天使と弟1
「シュテル、この白いレースなんて貴女によく似合っていてよ。これを取り入れた新しいドレスをお祖母様見てみたいわ」
「こちらの青いリボンもどう? お母様とお揃いで買いましょうよ」
「……どれも大変素敵ですわ。お祖母様、お母様」
露店に並べられた色や素材の異なる沢山の布の間を、蝶の羽のように広がるドレスの裾を優雅に揺らしてヒラヒラと舞う二人の貴婦人。
一方、星の瞬く宵空を思わせる濃紺色のショールを被ったシュテルは、二人の後ろを歩きつつ己の認識の甘さを心の底から後悔していた。
(そうだよ……ジェフリーが俺と護衛だけで外出させるはずがなかった!)
シュテルはグラハム家に託された天使だ、至宝だと常々熱く語るジェフリー。そんな彼は大切な孫娘が己の手の届かない場所へ行くことを……その身が害されることを心底怖れているようだった。
屋敷は侵入者対策が徹底されているし、護衛や従者は一人一人も大変厳しい身辺及び思考調査を受け、ようやくシュテルの傍に付くことが許されている。家族と古参の家臣以外、ジェフリーは誰一人として信じてはいないのだ。
それが酷いことだとは、シュテルは思っていない。ジェフリーと同じ乱世を生きた者として、裏切りは嫌というほど見てきた。実際に暗殺されかけたことも、罠に嵌められたことも一度や二度ではない。
強すぎる我欲に溺れた者や、追い詰められた者はこちらが想像していないような行動をとることはままあるのだから。
(それは別に良い。が、俺も信じられていないってのがな……)
前世と同じだけの実力があれば、ジェフリーもここまで過保護になることはないのだろう。
わざわざ着飾った姿をショールで隠させ、お目付け役として最強のカード……優美ではあるが、その実周囲を焦土に変えてしまえるほどの魔法を容易く行使できる苛烈な祖母、母を供につけるなど。
やはり体を鍛えるのは急務だ、とあれもこれも勧めてくる美しい貴婦人を微笑みで躱しつつ思うシュテルである。
「私のモノも良いですが……お祖母様方も何か購入されてはどうですか?」
各々気に入った布を持っていた二人は、シュテルの言葉に顔を見合わせて。ついで淑女らしくない、ニンマリとした笑みを浮かべる。
「うふふ、ならお祖母様に似合うものをシュテルが選んでくれないかしら」
「勿論お母様の分もよ、シュテル」
「……う、ッ」
まさに藪蛇。二人の意識を逸らそうとしたシュテルだったが、見事余計な仕事を任されてしまった。
男衆ならば適当にあしらえば良いのだが……女性、特に貴婦人に対しては前世グランツハルトの意識が邪魔をして、下手な対応ができない。
男装し騎士団に所属していたあの頃は、淑女教育よりも騎士道精神に重点を置いた教育を受けていたのだ。貴婦人への無償の献身が求められ、殊更丁寧に接するよう厳しく躾けられたグランツハルト。
その魂の入っているシュテルが、大きな瞳を期待に輝かせる可憐な女性二人を無下に扱えるはずもなかった。
「分かりました。少し時間をくださいませ……他の露店も見てから決めたいのです」
ついでにセンスが悪くても文句言うなよ、と内心ぼやきつつ、シュテルは踵を返して周囲を見渡す。
春の精霊祭は領内で開かれる催しの中で、最も規模が大きい。
例年どおり港の沿岸沿いには多種多様な露店が立ち並び、今も行き交う人々は楽しそうに露店を物色している。
串に刺さった可愛らしいウサギの飴を母親らしき女性へ強請る小さな子ども視界の端に収め、シュテルは緩んでいく己の口元を自覚していた。
(良いよな、これこそ平和って感じで。良い時代になったもんだ……)
戦いに次ぐ戦いに明け暮れていた前世では、想像もできなかった穏やかな時間。
――――これを守るために、今の自分に出来る事は何だろうか。
ぼんやりと考えながら歩いていたのがいけなかった。
「ッ、シュテル!」
悲鳴じみた母の声。ハッと我に返った時には、右肩に強い衝撃を受けて、ぐらりと体が傾いた。
が、手首を強い力で引かれ、シュテルは顔から固い何かへ突っ込んだ。
「悪ぃ、急いでいたから前を見てなかった」
「いえ。私の方こそ…」
怪我はと問われ、反射的に瞑っていた目を開けたシュテル。
視界に飛び込んできたのは、くるみ大の金釦が規則正しく並ぶ、深い臙脂色の固い布地。
(これはまた、随分高価な騎士服だが……)
よく見れば細やかな蔦の透かし模様が描かれた、一目で高価と分かる隊服。
王国騎士団のそれではない。領主がそれぞれ保有する騎士団のものだろう。しかしシュテルには、この隊服に見覚えがった。
昨今の状況を思えば有り得ない話だが……まさか、と恐る恐る顔を上げて、息を呑んだ。
「――――……ラインハルト?」
シュテルと同じ、豊かに実った稲穂のような黄金の髪。二重まぶたの下で瞬く、澄んだ海を映す鮮やかな青い瞳。
少年のスッと通った鼻筋に刻まれていた深い皺が消え、白磁の頬が淡く朱に染まっていく様をシュテルは呆然と眺めていた。
幼さを残しつつも、貴公子然とした目鼻立ちのハッキリとしている華やかな美貌。
過去、国境警備のため砦へと向かうシュテルを……グランツハルトを泣きながら引き留めていた、弟ラインハルト・フォン・ガードナーと瓜二つの少年。
彼もまた、呆然とシュテルを見つめていた。