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第1話 魔王の仕事は書類処理

 朝が来ると、書類も来る。


 魔王ゼルダークの一日は、広間の玉座からではなく、天幕の中の事務机から始まる。


 机の上には、昨夜のうちに積み上がった報告書が並んでいた。


 西部集落の食糧配分表。

 鉱山の月次産出量。

 水利権をめぐる二つの部族の苦情。

 東の採掘場の崩落報告。

 衛生官からの疫病懸念。

 それから、前線の兵員配置表。


 魔王の仕事の九割は、書類処理である。


 残りの一割が、戦争と演説と、たまの睡眠だった。ゼルダークは報告書の一枚目を手に取り、数字を追った。西部集落への配給量が、先月より二割減っている。理由は書いてある。「収穫量の低下に伴い、備蓄の放出上限を調整」要するに、配る分がないのだ。


 計算は合っている。合っているからこそ、腹が立つ。


「陛下」


 天幕の入口から声がかかった。側近のリーゼルだ。痩せた文官で、角は細く、眼鏡の奥の目はいつも疲れている。ゼルダークの事務処理を補佐して十年になるが、この男もまた削れていた。


「何だ」


「前線からの急報です」


「また補給線の話か」


「いえ。人間の砦が持ち直したようです」


 ゼルダークの手が止まった。


「持ち直した。補給路は三度潰したはずだが」


「はい。ところが新たな補給手段が現れた模様でして。斥候せっこうの報告によれば——空から、食糧が降ってきたと」


「空から」


「はい」


「鳥の話をしているのか」


「いえ、文字通りです。中庭に大鍋や食糧箱が突然出現したと」


 ゼルダークは報告書を置いた。空から食糧が降る。魔法か、何かの術式か。いずれにせよ、三度潰した補給線を迂回されたことになる。


「対応はいかがなさいますか」


「前線に増援を送る余裕はない。食糧もない。空から降ってくるなら、補給線を四度潰しても意味がない」


「では」


「観察しろ。相手の手札を知るのが先だ」


「承知いたしました」


 リーゼルは几帳面きちょうめんに一礼し、天幕を出ていった。あの男の律儀さだけが、この事務処理地獄の中で唯一信頼できる部分だった。


 魔王の仕事は、焦らないことだ。少なくとも、焦っている顔を見せないことだ。


 内心では歯を食いしばっている。砦を落とせば人間の防衛線が崩れ、交渉の余地が生まれるはずだった。その読みが外れた。


◆ ◆ ◆


 昼前、ゼルダークは天幕を出た。月に二度の定例巡回だ。


 報告書の数字だけでは見えないものがある。それを知っているから、百年の間、この巡回を一度も欠かしていない。


 最初の集落は北西部のカザン。鍛冶と採掘が主産業だが、三年で産出量は半減した。理由は単純で、掘る体力がない。集落の入口で、子供たちが遠巻きにこちらを見ていた。近寄ってこない。魔王の角を怖がっているのではなく、動く元気がないだけだ。


 日陰の石壁のそばで、幼い魔族の子が膝を抱えていた。口に何かを含んでいる。石だった。


 ゼルダークは足を止めた。

 あの子の顔に、見覚えがあった。ガルドの孫だ。名は確かフィルといった。二つ下の妹——ミーシャもいたはずだが、姿が見えない。

 何も言えなかった。

 百年前、先代の魔王が始めた戦争は、土地を痩せさせ、若者を前線に吸い上げ、農業の担い手を奪った。戦争は人を殺すだけではない。食糧を殺し、土地を殺し、孫の世代まで飢えさせる。


 集落の長が頭を下げた。


「今月の配給は、いつ届きますか」


「三日後に出す。干し肉を少し増やした」


「ありがたいことです」


 長の顔には礼があったが、目には諦めがあった。それを双方がわかっている。


「足りないのは知っている。だが、今出せるのはそれだけだ」


「はい」


「もう少しだけ耐えてくれ」


 その言葉が何の保証にもならないことを、ゼルダーク自身がいちばんよく知っていた。


◆ ◆ ◆


 夜、陣営に戻ると、ガルドが焚き火の前にいた。


 焚き火の前のガルドを見ると、いつも同じ記憶が戻る。同じ前線で背中を預け合い、互いの足りない場所を埋めた日々。剣のガルドと、頭のゼルダーク。王になったのは自分のほうだった。ガルドは「あんたが被る冠は重そうだ」と笑っただけだった。——あの笑い方を、もう何年も見ていない。


 あの頃はまだ、笑えていた。


 夫を前線で亡くしたのは二十年前だ。子供たちはそれぞれ独立したが、孫たちは散り散りの集落で暮らしている。フィルのいるカザンは、その一つだった。


「巡回か」


 火を見たまま、ガルドが言った。低い声だ。この女は声を張ることをほとんどしない。怒りが深い人間ほど、声は静かになる。


「ああ」


「カザンにも行ったんだろ」


「行った」


「フィルは」


「石を舐めていた」


 ガルドの手が、膝の上で握られた。指の節が白くなる。


「そうか」


 それだけ言って、しばらく二人とも黙った。火が爆ぜる音だけが続く。


「前線から報告がある」


「砦が持ち直した件か。聞いた」


「それだけじゃない。人間が——砦の中で、捕虜に飯を食わせたらしいよ」


「何だと」


「捕虜が戻ってきて証言した。人間の男が飯を差し出して、それから話を聞いたと」


 ゼルダークは眉を上げた。捕虜に食わせてから話を聞く。飢えた相手を締め上げて情報を抜くのが人間のやり方だ。先に腹を満たせば本音が漏れるという発想は——。


「物流屋の発想だな」


「何だいそれは」


「召喚された異世界人の一人だ。勇者として呼ばれたが、スキルが戦闘向きでなく切り捨てられた。以来、辺境で物流業を営んでいるらしい」


「切り捨てられた人間が、なぜ砦にいる」


「王女が連れてきた」


 ガルドの目が細くなった。


「王女と物流屋。妙な話だね」


「妙だが、結果は出ている。空から食糧を降らせて砦を立て直した」


「なら厄介だろ。砦が持てば人間は膠着こうちゃくに持ち込める」


「ああ」


「攻めるのかい」


「飢えた兵で?」


 ガルドが黙った。それが答えだった。


 ゼルダークは火を見つめた。百年の戦争は、どちらの側にも「勝ち」を残していない。人間は補給路を維持できず、魔族は兵糧が尽きかけている。互いに削り合って、残ったのは書類の山と飢えた子供だけだ。


 フィルの顔が浮かんだ。石を口に含んだ、あの痩せた顔。


「あの物流屋、面白いかもしれんな」


 ゼルダークはぽつりと言った。


「面白い?」


「飯で戦場を回す人間がいるなら、この戦争の終わり方も変わるかもしれない」


「甘いこと言うんじゃないよ」


「甘くはない。ただ、苦いだけの選択肢しかないよりはマシだ」


 ガルドは鼻を鳴らして立ち上がった。火明かりに照らされた横顔は、怒っているのか、悲しんでいるのか、この距離ではわからなかった。


「あたしはあの子たちのそばに居たいよ。カザンに戻りたい。けど戻ったって、食わせてやるものがない」


「ああ」


「だから前線にいる。ここにいれば、せめて配給の順番を見張れるから」


 それだけ言って、ガルドは闇の中へ歩いていった。

 ゼルダークは一人で火を見つめた。


 明日もまた書類が来る。配分表を直し、苦情を裁き、前線の数字を睨む。魔王の仕事は終わらない。


 ただ——空から食糧を降らせる男の話だけが、今夜は少しだけ頭に残った。


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