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指先を灯す  作者: あめたす


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4/12

第4話:5センチ角の結界



土を殺すな、と父は言った

一週間後。約束通り、私は週末の朝を工房で迎えていた。


眼鏡工場へは月曜日から復帰している。あの失踪騒動の後、工場に戻るのには勇気がいったが、陣内課長は何も言わずに私をラインに戻してくれた。紗枝さんは休憩時間に「シチュー、美味しかった?」とだけ聞いて、私が頷くと「よかった」とだけ言って微笑んだ。


あの冷たい山から生還した私は、どこか自分の中に「図太さ」が芽生えたのを感じていた。

相変わらずビジネスYouTubeの動画は流し見している。けれど、画面の中の成功者が説く「市場価値」や「貧しさの象徴」といった言葉が、以前ほど私の皮膚を突き破ってこない。私には、あのビーフシチューの熱さと、父の無骨な掌の感触という「防壁」があるからだ。


「よし、今日から形にしてみろ。ただし、轆轤は使わせんぞ」


工房の奥で、父・誠が低い声で告げた。

父の指先は、今日も魔法のように滑らかに土を操っている。父の手は驚くほど冷たく、土の水分を損なわない。対して私の手は、本業の影響で皮膚が厚くなり、常に熱を帯びている。泥に触れた瞬間から、土が私の体温を吸って乾き始めるのがわかる。


「私は、どうすればいいの?」


「これを使え」


父が差し出したのは、厚紙を約5センチ四方に切り抜いたものだった。

「手捻り(てびねり)だ。その厚紙を敷け。その上で丸めた泥を、厚紙ごと回しながら立ち上げていく。お前のその『熱すぎる手』でまともに泥を触り続ければ、形になる前に割れる。指先と泥の接点を最小限にしろ」


私は言われた通り、作業台に5センチ角の結界を置いた。

その小さな正方形の上に、丁寧に練った泥を置く。

本業の眼鏡作りでは、0.1ミリの狂いも許されない量産の世界にいる。右手に研磨機、左手にフレーム。機械的な正確さが求められる日常。しかし、この土という素材は、私の意志を簡単には受け入れてくれない。

親指で泥の真ん中に窪みを作り、少しずつ壁を立ち上げていく。

厚紙を左手で少しずつ回転させ、右手で形を整える。


「あ……」


パキリ、と微かな音がした。

指の裂け目に泥が入り込み、鋭い痛みが走る。その痛みに意識が削がれた瞬間、私の手の熱が泥の水分を奪い、器の縁に無慈悲な亀裂が入った。


「焦るな。お前は量産の職人だろう。知恵を絞れ。機械にできないことを、そのボロボロの手でやってるんじゃないのか」


父の言葉に、私はハッとした。

そうだ。私は毎日、何千本もの眼鏡フレームと向き合っている。機械の癖、素材の温度、その日の湿度。それらすべてを「感覚」で補正しながら、一定の品質を保つのが私の仕事だ。

私は深呼吸をした。

眼鏡フレームのカーブを測る時の、あの極限まで研ぎ澄まされた指先の感覚を呼び覚ます。

厚紙を回転させる速度。泥を押し上げる圧力。

土が乾きやすいのなら、その「速さ」で勝負すればいい。

一度決めた形を迷わず、一気に立ち上げる。


「……ほう」


背後で父が小さく声を漏らした。

私は無意識に、眼鏡作りの「型」の概念を陶芸に持ち込んでいた。

アーティストのように「降りてくる」のを待つのではない。

自分の中に設計図を引き、最小限の動きで、最も効率的なラインをなぞる。

私の手法は、陶芸としては異端かもしれない。

轆轤のダイナミックな流れもなく、ただ5センチ角の厚紙の上で、正確なリズムを刻む指先。

けれど、その動きは次第に熱を帯び、迷いが消えていった。


「お前は、俺とは違うな」


誠が私の横に立ち、出来上がった歪な、けれど芯の通った小鉢を見つめていた。


「俺は、土に教わって形を作る。だが、お前は土を自分の型に嵌め込もうとする。……それがお前の『職人』としての生き方か」


父の目は、かつてのように支配的ではなかった。

一人の表現者が、自分とは違う流派の人間を認めるような、静かな敬意が混じっていた。

私は、自分のボロボロの手を見つめた。

乾燥して、タコだらけで、可愛げのない労働の象徴。

けれど、この手が、祖父から父へ、そして私へと流れる「作る」という血の記憶を、今まさに形にしている。


「お父さん。私、やっぱりゼロから新しいものを作るのは向いてないみたい」


「だろうな。お前は決められた型の中で、自分を殺さずに滲ませるタイプだ」


「うん。でも、それが心地いいの。この5センチ角の厚紙の上が、今の私の、精一杯の自由なんだと思う」


私は、土の入り込んだ指先を、痛みを伴いながらも愛おしく感じていた。

ビジネスYouTubeの成功者が語る「自由」は、どこか遠い国の話のようだったけれど。

この、自分の指先が届く範囲の、確かな「手応え」。

これが、私の求めていた「市場価値」ではない、私自身の「生」の価値なのだ。

窓の外では、越前の夕暮れが工房をオレンジ色に染め始めていた。

工場の油の匂いも、この土の匂いも、今の私にとってはどちらも欠かせない酸素だ。

私は少しだけ、本当に少しだけ、姿勢を正した。

心に絡み付いていた「正解を選ばなきゃいけない」という強迫観念が、乾いた泥のようにパラパラと剥がれ落ちていく。


「来週は、もう少し速く作れるようになるよ」


「……勝手にしろ。だが、飯の前には手をよく洗え」


父のぶっきらぼうな背中が、夕闇に溶けていく。

私は、自分の指先に灯った小さな、けれど消えない熱を、大切に抱えたまま、母が待つ食卓へと向かった。

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