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第2話 交易という名の賭け

 ベヒモスが死んだ。


 報告を持ってきたのは、前線の斥候せっこうではなく、脱走兵だった。


 天幕の入口で膝をつき、震えながら述べた。暴食のベヒモス、砦にて討伐され、人間側の被害甚大、されど砦は健在。補給は途絶えず。


 ゼルダークは報告を聞き終えるまで、一言も発しなかった。聞き終えてからも、しばらく黙っていた。


「下がっていい」


 脱走兵を下げたあと、天幕には書類の匂いだけが残った。


 ベヒモスは切り札だった。飢えた切り札だ。あの獣すら、まともに食わせてやれないまま前線へ放り出した。暴食の名を持ちながら、腹の中は空だったはずだ。それでも砦を割れると踏んだ。割れなかった。


 計算が狂ったのではない。計算の前提が壊れている。


 空から食糧を降らせる男。あの報告が事実なら、人間の砦は補給の常識そのものが書き換えられている。通常の兵站へいたんをいくら潰しても、別の経路が存在する以上、潰した意味がない。


 ゼルダークは机の上の紙を見た。西部集落の配給表。鉱山の産出量。前線の食糧備蓄。どの数字にも余裕はない。この薄い紙の上に乗っている数字だけが、百万の命の天秤だった。


 リーゼルが天幕に入ってきた。一礼してから報告書を差し出す。いつもと変わらない几帳面な所作だったが、眼鏡の奥の目が揺れていた。


「ベヒモスの件は」


「聞いた」


「……前線の士気が持つかどうか、懸念しております」


「持たないだろうな」


「では、撤退を?」


「撤退する先がない」


 リーゼルが黙った。


 退いた先に何がある。干上がった集落と、掘る体力もなく坑道の前に座り込む労働者と、石をしゃぶって眠る子供たちだ。


「それよりも報告がある」


 リーゼルが別の紙を広げた。


「人間側の砦に、王都から使者が入りました」


「使者?」


「書記官が一名、騎士が二名。馬具は王宮仕様です」


「勝ちに乗じて押してくる気か」


「それが、どうも様子が違うようでして」


 リーゼルの声が、わずかに低くなった。


「斥候によれば、砦の中で言い争いが起きていたと」


「砦の人間同士でか」


「はい。王都の書記官と、砦側の人間——物流屋と呼ばれている者と、それから王女が」


 ゼルダークの指が止まった。


「内容は」


「断片的ですが。書記官は物流屋を王都へ連行しようとしたらしく、王女がそれを拒んだと。さらに物流屋のほうが、何やら『交易』という言葉を使ったと」


「交易」


「はい。『魔族と、食糧と資源の交換を行う』と」


 ゼルダークは椅子の背にもたれた。


 敵が交易を言い出す。しかも、ベヒモスを討った直後に。勝った側が、勝ちを使わずに取引を持ちかける。それは常識では考えられない。


 だが——。


「王都と砦が割れている」


「はい。書記官は明らかに王都の主戦派の使いです。王女と物流屋は、それと真っ向からぶつかった」


「王女か」


 先日、砦が持ち直したとき、王女が指揮を執っていると聞いた。ベヒモスの戦いでも陣頭に立ったらしい。前線に出てくる王族は珍しくないが、そこから外交まで踏み込む王女は聞いたことがない。


「王女と物流屋の合作か」


「そのようです」


「面白い」


 リーゼルが眼鏡の位置を直した。


「面白い、で済ませてよろしいのですか」


「済ませないさ」


 ゼルダークは立ち上がった。天幕の外を見る。陣営の焚き火がいくつか揺れている。兵士たちは寡黙かもくだった。ベヒモスの敗報はいほうはまだ全体には伝わっていないが、空気はすでに沈んでいる。負けの匂いは、報告より先に届く。


「リーゼル。人間側の内部事情を整理しろ。王都の主戦派と王女の対立、書記官の権限範囲、物流屋の立場。使える隙間がどこにあるか」


「隙間、ですか」


「一枚岩でない相手は、隙間から動かせる」


 リーゼルは一瞬だけ表情を変えたが、すぐに元の事務的な顔に戻った。


「承知いたしました」


◆ ◆ ◆


 翌日、ガルドが陣営に現れた。


 カザンから半日かけて歩いてきたらしい。前と同じく焚き火の前に腰を下ろし、火を見つめている。だがその横顔は、前回よりさらに痩せていた。


「聞いたよ」


 火を見たまま、ガルドが言った。


「ベヒモスのこと」


「ああ」


「あの子、好きだったよ。あたしは」


 ゼルダークは黙った。ベヒモスは幼生のころ、カザンの近くで育った。ガルドが餌を与えたこともある。食べ盛りの獣を食わせる余裕があった、最後の時代の話だ。


「あの子も腹を空かせたまま死んだんだろ」


「おそらく」


「かわいそうにね」


 ガルドの声は低い。怒りではなく、もう怒り切ったあとの静けさだった。ゼルダークは少し迷って、それでも口を開いた。


「人間が交易を言い出した」


「交易」


「食糧と引き換えに、こちらの資源を。まだ話だけだ。だが——」


「誰の話だい」


「あの物流屋だ。空から飯を降らせた男」


「それと王女だろ」


「知っていたのか」


「前線から戻った兵が話してた。王女が書記官を怒鳴りつけたって。お姫さんが現場で啖呵たんか切るのは珍しいから、噂になるのが早い」


 ゼルダークは鼻で笑った。


「噂の足は速いな」


「いい話か悪い話かわかんないから、余計に広がるんだろ」


 ガルドは火に枝を足した。炎が弾ける。


「交易、か。あたしらの石と引き換えに、飯をくれるって話かい」


「そういうことだ」


「信じていいの」


「信じるかどうかの話ではない。検証する話だ」


「ゼルダーク」


 ガルドがこちらを見た。火明かりに、深い皺が刻まれた顔が照らされている。


「フィルのことを覚えてるかい」


「忘れるものか」


「あの子が明日石を舐めなくて済むなら、あたしは人間だろうが何だろうが頭を下げるよ」


「頭を下げる必要はない」


「でも、飯をくれる相手が明日戦場で会う敵かもしれないんだろ。それをどう説明するんだい、あの子たちに」


 ゼルダークは答えられなかった。


 ガルドの問いはいつも、書類の余白に収まらない場所を突いてくる。


「賭けだ」


「賭け?」


「戦争を続ければ、確実に負ける。交易を受ければ、騙される可能性がある。だが、確実な敗北と不確実な取引なら——」


「不確実なほうに張るかい」


「それ以外に、あの子たちの口に入れるものがない」


 ガルドは長く息を吐いた。その息は白く、闇にほどけて消えた。


 ゼルダークは、その横顔を見ていた。怒りが消えたわけではない。呑み込んだのだ。呑み込むことに慣れた顔だった。それを覚えさせたのは、自分が始められなかった戦争の、終わらせ方だった。


「あんたがそう言うなら、あたしは黙ってるよ」


「反対しないのか」


「反対したって、あんたは聞かないだろ。昔からそうだ」


「聞いた覚えもあるが」


「あんたの記憶は都合がいいんだよ」


 ガルドは立ち上がった。腰が重そうだった。


「あたしはカザンに戻る。フィルたちに、もう少しだけ待てって言わなきゃいけない」


「ガルド」


「何だい」


「待たせすぎた」


「知ってるよ」


 それだけ言って、闇の中へ消えた。


 焚き火だけが残った。


 ゼルダークは膝の上の紙片に目を落とした。少量、高頻度、小分け交換。人間の物流屋が並べた合理。その合理に、戦友の孫の命を預けようとしている。


 王の決断とは、いつもこうだ。誰かの怒りを呑ませ、誰かの恨みを背負い、それでも、子どもの口に何かを入れる。正しさを選んでいるのではない。ただ、終わらせ方を選んでいるだけだ。


 火が爆ぜた。ゼルダークは、消えた背中の方角を、長く見ていた。


◆ ◆ ◆


 翌朝、リーゼルが報告書を持ってきた。夜通しでまとめたのか、目の下のくまがいっそう深い。


 十年間、この男はこうして毎朝報告書を持ってくる。問われたことだけを答え、余計な感想は一切挟まない。ただ、夜通しの作業を命じたことは一度もない。リーゼルが勝手にそうしているのだ。理由を聞いたことはない。聞けば「業務です」と返す。それ以上の答えが出てくる男ではなかった。


「人間側の構造を整理いたしました」


「聞こう」


「王都の中枢は主戦派が多数です。宰相府を中心に、勝利による領土拡大と資源確保を主張しています。王女はそれに対し、独自に和平路線を進めている。砦の現場は王女に従っていますが、王都の後ろ盾は薄い」


「物流屋の位置は」


「軍の正式な系統に属していません。王女個人の契約者です。つまり王都から見れば、いつでも切り離せる存在です」


「切り離せる——が、切り離すと砦が崩壊する」


「その通りです。物流屋の倉庫なくして砦は持ちません。ですから、主戦派も今は手を出せない」


 ゼルダークは紙の上に指を這わせた。


 人間側は一枚岩ではない。王女と物流屋は独自に動いている。王都の老臣たちはそれを苦々しく見ているが、成果が出ている以上、正面からは潰せない。


 隙間がある。


 しかしその隙間は、利用するものではない。


「リーゼル」


「はい」


「隙間を使うと言った。撤回する」


「は」


「隙間を——広げる」


 リーゼルが眉を上げた。


「王女と老臣の対立をあおるのではなく、王女の路線が通りやすくなるように、こちらの出方を調整する」


「敵の改革派を支援する、ということですか」


「支援ではない。結果的にそうなるだけだ」


 リーゼルの眼鏡の奥で、何かが動いた。


「それは策略ですか。それとも——」


「策略と呼べ」


 ゼルダークは断言した。


 魔王が人間の王女を支援するなど、策略以外の何と呼べばいい。民を飢えさせた責任がある。戦争を終わらせる義務がある。そのために使えるものは何でも使う。


 ただ——あの物流屋は面白い男だ。敵に飯を食わせてから話を聞く。捕虜を締め上げず、腹を満たす。そして交易という名の賭けを、王都の反対を承知で言い切った。


 ベヒモスで砦を割れなかった以上、次の手は武力ではない。


 書類だ。


 条件を並べ、数字を詰め、輸送路を引き、品目を選び、違反時の停止条件を組む。あの男がやろうとしていることを、こちら側でも準備しなければならない。


「リーゼル。交易の受け入れ条件を、こちらでも叩き台にしろ」


「品目と量は?」


「黒曜石を出す。初回は安く見積もれ」


「安く、ですか」


「値踏みだ」


 リーゼルは一瞬だけ首をかしげたが、すぐに筆を走らせ始めた。


 机の上に書類が積み上がる。戦争の書類から、交易の書類へ。中身は変わっても、量は変わらない。魔王の仕事は書類処理である。それだけは、何も変わらない。


 ただ、今日の書類には——ほんの少しだけ、先のある数字が並んでいた。


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