第3話 三人目の席
店の中の空気が、わずかに張り詰めている。
男と女。
二人とも、同じものを掴みかけている。
だが、届かない。
指先で触れる寸前で、滑り落ちる。
名前が抜け落ちている。
それだけで、すべてが繋がらない。
「……もう少しで」
男が言う。
「分かりそうなんです」
女も、静かに頷く。
「私も」
グラスの中の氷が、ゆっくりと溶ける。
時間は進んでいるはずだ。
だが、この店の中では、
何かが足りないまま止まっている。
そのとき——
ドアが開く。
音は、いつもと同じ。
だが、空気が変わる。
二人が同時に顔を上げる。
反射ではない。
引かれるように。
入口に立っていたのは——
若い男だった。
二十代後半くらい。
ラフな服装。
この店にはあまり似合わない軽さ。
だが、その表情は硬い。
何かを探している顔だ。
「……」
店の中を見渡す。
そして——
カウンターの二人を見た瞬間、止まる。
目が、わずかに見開く。
「……あ」
小さく声が漏れる。
その一音で、空気が変わる。
「いらっしゃい」
声をかける。
若い男は、こちらを見ない。
二人から目を離せない。
ゆっくりと歩く。
迷いなく、カウンターへ。
そして——
二人の向かい側の席に座る。
真正面。
距離が、揃う。
三角の形になる。
「何にしますか」
聞く。
若い男は、少しだけ遅れて答える。
「……同じので」
視線はまだ、二人に向いたまま。
頷く。
三つ目のグラスを用意する。
同じ酒。
同じ量。
だが——
三つ揃うと、空気が変わる。
並べる。
三人の前に。
若い男が、先に口を開く。
「……どこかで」
声がかすれている。
「会いましたよね」
女が、わずかに息を呑む。
男も、ゆっくりと頷く。
「……同じことを思ってる」
その言葉で、三人の間に何かが通る。
見えない線。
繋がりかけている。
「……ここだ」
若い男が言う。
「この店で」
その言葉が、確信に変わる。
三人とも、否定しない。
「……でも」
女が言う。
「名前が」
そこで止まる。
言えない。
思い出せない。
「……俺もだ」
男が続く。
「一番大事なところだけ、抜けてる」
若い男が、グラスを強く握る。
「……誰と来たのか」
その言葉に、全員が反応する。
同じ欠落。
同じ穴。
「……違う」
若い男が、首を振る。
「それだけじゃない」
顔を上げる。
二人を見る。
「誰が、いなかったのかだ」
その一言で、空気が凍る。
“来ていた誰か”ではなく、
“来ていなかった誰か”。
その発想が、逆転させる。
女の顔が、わずかに変わる。
何かに触れた。
「……一人」
小さく呟く。
「足りなかった」
男も、ゆっくりと頷く。
「……そうだ」
記憶が、少しずつ動き出す。
断片が、組み替わる。
順番が、変わる。
「……来るはずだった」
若い男が言う。
「でも、来なかった」
その瞬間——
すべてが揃う。
三人の視線が、同時にドアへ向く。
静かだ。
誰もいない。
だが——
そこに“いるはずだった何か”が、はっきりと存在している。
「……四人目」
女が、かすかに言う。
その言葉が、答えになる。
三人では足りない。
欠けているのは、“もう一人”。
来なかった誰か。
あるいは——
来られなかった誰か。
「……呼べるのか」
男が呟く。
自分でも分からない問い。
だが、この店では——
起きる。
あり得ないことが、形になる。
「……やるしかない」
小さく言う。
ボトルを取る。
今度は、四つ目のグラスを出す。
何も入っていないグラス。
空のまま。
三人の前に並べる。
その隣に、もう一つ。
「……飲め」
三人に言う。
同時にグラスを持つ。
口をつける。
その瞬間——
空のグラスが、わずかに鳴る。
誰も触れていないのに。
氷の音がするはずもないのに。
カチ、と小さな音。
三人の顔が、同時に変わる。
何かが、そこにいる。
見えないが、確かに。
「……思い出した」
女が言う。
声が震えている。
「来るはずだった人」
男も続く。
「でも、来なかった」
若い男が、ゆっくりと口を開く。
「……来られなかったんだ」
その一言で、すべてが繋がる。
理由。
欠落。
そして——
この夜の意味。
カウンターの上の、四つのグラス。
三つは満たされている。
一つは空のまま。
だが、その空白が、
一番重く、そこにあった。




