷がなぜお前達に怒りを向けているか……分かっているのか?」
⸻
【3】
イーリスは、風の鳴る天井を見上げた。
「――“共鳴風の暴走”だ」
その言葉に、戦士達の表情が一斉に硬くなる。
「昔、草原と浮島が、共鳴風の実験を行った夜がある。
感情を“より強く、より遠く”伝えるために」
コンラド老人からも聞いていた“ある事件”のこと。
ノエラはゴクリと息を呑んだ。
「だが――風は制御を失った。
怒りも恐怖も、絶望も。
誰の感情かも分からないまま、それは渓谷に流れ込んだ」
イーリスの声は低く、
昂る感情を必死に抑えるような口調。
「一夜で、渓谷の集落が三つ潰れた。
互いを敵と誤認して、殺し合った。
私の父も、母も……止めようとした者から壊れていった」
拳がわずかに震える。
その瞳は、涙が滲み出ようとしていた。
「その責任を、誰も取らなかった。
草原は沈黙し、浮島は記録を封じた。
……それで、何を信じろと言うのか!」
⸻
【4】
イーリスが、睨み据える。
「……お前」
「お、俺……?」
沈黙の中、
視線が一斉に――カズヤへ向いた。
「お前から漂う風を感じるだけで、胸が軋む。
“災いを呼ぶ者”の臭いだ!」
戦士達が、ざわりと距離を取る。
「あの夜と同じだ。
近くにあるだけで、感情が乱れる……!」
カズヤは、歯を食いしばった。
否定したい。
だが――できない。
ミレイの顔が脳裏に浮かぶ。
自分の残響が恐れを生むことを、彼自身が身に沁みて知っている。
だが。
空気を変えるように、ノエラが鋭く言い放った。
「だからこそ、彼が必要なの」
イーリスが睨み返す。
「……どういう意味だ」
「“災厄”を知る者は、“制御の嘘”を見抜ける。
彼は、支配される風の行き着く先を、身をもって知ってる。
この状況を、アナタ達と同じ気持ちで打破できるのは彼なの。
アナタ達と同じ想いを、彼もちゃんと持っているのよ」
それは僅かに、ハッタリも含んでいた。
ノエラは一拍置き、続ける。
「協力してほしい。これはお願いよ」
⸻
【5】
イーリスは、しばらく黙っていた。
周りの戦士達はざわついたままだ。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……いいだろう」
その言葉に、ノエラが少し息をつく。
「だが――」
イーリスの目が鋭く光った。
「お前達が何をして、何を選ぶのか――
それを、私達自身のやり方で確かめる」
一拍置き、はっきりと言い切る。
「今は刃を向けない。
同じ戦場に立つかどうかは……その後だ」
ノエラは察した。
(――試す気ね)
「もし、お前達が再び渓谷を裏切るなら。
その時は、敵として容赦しない。
草原だろうと、浮島だろうと、だ」
イーリスは、はっきりと言い切った。
「分かったな?」
ノエラは、微笑んだ。
「ええ。
交渉っていうのは、そういうものよ」
渓谷に吹く風が、低く唸る。
風に追い出されるように、カズヤとノエラは草原へと帰っていく。
試練の上に置かれた、仮初めの同盟。
信頼はない。
渓谷の腹のうちは、まだ正体の掴めない闇の中だ。
傷は癒えておらず、怒りも疑念も、まだ渓谷の底に沈んだまま。
風艇を動かしながら、ノエラがぽつりと呟いた。
「少なくとも“渓谷が敵にはならない”、
それだけでも、今は良しとしましょう」
前を向いたままの言葉だった。
慰めでも、楽観でもない。
状況をそのまま受け止めた、交渉人の判断だった。
カズヤは、渓谷の方角を振り返る。
今なおも、渓谷の視線を一身に浴びているような心地だった。
胸の奥で理解している。
――この地では、自分は希望である前に、
“思い出したくない記憶”そのものなのだと。
この地で起きた事件。
イーリス達の怒りと、拭えない心の傷。
それは確かに、世界に刻まれた“傷”だった。
(救いてえ……けど……)
今の自分には、そこへ手を伸ばす力がない。
救う為に、まだ手が届かない。
だから進むしかない。
今は、風が指し示す先へ。
この傷に向き合うための“答え”を、見つけられる場所があると信じて。
追い出すように吹いていた渓谷の風が変わり、
草原の風が、静かに背を押した。




