どういう意味?
「意外だな、君に夫がいないなんて。この国の男たちは一体どこに目をつけているんだ?」
おどけたように言われて、アンナは思わずにっこりと笑ってしまった。
「それはもしかして、気を遣ってくれているのかしら? ありがとう。すっかり行き遅れたわ。公爵邸の子供部屋で過ごす時間が楽しすぎて、気づいたらあっという間に年を取っていたみたい」
アンナとしてはべつに恥ずかしいとも悪いとも思っていないので、隠すこともなければ脚色することもなく事実を告げるのみだ。
ロジェは眼鏡の奥の瞳を優しげに細めた。
「それも意外だな。僕が知っているアンナは、毎日草のことばかり考えている女性だった。子どもが好きだったの?」
「実はそうみたいなの、自分でも意外なのだけど。奥様が出産なさるまで、子育てなんてずっと他人事のように考えていたわ。最初のお嬢様がお生まれになったときですら、人手がないからたまたま自分がその仕事に関わっているだけと思っていたもの。そこから長く続けることになって、今では離れがたく感じているのだからわからないものよね」
研究所に残ったロジェは今でも研究者を続けていることだろう。胸がちりっと痛む。
だが、すぐに忘れられる程度の痛みだ。
(欲しいもの全部を手に入れられるわけじゃないわ。あのまま研究を続けている人生もきっと楽しかったと思うけど、今の私も十分幸せ)
流行病が猛威を振るった時期があり、乗り越えられず倒れたひとを何人も見送っている。それだけに、アンナはふとした瞬間に生きているだけ自分は良かったのだとしみじみ思うのだった。そのおかげで、こうして懐かしい友人に会うこともできるのだから。
「子育てから離れがたい? ということは、この先もずっとモリス公爵邸で同じ仕事を続けたいと考えているってこと?」
さらりと鋭い質問を繰り出されて、アンナはほんのりと苦笑いをした。
「それは目下の大問題ね。子どもというのはいずれ大きくなるものだから、続けようとしても続けられないときがくると奥様に言われていて。少しずつ次のことを考え始めたところよ」
「次って? 仕事として? それとも……」
ロジェがなぜ濁して最後まで言わなかったのは、アンナとて察するものがある。
(「自分で産めばいいじゃない」なんて、奥様でない限りなかなか言えないですよね!)
紳士のロジェらしい。隣国にいた頃、華やかな場にお呼ばれしたときにはいつも彼がエスコートを買って出てくれていたことを若かりし日の青春の一ページとして思い出した。彼は常に礼儀正しくスマートで、一緒にいて苦ではない相手なのだ。
「いろいろ気にかけてくれてありがとう。もしかして私に職を紹介してくれようとしているのかしら? 研究に関しては、もう離れてずいぶん経ってしまっているのであまりできることはないかも」
研究仲間である彼が気にしているのは結局のところそこだろうとアンナが質問で返せば、ロジェは生真面目な顔で見つめ返してきた。
「もしアンナがその分野で職を望むのなら、力になることは可能だ。だけど、いまは子育てが楽しいのならまず結婚してみるっていうのはどう? それは考えてみた?」
「……」
すぐには返事することができず、アンナは笑顔のまま固まった。
「アンナ?」
優しく追い詰められて、アンナは「ごめんなさい、びっくりして」と黙ってしまったことを詫びてから告げた。
「こ、こ、婚活のようなものを……してはいるのです」
あまりにも自分に不釣り合いな単語を口にしてしまい、視線が泳いだ。ロジェをまっすぐ見ることができない。しかし、ロジェは曖昧なままにする気はないらしい。
「どういう意味?」
正面から問い質されると、恐ろしく居た堪れないものがあった。
現状を正確に伝えるのであれば「失敗しようとして婚活をしたら成婚しかけて慌てている」となる。
(しかもその相手の男性がウォーレン・ミッドフォード侯爵ですよ……。ロジェも同業者として名前は当然知っていることでしょうから、聞き流すことはできないですよね。でもミッドフォード卿のいない場であれこれ言うのは品の良いことでもないですし……)
どこまで話すべきか、判断がつかない。
緊張の一瞬の後、ロジェはアンナから視線を外すとさりげなく室内にいるメイドのほうをちらっと見た。男性の客人とアンナが密室で二人きりにならないように、ひっそりと隅に控えているのである。アンナの同僚たる彼女に、会話はすべて筒抜けだ。
気遣うような優しい声でロジェが言った。
「君はいま仕事中だろう。このまま長話をして迷惑をかけるわけにはいかない。僕は少しの間この国に滞在しているから、改めてゆっくり食事でもどう?」
以前は研究所で机を並べていた仲であり、食堂や庭で一緒にランチをするのは日常であった。アンナが思い浮かべたのは、そういった気楽な席である。
「いいですね」
「やった。ありがとう! すぐに連絡する! 明日の夜にでも都合はつくかな?」
「え、あ、夜?」
「僕も旅行中でずーっといられるわけじゃないから、早いほうがいいな」
「わかりました。奥様に話してみます」
もしかして二人きりで? とアンナは遅れて気づいたが「かつての友人」「短い滞在」「積もる話がある」という状況を考えると、今さらだめとは言いにくい。二人は知り合い同士であるがこの国に共通の友人がいない以上、同席を願い出るような相手もすぐには思いつかなかった。
(ミッドフォード卿との関係を深めるべくデートを重ねているこの時期に、男性と二人で出かけるなんてあまり良くないのではないかしら)
ロジェが誘ってきたのは、アンナが未婚でしかも婚活中と言ったから気兼ねする相手もいないと考えたからで他意はないだろう。だが、アンナとしては二の足を踏んでしまう。
実はいま婚約を意識している相手がいるのですと、一言伝えるべきではないか。いや、自分を女性として考えていないであろう友人に言う必要があることだろうか。
悶々と悩んでいるアンナに対し、ロジェはくもりのない笑顔で告げてきた。
「この国での僕の滞在先はミッドフォード侯爵邸だ。何か連絡事項があるときはそこに手紙を」
「ミッドフォード侯爵邸!?」
思わず聞き返したアンナに、ロジェは「うん」とあっさりと認める。
「流行病の特効薬を作った侯爵と連絡を取っていたんだけど、いま王都にいると聞いて会いに来たんだ。まだ本人には会えていないんだけど、今から楽しみだな。いったいどんなひとなんだろうね?」




