一章 第2話:夜の海、まだ名のない答えを
【1】
アークティア大陸行きの船――と聞けば、誰もが大きな帆船を想像する。
リムランドからも、大書院認可の正式な渡航船が日に何本か出ている。
しかし現実。
彼らが乗り込んだのは、
ラオが日常の漁に使っている中型の木製漁船だった。
「ギシギシいってない?」
アマネが船縁を掴みながら不安がる。
アインは、操舵室の壁にデカデカと書いてある文字を指差した。
「これでも上等な部類だぞ。
ほれ、あれ見ろ。
《安心丸》だってよ。安心だな」
「安直な名前っすね」
(カムイさんが言えるのかな…)
アマネは言葉をそっと仕舞った。
ラオが操舵輪の後ろから、気楽に声を飛ばす。
「大丈夫だいじょーぶ!!
良いことありますよーにって母ちゃんと毎日祈ってっからよぉ!
まー昨日まで俺消えちまってんだがな!がっはっは!!」
「消えてたのかよ!?」
カズヤが驚く。
アマネが青ざめ、
カムイは板張りの隙間を見て「統計的には沈まんっす」とぼそり。
夕日が沈みかけた海。
揺れる船、揺れる会話。
それでも船は確かに、アークティアへ向かって進み出していた。
⸻
【2】
出航したその夜――
狭い船室で、全員が泥のように眠っていた。
疲労と傷。
今日一日の移動。
船の揺れに合わせて寝息が重なり、静かな海の暗がりが船底を包む。
ただ一人、カズヤは眠れなかった。
つい昨日の死闘が嘘のように感じられる。
だが全身に走る傷の痛みが、あれが現実の出来事だと告げる。
下層の人々は、自分達の行いで救われるのだろうか。
上層の中でも、自分を恨んでいる人は大勢いるだろう。
“構造”という言葉が頭を過ぎる。
セイルとの戦い。
残響の限界行使。
なんとか制することはできたが、練度の差を依然大きく感じられた。
そして、筆聖グレースとの戦い。
アマネと共に自分は死にかけた。
いや、確かに死んでいた。
――残響詩篇。
綴りの奥義、と筆聖は言っていた。
どうやるのか想像もつかない。
自分もその域に行けるのだろうか。
次にあんなものが来たら、アマネを守れるのだろうか。
「はぁ……ダメだ」
眠気が逃げていくのを感じ、カズヤはそっと甲板へ出た。
潮の匂い。遠くで鳴く海鳥。
冷えた風が、火照った体温をさらっていく。
その片隅に、灯りがひとつ。
小さなランプの下で、ノエラが紙束を広げていた。
眉間に皺を寄せながら、書類にペンを走らせている。
カズヤに気づくと、ノエラは顔を上げて微笑んだ。
「眠れないの?」
「あぁ。まあな」
「アタシもよ。
そういう時は、書類いじってる方が落ち着くの」
ノエラは横を軽くトントンと叩いた。
「座りなよ。少し話でもする?」
カズヤは黙って頷き、隣に腰を下ろした。
船の揺れが足元からじんわり伝わってくる。
「経緯はダンさんから聞いてたけど。
アナタとアマネちゃん、本当に不思議な巡り合わせよね」
「……そうだな。
あいつと出会ってから、本当に色々変わったよ」
巡る思考、昨日の出来事、この先の不安。
なんでもいい、何かでこの焦燥を埋めたい。
カズヤが自然と言葉を紡いだ。
「聞いていいか?」
「どうぞ」
「あんたの……ってより、
断章の詩の目的って、結局なんなんだ?」
ノエラの横顔は、夜の光に照らされて静かだった。
「そうね……アイン達からは何て聞いてる?」
「“大書院に愛想尽かした奴ら”ってくらいしか」
「あー……。
一応、合ってはいるんだけど…。
ほんっと説明しないわよね、アイツ」
はぁ、とため息を漏らしつつ、
小さなランプに影を揺らしながら、ノエラは語る。
「アタシ達は――“第三の道”を探してる」
それは、すっと飲み込めない言葉だった。
「第三の道……?」
「カズヤくん、アナタも嫌というほど知ってるでしょ?
大書院によって仕切られた、“正典”と“外典”の枠組み。
正典だけが正しいわけでも、外典だけが誤りなわけでもない。
その逆も同じ」
ノエラは紙束を静かに閉じた。
「今の世界は、生まれた瞬間に、
持ってる記憶で“枠組み”が決まってしまう。
そんなもの、本来あっちゃいけないんだよ」
カズヤは黙って耳を傾ける。
「でも実際は、そんな簡単じゃない。
外典を誇りに思う人もいれば、
正典の思想に従うことでしか、生きられない人もいる。
だから――ただ抗えばいいわけじゃない」
波の音。
船の軋む音。
風が一度だけ強く吹き抜け、ふたりの髪を揺らした。
「じゃあ……あんたらはどうすんだ?」
ノエラは苦笑する。
「残念ながら、アタシ達もまだ“答え”を持ってない。
今の体制を変えるために、各地に散らばって準備は進めてるけど、
その先にあるべきものはまだ見出せていない。
リーダーもアタシも、他のメンバーもね」
「あんたらも…結構複雑なんだな」
「そ。アナタ達と同じ。
お互い、答えを探す旅の途中ってわけ」
ノエラが微笑む。
「カズヤくん。
アナタ個人は、割とシンプルと思ったんだけど?」
「シンプル……」
シンプル。
その言葉を頭の中で転がす。
外典だの、災厄だの。
否定も、恐怖も、拒絶も。
数えきれないほど浴びてきたはずなのに。
それでも――
自分の中にある衝動だけは、昔から変わっていない気がした。
理屈より先に身体が動く。
見捨てる理由を探す前に、手を伸ばしてしまう。
それが正しいかどうかを考えるのは、いつも後だ。
(ああ、そうか。
色々あったけど、結局は……)
「……俺はアマネを救いたい。
困ってる奴を見過ごせない」
「ふふっ。
十分よ。それでいい」
ノエラがポンと、カズヤの肩を叩いた。
「期待してるからね。
アナタ達からは、不思議と予感がするのよ」
それだけ言って、ノエラは立ち上がり、
ランプを持って船室へ戻っていった。
暗闇の甲板に残されたカズヤは、静かに夜風を吸い込む。
波の音に耳を傾ける。
(アマネを助ける。みんなを助ける。
その為に、やれることをやる。
残響も、監査局も、筆聖も……残響詩篇も)
カズヤはひとり、星の隠れた夜空を見上げる。
「強くなる……かぁ」
波音が、答えのように寄せては返した。
夜の海を滑るように、船は進んでいく。
⸻
【3】
その頃――遠く、セントラル・ドミナ。
筆聖院の白い塔の一室で、重厚な扉が静かに開く。
巨大な天井窓から降り注ぐ光。
誰もいない一室で、書記官だけが筆を取る。
緊張と沈黙の中、通信機越しに、議長が静かに告げた。
『――では、これより筆聖会議を開く』
月に一度、世界の命運が左右される場。
そして今回は――
アマネ、カズヤに対する裁定の場でもある。
その扉が、重々しく閉じられた。




