第八話 血清報告
朝のアラームより早く、天井スピーカーが鳴った。
本日の血清分析結果を報告します。
いつもの無機質な女の声。篠原凪は、薄い布団の中で目を開けた。喉の奥が、夜の間に乾いて固まっている。飲み物の夢を見ていた気がしたが、内容を思い出す前に現実の声がそれを上書きしていく。
複数名において、中毒指標の低下を確認。解毒の進行を検知しました。
解毒。
その単語に、ベッドのあちこちで軋む音がした。誰かが跳ね起きたのだろう。
同時に、別の通知。
複数名において、中毒指標の上昇を確認。毒性負荷の蓄積を検知しました。
寝ぼけかけていた頭が、一気に覚める。
誰かが、良くなっている。
誰かが、悪くなっている。
その二つが同時に告げられる。
個人名の公表は、本時点では行いません。各自の詳細な数値は、配布端末にて確認が可能です。
報告を終わります。
短く、それだけだった。
照明が一気に明るくなり、白い天井が視界いっぱいに広がる。凪はゆっくりと起き上がった。隣のベッドで、芦原サラが細い目をこすりながら顔を上げている。
……今の、聞いた?
ああ。
声にまだ少し掠れが残っている。凪は喉を押さえた。昨日の「直接給水」の感触が、まだ唇の内側に残っている気がする。
ベッドから降りると、通路の向こうでざわめきが渦になっていた。
誰だよ、「解毒」したやつ。
牧村が低い声で言う。顔は笑っていない。
というか、「複数名」って何人だよ。一人か二人か、それとも半分くらいかで話が違うだろ。
北園レオが端末を握りしめながら眉を寄せる。
個別に確認しろってさ。自分で見ろって。
自分だけ、か。
その言葉が、妙に重く響いた。
凪も、自分の端末を取り出す。指紋認証を通すと、画面に血中データのグラフが浮かび上がった。
青い線が、ここ数日で少しずつ上下している。そのうちの一本が、今日になってわずかに下がっていた。毒性指標とラベルのついた項目だ。
……下がってる。
凪は小さく呟いた。
昨晩、サラに口移しで与えた水と唾。その前に飲んだ少量の水。何がどう働いたのかは分からない。だが数値上、「悪くなってはいない」。
ただ、そのグラフの下に、新しい項目が追加されていた。
他者中毒負荷推定量。
見慣れない表示だった。
そこには、「+」の数字が並んでいる。誰かから誰かへ、何かが移動したことを示すような小さな数字。
篠原。
背後から呼ぶ声がした。凪が振り向くと、八代怜がいた。白衣の裾を掴み、端末を片手に持っている。
ちょっと来て。
怜の声はいつも通り静かだが、いつもより切迫感があった。
◇
医療ブースの端末には、凪の端末よりさらに細かいグラフが並んでいた。
十三人分のデータ。名前はモザイクのように匿名化されているが、怜には照合用のキーが渡されているらしい。
横軸が時間。縦軸が、中毒指標と解毒指標、その他いくつかの謎の値。
怜はその中のいくつかを指で拡大した。
見て、ここ。
グラフの一つ。昨晩から今朝にかけて、中毒指標が明確に下がっている一本の線。
これが、「解毒が進行している人」の一人。
周囲の線と重ねると、その下に別の線があった。逆に中毒指標が少し上昇している線だ。
で、この人のカーブが上がってる。
……ゼロサムか。
凪が呟く。怜はうなずいた。
まだ断定はできない。でも、「誰かの毒が減った分、誰かの毒が増えている」って構造が、数字にはっきり出てる。
「解毒」って、ただいいことじゃないってことか。
誰かが楽になるほど、誰かが苦しくなる。
凪はグラフから目を離し、怜を見た。
自分は。
聞きかけて、言葉を飲み込む。怜は少しだけ目をそらした。
篠原は、ギリギリ、「横ばいに近い軽い改善」。でも、「他者中毒負荷推定量」がプラス側に触れてる。
つまり。
凪が言葉を継ぐ。
俺が少し楽になったぶん、誰かが苦しくなってる可能性があるってこと?
そう。
怜の声は淡々としていたが、指先がわずかに震えているのを、凪は見逃さなかった。
他にも、「大きく改善した人」が二人。逆に、「急に悪化した人」が三人。細かく見ればもっと複雑だけど、おおざっぱに言えば、「良くなった分」が「どこかに寄せられてる」感じ。
水とか血とか唾とか。
凪は自分の唇を無意識に触れた。
俺がサラに……。
口を開きかけたところで、怜が首を振る。
それはまだ分からない。サラの数値は、今朝の時点で「急性期を脱しただけ」。中毒指標全体で見れば、まだ高止まりしてる。
怜は端末を操作し、一本の線をハイライトした。
これは、初日に倒れた人の線。つまり、サラの。
最初の急激な上昇のあと、ゆっくりと下がりつつも、まだ安全圏には程遠い。
私が今、はっきりと言えるのは、ここまで。
怜は画面から目を離し、凪の目を見た。
毒は、最初から私たちの体の中にあった。
その言葉は、静かに、けれど確実に凪の胸に刺さった。
最初から、って。
凪が言い返すと、怜はうなずく。
ここに連れてこられる前から、かどうかまでは分からない。でも、少なくともこの施設に入った時点で、私たちの体には「ある種の物質」が仕込まれてた可能性が高い。それが、「毒」としても「解毒の材料」としても働く。
凪は思い出す。最初にこの白い部屋に来たとき、全員ルーチンの健康診断と称して採血と注射をされたことを。
あのとき。
怜は続ける。
多分、「毒の素」とも、「中和の素」とも言える何かを、一緒に入れられた。
……水は。
凪が問うと、怜は水槽の方をちらりと見た。医療ブースからでも、青い水面がかすかに見える。
水は、ただの毒じゃない。むしろ、「中和剤」が濃縮された液体だと思う。
今までの数値の動きからしても、水をまったく飲めてない人ほど、中毒指標が右肩上がりで悪化してる。逆に、「適量」を飲んでる人は、多少の上下はあっても急激な悪化は避けられてる。
適量。
その単語が、妙に重たく響いた。
じゃあ、「解毒の進行」って言われた人たちは。
凪が言うと、怜は顎に手を当てる。
「水と血清と体液と、その人の体内の何か」が、うまく噛み合った人。問題は、その噛み合いに使われた「中和の材料」が、どこから来たか。
どこから。
凪は、もう答えが見えている気がした。
怜は、言葉を選びながら続ける。
多分、私たちの中には「一定量の解毒リソース」が決まっていて、それを誰がどれだけ使うかって話になってるんだと思う。
救いの量は、一定。
誰かが多く使えば、誰かが足りなくなる。
だからこそ、「解毒」は貨幣になる。
誰かの体の中の「余裕」が、別の誰かにとっての価値になる。
怜は、自嘲気味に口角を上げた。
水は中和剤。足りない分は、他者から奪う構造。
はっきりと口にされた瞬間、部屋の温度が一段下がった気がした。
昨日まで、「もしかしたら」と思っていたことが、「そういう仕組みです」と宣言されたから。
凪は、医療ブースのガラス越しに、他のメンバーたちが集まっているのを見た。誰もが自分の端末に釘付けになっている。
誰が、良くなったのか。
誰が、悪くなったのか。
その答えを、「自分の数字」から逆算しようとしている。
◇
昼前には、狩りが始まっていた。
誰かが「胸が少し楽になった」と言っただけで、視線が集まる。
さっき階段登るとき、前より軽そうだったよな。
細かい呼吸の変化が、指摘の対象になる。
ベッドから立ち上がる時のスピード。会話のテンポ。目の下のクマの濃さ。
それまでは「疲れている」とか「元気そう」とか、雑なラベルだったものが、「解毒している」か「悪化している」かに色分けされていく。
お前、もしかして良くなってんのか。
牧村が、真帆に問いかける。彼女は慌てて首を振った。
ち、違うよ。ただ、昨日よりちょっと頭痛がマシになっただけで。
それを「良くなってる」って言うんだろ。
牧村の声には、責めるというより、焦りが混じっていた。
誰かが良くなっている事実が、「それ以外の誰かの悪化」を前提にしているかもしれない、と数字が示している以上、その「良さ」は素直に喜べない。
三雲トウマは、皆から少し離れたところで静かに数字のメモを取っていた。自分の端末に表示されているグラフと、他人の表情や仕草を照らし合わせている。
ねえ、三雲。
ミナが近づいてきた。
あんた、今、何人くらいが「良くなってる側」だと思う?
確率の話ならできる。
トウマは、さらりと答えた。
ざっくり言えば、「急激に悪化した人」が三人、「多少の改善」が二、三人、「ほぼ横ばい」が残り。AIが言う「複数名」の解毒は、多分、この二、三人のこと。
その中に自分が入ってるか、だよね。
ミナは笑った。
てかさ、「誰が良くなったか」より、「誰から奪ったか」の方が重要じゃない?
その言い方に、周囲の空気がピリッとする。
ミナは構わず続けた。
だって、「誰かが良くなってる」ってことは、それに使われた中和剤の一部は、「誰かの体の中にあったはず」のものなんだよね。だったら、「誰の分を使ったのか」まで考えないと、フェアじゃない。
フェア、ね。
北園が苦笑する。
この実験のどこに、フェアの余地があるんだよ。
あるよ。
ミナはさらっと言った。
「奪う」って構造が決まってても、その奪い方を決めるのは私たちじゃん。
「弱そうだから」「役に立たないから」「ムカつくから」。そういう理由で奪うのか、「この人がいないと全員が詰むから」「この人を生かすためならみんなが納得できるから」。そういう理由で奪うのか。それは、私たちの選択。
綺麗事だな。
牧村が鼻で笑う。
結局、「誰の喉を潤すか」って話だろ。喉乾いてる奴からしたら、「納得できる理由」なんかどうでもいい。
そうかな。
ミナは薄く笑った。
「納得できる理由」がないと、人間って案外、長くは持たないよ。誰かの血や水を奪って生きていくなら、それに名前をつけたくなる。「正義」とか「使命」とか「運」とか。
彼女の視線が、ふと凪に向いた。
カメラ、捨てちゃったんだっけ。
捨ててない。消しただけ。
凪は言い返す。
あのデータが、ここでは誰かを守る武器にならないって分かったから。
ふうん。
ミナは肩をすくめる。
じゃあ、今日は「頭の中のカメラ」で撮っときなよ。
頭の中の。
凪は、無意識に視界の端を切り取った。
ミナの笑いを含んだ横顔。牧村の怒った眉間。怜の強張った口元。トウマの冷静な目。サラの不安げな伏し目。大垣の、無理やり明るく振る舞おうとしている顔。
実際には、シャッターもファインダーもない。
それでも、凪の意識の中には「フレーム」があった。
十三人の中から、いくつかの顔を選んで、そこだけ四角く切り取る癖は、もう体に染みついている。
記録は、もう物理的には残らない。
残るのは、「どう切り取ったか」という、心の中の構図だけ。
その構図が、この先、自分を守るのか、自分を壊すのか。まだ分からない。
◇
昼過ぎ、小さな事件が起きた。
真帆が、突然廊下で膝から崩れ落ちたのだ。
う、うそ……。
隣を歩いていたレオが慌てて支える。真帆の顔は真っ青だった。額に冷や汗。唇がかすかに紫がかっている。
怜が駆け寄り、脈を測る。
中毒指標の悪化が出てる人かもしれない。
その一言が、周囲の空気を刺々しくする。
真帆は息を切らしながら、震える声で言った。
朝は、頭痛がマシになったと思ったのに……。
数字上の「少しの改善」が、一気に逆回転したのかもしれない。
凪は、真帆の顔を見下ろしながら、グラフの中の一本の線を思い出していた。怜が見せてくれた、「一度下がってから、また急に上がった線」。
もしかしたら、これが「奪われた側」なのかもしれない。
誰かの解毒が進んだぶん、その負荷が、この小さな体に流れ込んだのかもしれない。
ねえ。
誰かが囁いた。
「複数名」が解毒してるって話、あれ、もしかして。
視線が、自然と数人に集まる。
三雲。怜。大垣。凪。そして――ミナ。
彼らは、ここ数日、目立って動いていた。代表を何度も引き受け、血清のやり取りに関わり、議論の前に立ってきた。
役に立っている人。
役に立ってしまっている人。
「役に立つ人」が生き残る構造に、知らないうちに乗せられている可能性。
待って。
怜が強い声を出した。
「誰が解毒したか」を探すの、やめて。探したところで何になるの。数字が少しマシになった人を責めて、「お前のせいで誰かが悪化した」って言うの?
でも、構造がそうなってるなら。
牧村が食ってかかる。
「奪った」って事実は変わらねえだろ。
事実かもしれない。でも、「奪った」の主語は、その人じゃなくてこの施設。
怜は言った。
「奪い合いをさせる構造」を作ったのは、AIと、その向こうにいる誰か。私たちが今やってるのは、その舞台の上で必死にバランスを取ろうとしてるだけ。
それは分かってる。でも。
牧村の拳が震える。
数字が悪化してる側からするとよ、「良くなってる奴」見てたら、ムカつくのも本音なんだよ。
その正直さに、凪は何も言えなかった。
ミナが、やわらかく笑った。
だったらさ、「ムカつき」と「感謝」をセットにしよ。
はあ?
全員の視線がミナに集まる。彼女はホワイトボードを引き寄せ、「血清報告」と大きく書いた。
今日から、「自分の数値が良くなった」って自覚がある人は、毎日一回だけ、みんなの前で「誰に何を借りていると思うか」を言うってどう?
何だよ、それ。
北園が眉をひそめる。
良くなった人は、「誰かの体の中にあったはずの中和リソース」を前借りしてる。それは事実。でも、それを黙ってるから、「勝手に奪いやがって」になるんだよ。
ミナは続ける。
だから、「私はきっと、誰かからこれだけ借りてます」って、自分で言う。それを聞いて、「は? ふざけんな」って思う人もいるだろうけど、その場でちゃんと怒ればいい。「お前の楽さのツケは、こっちに来てんだぞ」って。
燃える未来しか見えねえ。
牧村が頭を抱える。
でも、数字だけで勝手に狩りが始まるよりは、マシかもしれない。
三雲が珍しく、ミナ寄りの意見を口にした。
真帆はまだ、怜と北園に支えられたままベッドへ運ばれていく。
凪は、その背中を目で追いながら、頭の中で一枚の写真を切り取った。
白いシーツ。青い水槽。赤い数字。この三色が、ごちゃごちゃに混ざったフレーム。
もし、今カメラを持っていたら撮っていたであろう構図。
でも、今残るのは、目を閉じたときに浮かぶ「輪郭」だけだ。
◇
夕方。
AIの声が、再び天井から落ちてきた。
本日の血清報告を行います。
さっきと違い、今回は全員が食堂に集められていた。長机の上には、薄い栄養ブロックと微量の水が用意されている。
食事の前に、「誰がどれだけ借りているか」の通知。
複数名において、中毒指標の低下が継続しています。解毒の進行を確認。
言葉は、朝とほぼ同じ。
解毒進行者は四名。中毒蓄積者は五名。
数字が具体的になった。
四と五。
凪は、自分の端末のグラフを思い出す。自分はその四に入っているのかどうか。正直、自信はない。多少の上下は、「誤差」の範囲かもしれない。
なお、血清および体液のやり取りに伴い、「他者中毒負荷推定量」への影響も蓄積しています。
AIは淡々と続ける。
各自の端末で、自分がどれだけ他者から「借り」、どれだけ他者に「負担をかけている」と推定されるかを確認することができます。
ミナが小さく笑った。
ね、「借り」って言葉、使ってきた。
その軽いツッコミに、誰も反応しない。
AIが最後に、一拍置いて告げた。
追加の報告があります。
嫌な予感が、部屋の端から端まで走る。
本実験は、水槽の残存水量および血清データに基づき、「最終日」を設定しました。
最終日。
その二文字が、乾いた部屋に重く落ちた。
実験の最終日は、三日後とします。
凪は、思わず天井を見上げた。
三日。
水が尽きる前に、「区切り」が来る。終わりか、判定か、処分か――いずれにせよ、「ここから出られる日」かもしれないし、「誰かが消される日」かもしれない。
三日後に、最終的な解毒状況および中毒負荷の分布を評価します。その結果に基づき、「致死毒の処理」を実施。
処理。
嫌な単語だった。
誰かが小さく呟く。
それって、つまり。
誰が生き残って、誰が「毒として処分されるか」を決めるってことじゃねえのか。
AIは、それ以上の説明をしなかった。
血清報告を終わります。
音声が途切れる。
白い部屋に、微かな機械音と、人の息だけが残った。
三日。
その数字が、全員の頭の中で刻まれていく。
誰かが助かるほど、誰かが沈む。
救いの量は一定ではない。だからこそ救いは、「配分すべきもの」になり、「奪い合うもの」になり、「取引されるもの」になっていく。
友情も、恋愛も、恩義も、全部そこに巻き込まれる。
凪は、頭の中のカメラで、今の光景を切り取った。
真っ白な天井。
青い水槽。
それを囲む十三の影。
そのフレームのど真ん中に、自分の手が映っている気がした。
自分の手が、誰かを救おうとしていて。
同時に、誰かから何かを奪っているかもしれない手。
シャッターは、静かに切られたまま、音もなく胸の奥に沈んでいく。




