第8話
二人はスタートラインに並んだ。
みおの筋肉質な脚が地面をしっかりと捉え、爪先が土を軽く抉るように構えていた。
汗が額を伝い、短い髪が前髪に張り付きながらも、彼女の瞳は燃えるような決意でゴールを睨みつけていた。
呼吸を整え、胸の鼓動を抑え込みながら、集中力が全身から溢れ出していた。
一方、少年の体はまるで風前の柳のように軽やかで、肩がわずかに震えながらも、瞳が静かに前方を捉えていた。
月兎人の本能が体を低く沈め、指先が地面に軽く触れる──大地と一体になるような構えだった。
二人はゴールラインを睨み、息を整えた。
みおは目線を逸らさず少年に囁いた。
「この瞬間は何も気にしなくていい。俺達だけの時間だ」
その言葉が少年の耳に染み込み、月兎人の血が静かにざわめき始めた。
体が熱を帯び、耳の先がピリピリと疼き、地球の風を肌で感じてみたかった──重く甘い空気、土の匂い、クラスメイトたちの視線が、すべてが少年の胸を高鳴らせた。
心臓の音が耳に響き、足の裏から力が湧き上がる感覚が、まるで月を駆け抜ける自由を思い出させた。
パンッ!
ピストルの乾いた音がグラウンドに鋭く響き、二人の体が爆発的に動き出した。
スタートの瞬間、土煙が小さく舞い上がった。
みおの走りは、努力の結晶だった。
スタートの爆発力で一気に加速し、筋肉が波打つように収縮・拡張を繰り返す。
脚が大地を強く蹴り、太ももの筋繊維が鋼のように張り詰め、風を切り裂く音が耳元で鳴り響く。
息が荒く、汗が飛び散りながらも、彼女の目は前だけを捉え、五十メートル五・六秒の自己ベストを更新しようとする執念が全身から迸っていた。
地面を蹴るたび、砂が飛び、彼女の影がグラウンドに長く伸びる──毎日の孤独な練習の軌跡だった。
一方、少年の疾走は、まるで幻影のようだった。
月兎人の本能が解き放たれ、体が風そのものになった──いや、風を凌駕する速さで。
脚が地面を滑るように蹴り、ほとんど音を立てず前へ、前へと進む。
視界が世界を切り取り、白銀の髪が後ろに激しく流れ、息一つ乱れなかった。
空気が頰を鋭く切り、耳がピンと立ち、瞳がゴールを鋭く捉える──風、気持ちいい。みおさんの言葉通り、何も考えなくていい。
ただ走った。
みんなの視線が背中を押し、胸が熱くなった。
五十メートル、二・五秒──人間の限界を超えた速さで、少年の影がみおを置き去りにする瞬間、クラス中が息を呑んだ。
少年はゴールラインを駆け抜けた。
振り返ると、みおの姿がまだ中盤だった。
クラス中が見守り、あかりの目がぱっと広がった。
生徒たちの歓声が遅れて爆発した。
「え、速すぎ!」
「王子様、やばっ!?」
後から、息を切らしてゴールを切ったみお。
汗だくの顔に、悔しさよりも驚嘆が鮮やかに浮かび、瞳が輝くように少年を捉えていた──その視線は、ただの競争相手ではなく、憧れの対象として彼の全身を撫でるようだった。
「はあ、はあ……!」
みおの息遣いが熱く荒く、汗が頰を伝い、短髪を湿らせて肌に張りつかせていた。
その熱気が少年の肌に先に届き、みおの体臭──土と汗が混じった、野生の獣のような力強い香りが、彼の鼻腔を容赦なくくすぐった。
みおは一瞬の間もなく、勢いのままに少年に飛びついた。
「すごいな! これでも俺、走りには自信があったんだぞ!」
笑い声がグラウンドに響き渡り、みおの腕が少年の体をがっちりと固定した──筋肉質の腕が、彼の背中を優しく、しかし確実に支えた。
その衝撃が少年の全身を駆け巡った。
みおの体は熱く、汗で湿ったスポーツウェアの布地が少年の肌に直接触れ、摩擦を生む。
その布地越しに伝わる、みおの心臓の鼓動──ドクン、ドクンと、少年の心臓と同期するように激しく響き、みおの息が彼の耳元をくすぐった。
汗の香りが濃厚に広がり、少年の本能を静かに溶かしていく。
それは、ただの抱擁ではなく、みおの全力の賞賛と信頼が、肉体を通じて少年に注がれる瞬間だった──みおの腕の筋肉が少年の体を締めつけ、彼の体躯がみおの力強い輪郭に溶け込むように寄り添う。
少年の心臓が、みおの鼓動と重なり合い、加速していく。
汗の匂いが少年の本能を刺激し、「もっと嗅ぎたい……! みおさんのこの活力あふれる汗の味、走り抜けた大地の息吹、全部……!」という衝動が、少年の胸の奥から急速に膨れ上がり、抑えきれない波のように体を駆け巡った──あ、だめ……この温もり、匂い……みおさんの体、こんなに近くて……!
少年の心臓が爆発的に鳴り響き、視界が一瞬白く染まり──ぽわんっ、という可愛らしい音とともに、少年の体がまた兎の姿に変わってしまった。
慌ててみおを見上げた──小さな兎の瞳が、みおの驚いた顔を上目遣いに映し、耳がぴくぴくと震え、尻尾がビクッと跳ね上がった。
「あっ……!」
みおの声が上ずった。
クラスメイトたちが、野次馬のように集まり始めた。




