第2話:帰っておいで
アスファルトの乾いた音が、いつの間にか湿った土を踏みしめる音に変わっていた。
富永紬の視界からは、福井の街が放つ微かな光さえも消えていた。
街灯は途切れ、夜の闇は粘り気のある墨汁のように彼女の全身にまとわりついている。
薄いシャツ一枚では、2月の夜気は暴力に近い。
寒さを通り越し、皮膚の表面がチリチリと焼けるような痛みに変わっていく。
それでも、紬は足を止めなかった。
「……もっと、遠くへ」
肺の奥が冷え切り、呼吸をするたびに喉が引き裂かれるような感覚がある。だが、その痛みが心地よかった。
肉体的な苦痛が強まれば強まるほど、昼間に浴びせられた「家畜」という言葉や、鏡に映った自分の歪な姿、そしてスマホの向こう側の成功者が説く「市場価値」という名の呪縛が、遠い過去の出来事のように霧散していく気がしたからだ。
ふと見上げると、木々の隙間から凍てつくような星空が見えた。
都会の空では決して見ることのできない、冷酷なまでに鮮明な光。
それは、ビジネス系YouTubeが語る「効率的な成功」とは無縁の、ただそこに在るだけの圧倒的な質量を持った沈黙だった。
紬は、自分がどこにいるのか分からなくなっていた。
鯖江と越前町を隔てる古道の入り口だろうか。電波の届かない、深い森の入り口。
500mlのペットボトルは既に空になり、彼女の手の中でベコベコと虚しい音を立てている。サンダル代わりの靴は泥にまみれ、親指の付け根には大きな靴擦れができていた。
気力が、ふっと途切れた。
糸が切れた操り人形のように、紬はその場に崩れ落ちた。
苔むした石段――かつて祖父・春道が大工として関わった古い神社の参道付近であることに、今の彼女は気づく由もない。
「このまま、土に溶けてしまえたら」
指先を地面に這わせる。
ひび割れた指先の隙間に、冷たい湿った土が入り込む。汚い、とは思わなかった。
むしろ、この土の一部になって、明日という時間が来なければいい。
脱力感。心地よい絶望。
彼女はスマホの画面を確認することさえ忘れ、冬の星座に見守られながら、深い眠りの淵へと沈んでいった。
翌朝。
顔を撫でる冷たい霧の感触で、紬は目を覚ました。
全身の節々が悲鳴を上げている。筋肉は強張り、肺は重く、指先は感覚を失うほど凍えていた。
「生きて……たんだ」
期待外れのような、安堵のような溜息が白く弾ける。
重い身体を引きずり、傍らに落ちていたスマホを拾い上げた。液晶を点灯させた瞬間、暴力的な数の通知が目に飛び込んできた。
不在着信、32件。
LINEの通知、58件。
両親、工場、そして課長の陣内。多くのメッセージは「どこにいるんだ」「無責任だぞ」という焦りと怒りに満ちていた。
それらは紬にとって、昨日までの自分を縛り付けていた鎖の延長線上にしか見えなかった。
けれど、その中に一つだけ、異質なものがあった。
送信者は、岡崎紗枝。
同じ工場で10年。隣のラインで事務と発注をこなしている、二つ年上の同僚だ。
10年間、必要以上の深入りはしなかった。
ビジネスYouTubeに心酔する紬を冷めた目で見ることもなく、かといって同調することもない。
いつも「適温」を保ち、定時になれば「お疲れさま」とだけ言って帰っていく、そんな付かず離れずの距離にいた女性だ。
彼女からのメッセージは、短かった。
『大丈夫かい? 帰っておいで』
その一文を目にした瞬間、紬の目から熱いものが溢れ出した。
これまでの通知は、どれも「社会人としての責任」を問い質すものばかりだった。
けれど、紗枝の言葉には、質問も責め苦もなかった。ただ、今の紬の状態を丸ごと受け入れ、静かに灯台の火を灯し続けているような、そんな祈りに似た響きがあった。
特別な何者かにならなくても、ここにいていい。
そう言われた気がした。
凍りついていた紬の心に、小さな、けれど確かな体温が戻ってくる。
彼女は震える指で、初めて「市場価値」でも「正解」でもない、自分の意志で返信を打った。
『……帰ります』
下山する足取りは重かったが、心に絡みついていた澱は、驚くほど軽くなっていた。
泥にまみれたサンダルで、一歩ずつ、確実に地面を確かめながら降りていく。昨夜、死を願った自分が嘘のように、今はただ、この寒さから逃れたいという生々しい欲求があった。
ふもとにたどり着く頃、路肩に停まった一台の黒いワゴン車が目に入った。ハザードランプの点滅が、朝の淡い光の中で規則正しく脈動している。
「……富永」
車から降りてきたのは、製造部課長の陣内和樹だった。
彼は実務能力が高く、社長の理不尽な怒りを現場に流さないための「フィルター」として奔走している男だ。
実は、彼もまた紬を案じていた一人だった。LINEの「位置情報の共有」機能を使い、電波が途切れる直前のログから彼女の居場所を特定していたのだ。
紬は陣内の顔を見た瞬間、足の力が抜けそうになった。
叱責される、あるいはあきれられる。そう身構えた彼女に、陣内はただ静かに助手席のドアを開けた。
「乗れ。ヒーター、強めにしてある」
車内は、鼻の奥がツンとするほど暖かかった。
窓の外を、福井の冬景色が流れていく。鉛色の空と、枯れた田んぼの風景。
陣内はハンドルを握ったまま、何も聞かなかった。なぜ逃げたのか、どこへ行こうとしたのか。そんな無意味な問いを一切口にせず、ただ前だけを見ている。
「位置情報、勝手に使って悪かったな。……親御さんには、俺から連絡しておいた。今、お前の実家に向かってる」
「……すみません。私……」
「気にするな。今日、明日は休んでいい。代わりは俺がやる」
そのぶっきらぼうで、不器用な優しさが、今の紬には何よりも有り難かった。
都会の成功者が説く「レジリエンス(回復力)」や「自己管理」といった言葉よりも、隣で静かにハンドルを握る上司の沈黙の方が、よほど深く彼女の傷を癒していく。
紬は、結露し始めた窓ガラスに、自分のボロボロの手を重ねた。
昨夜、山の土を触ったその指先には、まだ泥の感覚が僅かに残っている。
自分を「家畜」と呼び、価値がないと断じたのは、他でもない自分自身だったのかもしれない。
車は、山を下り、実家のある越前へとひた走る。
バックミラーに映る自分の顔は、相変わらず歯並びが悪く、ひどく疲れ果てていた。
けれど、少しだけ。
ほんの少しだけ、姿勢を正して座れるような気がしていた。




