第3話:ビーフシチューと熱い土
陣内課長の車のヒーターが、凍りついた身体の表面をじりじりと溶かしていく。窓の外には、見慣れた越前の風景が広がっていた。灰色の空と、冬枯れの田んぼ。都会的な煌びやかさなど微塵もない、けれど確かな重みを持った景色だ。
実家の玄関先に車が止まる。
「……着いたぞ。親御さんに心配かけるなよ」
「ありがとうございました。本当に……すみませんでした」
「いいから行け」
陣内はそれだけ言うと、紬が車を降りるのを待って静かに出発した。そのテールランプの赤が冬霧の中に消えていくのを、紬はぼんやりと見送った。
玄関の引き戸を開けると、冬の冷気とは違う、懐かしく甘い香りが鼻をくすぐった。
「ただいま……」
蚊の鳴くような声だったが、奥の台所から、ドタドタと足音が響いてきた。
「紬! あんた、どこに行ってたの!」
母、志乃だった。エプロン姿のまま、紬の肩を掴んで泣きそうな顔をしている。その背後からは、厳しい顔をした父、誠がゆっくりと姿を現した。
「……騒がせるな。帰ってきたんならそれでいい」
誠の声は、かつての怒声とは違い、どこか力が抜けていた。誠は紬の顔を一度だけ鋭く見たが、何も言わずに奥の間へと引っ込んでいった。その背中が、以前よりも少し小さくなったような気がして、紬の胸の奥がチクリとした。
「いいから、あんた。まずはお風呂に入りなさい。身体の芯まで冷えてるわ。ご飯、できてるからね」
志乃に促されるまま風呂に入り、冷え切った足の指先が湯の中でジンと痛むのを感じながら、紬は昨夜の山道を思い出していた。
暗闇、土の匂い、そして紗枝のメッセージ。現世に戻ってきたという実感が、ゆっくりと浸透していく。
湯から上がると、食卓には大ぶりな器に盛られたビーフシチューが並んでいた。
弱火でじっくりと煮込まれた志乃の特製シチューだ。
ゴロゴロとした牛肉と人参、そして少し多めに入れられたマッシュルーム。
紬が幼い頃から、何かつらいことがあった日に必ず食卓に上ったメニューだった。
「食べなさい。あんた、昨日から何も食べてないんでしょ」
「……いただきます」
木のスプーンで一口、褐色のスープを口に運ぶ。濃厚なコクと、野菜の甘み。それから、どこまでも優しい温度。それを飲み込んだ瞬間、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れた。
「……おいしい。すごく、おいしい……」
ポタポタと、シチューの中に涙が落ちた。スマホの画面越しに見ていた、誰かが提唱する「最適な食事」でも、都会の洗練された「タイパの良い栄養摂取」でもない。ただ自分を思って煮込まれた、この温かいスープが、今の自分を繋ぎ止めている。
「ごめんね、お母さん。お父さん。私……」
「いいのよ。疲れてたんでしょ」
志乃が紬のボロボロになった手を、そっと包み込んだ。
「眼鏡工場、大変なのね。この手を見てれば分かるわ。でもね、あんたの手は……お父さんの手に、よく似てきたわね」
その言葉に、部屋の隅で新聞を読んでいた誠がピクリと反応した。
誠は新聞を置くと、不器用に立ち上がった。
「今日と明日は休みなんだろ。……明日、工房に来い。手伝わせる」
「え……?」
「陶芸をやるんじゃない。土を練るだけだ。その手で、何ができるか見てやる」
それが、誠なりの、精一杯の「案じ」であることに、今の紬は気づいていた。
かつて「お前は俺には敵わない」と突き放した父。
昭和の親父そのもので、機嫌が悪ければ食事をなぎ払い、自分を玄関の外に放り出した男。
プロ野球のナイター中継を優先し、私の見たいアニメは一度も見せてくれなかった。
不器用で、支配的で、尊敬はできても愛せない父。
けれど、その丸まった背中に向かって、紬は静かに答えた。
「……わかった。お願いします」
翌朝、紬は実家に隣接した工房の扉を引いた。
朝の光が斜めに差し込む工房は、ひんやりとしていて、濃い土の匂いが漂っている。
誠は既に定位置に座り、黙々と粘土を叩いていた。
かつての圧倒的な「壁」だった父。
陶芸展の金賞受賞作家。その指先は、今でも魔法のように土の表情を変えていく。
「そこに座れ」
誠が指差したのは、年季の入った作業台だった。紬は言われるまま、目の前にある一塊の土と向き合う。
「土を殺すなよ」
誠がぼそりと呟く。
紬は土に手を触れた。冷たく、湿った感触。だが、紬の手が触れた場所から、微かに水分が奪われていくのがわかった。彼女の手は、父のそれよりもずっと熱い。
眼鏡工場での激務が、彼女の手を「火を灯すような」熱を持つ、職人の手へと変えていたのだ。
乾燥し、皮が厚くなった指先。裂け目には土が入り込み、ピリピリとした痛みが走る。
都会の美容系インフルエンサーが推奨する「手入れの行き届いた手」からは、程遠い。
「お前は昔から、何でもよく知っていると先生に言われていたな」
誠が、粘土から目を離さずに言った。
「……え?」
「中学の時の家庭訪問だ。先生が驚いていたぞ。『紬さんは、大人が知らないようなことまで深く知っている。感心させられます』ってな。俺は、それが誇らしかった」
意外な言葉だった。父は私のことなど、自分を脅かす存在としてしか見ていないと思っていた。
「……お父さん、そんなこと覚えてたの」
「忘れるわけなかろう。……だが、頭でっかちになるな。土は言葉じゃ動かん」
誠は立ち上がり、紬の横を通り過ぎる際、彼女の肩を無骨に一度だけ叩いた。
「お前の手は、ボロボロで可愛げがない。だがな、それは逃げずに戦ってきた証だ。……いい職人の手になったな」
その一言が、ビジネスYouTubeのどんな成功哲学よりも深く、紬の胸に突き刺さった。
紬は土を握りしめた。
昨夜、山の中で「土に溶けて消えたい」と願った自分を思い出す。
けれど今、私の指先は、土を壊すためではなく、何かを灯すために動こうとしている。
陶芸への本格的な挑戦は、来週から。
今はただ、この冷たい土を練りながら、自分の中に灯った小さな熱を感じていた。
鏡の中の歯並びも、ボロボロの手も、まだ好きにはなれないけれど。
それでも、ほんの少しだけ、姿勢を良くして明日を迎えられる。そんな気がした。




