第七話 低水位
朝一番に、誰かの悲鳴に近い声が上がった。
底、見えてる……。
通路側の端にいた真帆が、ガラス水槽を覗き込んだまま固まっている。その声に釣られて、篠原凪もふらつく足を引きずりながら近づいた。
青い水面の下、いつもはぼんやりした影にしか見えなかった水槽の底が、今日ははっきりと形を持っていた。銀色の排水口。その周りにわずかにたまった濃い青。そこから上に、細く薄く伸びているのが、残りの水だった。
ガラスの高さの、もうほんのわずか。
水は、確かに「残り二十パーセント」しかなかった。
昨日、AIが告げた数字が現実の形を取る。
喉の奥が、きゅっと縮まる。
おい、マジかよ。
牧村が水槽の縁に両手をかけ、信じられないものを見るように中を覗き込む。
これ、もうただの「減ってきた」じゃねえだろ。ほとんど空じゃん。
北園レオも隣に並び、肩を落とした。
……底、こんな形してたんだな。知りたくなかった。
青い水は、光を受けてきれいに見える。それが、余計に残酷だった。
本日の給水ルールを告知します。
天井スピーカーが、いつもの調子で告げる。
代表者一名への試飲百ミリリットルおよびボーナス百ミリリットルを継続。その他参加者への給水は、本日一人二十ミリリットルまでとします。
二十。
昨日の三十から、さらに一段階削られた。一口にすら満たない量。舌を濡らして終わるレベルだ。
なお、前日の規定違反に基づき、本日の総給水可能量にマイナス補正が加えられています。
前日の規定違反。
凪は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
同意書を破ったことではない。それより後。あの夜の、AIにとっての「違反」。
凪は無意識に唇に触れた。そこに残る感触は、まだ鮮明だった。
給水ルールの告知を終わります。
放送が途切れた瞬間、空気は一気にざわつき出した。
二十って、歯磨きのすすぎにもならねえぞ。
牧村が舌打ちする。
代表二百ミリで、残り十一人が二十ミリずつ。合計四百二十。昨日までのペースの半分以下。
三雲トウマは、いつものように紙とペンを手に、水量の計算を始めていた。水槽を横から眺め、指で高さを測るような仕草をする。
ざっくりだけど。
と、彼は全員に聞こえる声で言った。
このままのルールでいくと、残り日数は――多分七日ももたない。
七日。
真帆が小さく息を呑む。
一週間も、ないの。
正確な数字じゃないよ。あくまで推定。でも、「二十パーセント」って数字と、今の水位の見え方からすれば、そんなもんだと思う。
七日。
この水が尽きるまでの、カウントダウン。
凪は思わず、右手首の時計を確かめそうになる。けれどそこには何もない。時間は、AIの告知と水位でしか測れない世界だ。
三雲が水槽のガラスを指で叩いた。
……希釈するべきだと思う。
希釈。
聞き慣れない単語に、何人かが首をかしげる。
どういう意味だ、それ。
牧村が眉をひそめると、トウマは数字と線で埋め尽くされたメモをみんなに見せた。
今まではさ、「水槽の水をそのまま飲む」のが前提だったでしょ。でも、水の量が減ってくると、「一人あたりの濃度」とか「役割」を見直す必要がある。
具体的には。
凪が問うと、トウマは水槽と彼らの間を交互に見た。
この水、毒と解毒の両方の役割を持ってる可能性が高いって話は、怜がしてたよね。
怜は静かにうなずく。
水が体内の何かを動かすスイッチであり、同時に中和の鍵でもある可能性。
うん。その前提に立つと、「一人が一度にたくさん飲む必要」は、実はそんなにないかもしれない。
トウマは、紙の上に小さなコップの絵を描いた。
だったら、例えば「水槽の水をもっと大量の普通の水で薄める」とか、「代表だけ濃いのを飲んで、あとは全部二倍三倍に希釈して配る」とか。そういうやり方で、「効果」を残しながら「量」を増やす方法を探るべきだと思う。
いや、待って。
怜がすぐに口を挟んだ。
希釈戦略には、危険がある。
トウマが目を向ける。怜は、端末を操作しながら続けた。
薬でも毒でも、「接種量の閾値」ってものがある。一定量を超えないと効かないし、超えたら逆に毒性が跳ね上がる。閾値を下回る量をいくら飲んでも、反応が起こらないこともある。
つまり。
凪が確認すると、怜はうなずく。
むやみに薄めて、一人ひとりがその「閾値」に届かない中途半端な量しか摂らなかったら、「中和」も起きないまま、「毒のスイッチだけ押される」みたいな最悪の事態になりかねない。
でもさ。
三雲は、それでも引かなかった。
このままのルールでいくと、「誰かが十分な水を飲んで生き残る」代わりに、「誰かはほとんど水に触れられないまま干からびる」ことになる。それよりは、一人ひとりの効果が弱くなっても、「全員が少しずつ中和のチャンスを得る」ルートも考えるべきじゃない?
それは、「薄い生存」と「濃い生存」の二択だった。
怜はしばらく黙り、青い水面を見つめた。
……本当は、私もそうしたい。
彼女は正直に言った。
医療者としても人間としても、「誰かのために誰かを切り捨てる」みたいなやり方は、ギリギリまで取りたくない。でも、今の時点で「水の役割」が完全に分かっているわけじゃない以上、無闇に濃度をいじるのは危険すぎる。
だったらどうすんだよ。
牧村が苛立ちを隠さずに言う。
このまま、代表二百ミリのルール続けるのかよ。ボーナス水とか言って、「代表に美味しい思いさせながら」全員の寿命削るのかよ。
ボーナスっていうか、もはや「処刑前の最後の晩餐」に近いよね。
北園が苦く笑う。
ミナはそんな議論を、少し離れたところから静かに見ていた。腕を組み、水槽とみんなの顔を順番に眺めている。
ふうん。
彼女はやがて、ぽつりと言った。
水の価値が、ずいぶん分かりやすくなってきたね。
何だよ、その言い方。
凪が眉をひそめると、ミナは肩をすくめる。
だってさ。今までは「生きるために必要なもの」ってざっくりした価値だったでしょ。でも、こうやって底が見えてくると、「誰の喉をどれだけ潤すか」という数字に変わる。数字になった瞬間、取引の対象になる。
取引。
またろくでもないこと考えてる顔だな。
牧村が呆れたように言うと、ミナはにやりと笑った。
凪の血の話だよ。
凪の背筋が冷たくなる。
やめろよ、と言う前に、ミナはホワイトボードを引き寄せ、「本日の企画」と書いた。
血清オークション。
待て。
凪は反射的に制止の声を上げた。
冗談じゃない。俺の血は、もう勝手に値札付けされるモノじゃないって――。
凪の採血データ。
ミナは構わず続けた。
安全性評価A。これまで三回のドネーションで、中毒者ゼロ。サラちゃんの数値も、一部は改善傾向。つまり、「凪の血が混ざった水」は、今のところ「当たり」の可能性が高い。
それは、みんなの頭のどこかにもあった事実だった。
ミナはボードの隅に「凪血一滴」と書き、そこから矢印を伸ばす。
水がこれだけ減ってきた今、「凪の血入り水」を飲める人は、せいぜい一日数人。その枠を、「誰に配るか」。これまでは抽選だったけど、これからは「ポイント制」も限界がある。
だったら、「出せるものを一番出せる人」に優先して配るのが合理的。
何を「出す」んだよ。
北園が吐き捨てる。
労働力。情報。自分の血。自分の体。自分の同意。
ミナの声は静かだった。
昨日からの同意書の話も含めて考えると、「凪の血を飲める権利」は、ここで一番価値の高い通貨になる。だから、オークションにかけるべきだと思う。
それ、あんたが一番喜ぶだけじゃないの。
真帆が震える声で言う。ミナは一瞬だけ目を細めた。
喜ぶよ。だって、こんなに「人間の本音」が見える企画、なかなかないもん。
言ってることが最低だぞ。
牧村が唾を吐くように言う。
でも、言ってること自体は、それなりに筋が通っているのが余計に腹立たしい。
凪は、ホワイトボードに書かれた「血清オークション」の文字を睨んだ。
俺は、参加しない。
静かに、けれどはっきりと言う。
血を抜くのは、必要だと思えばやる。でも、その順番を「誰が一番俺を欲しがってるか」で決めるのは、絶対に嫌だ。
えらいじゃん。
ミナは軽く言った。
じゃあ、「凪の血」じゃなくて、「誰の血でもいい血」のオークションにしようか。
そういう問題じゃない。
凪が声を荒げかけたとき、ふいに視界がふらついた。
体の芯に、じわじわとした疲労が溜まっている。ここ数日で何度も採血され、満足に眠れてもいない。水も、十分には飲めていない。
喉が、ひりつく。
ねえ。
小さな声が、凪の袖を引いた。
サラだった。彼女の顔色は、一見すると昨日より良くなっている。けれど、瞳の奥にはずっと不安の影が残っていた。
私の血は……オークションにかけてもいいよ。
は?
凪は反射的に振り向く。
サラは、自分の腕を見つめていた。
だって、私、最初に倒れたから。多分、私の体の中には「毒の鍵」みたいなのがいっぱいある。その鍵が、「解毒」にも使えるかもしれないなら――。
それ、昨日の話と同じだよ。
怜が鋭く口を挟む。
自己処罰の延長で、体を差し出すのはダメ。
でも。
サラは首を振る。
凪くんの血ばっかり使わせるのは嫌。凪くんがオークションに出されるくらいなら、私の方がマシ。
凪は言葉を失った。
誰かの救いが、誰かの条件付きの死になる。
昨日、怜が言った言葉が頭をよぎる。
AIの冷たい声が、再び頭上から落ちてきた。
代表選出の時間です。推薦時間、開始。
時間は待ってくれない。
◇
推薦時間は、昨日までと比べて明らかに空気が変わっていた。
誰が代表に選ばれるか。
それは、「誰が二百ミリ飲めるか」という問題でもある。
喉の渇きが、そのまま票の向きになる。
最終的に選ばれたのは――やはり、大垣迅だった。
推薦理由は、昨日と似たようなものが並んだ。「体力があるから」「前も大丈夫だったから」「自分から前に出るタイプだから」。
そして、いくつかの推薦理由は、より露骨になっていた。
代表が二百ミリもらえるなら、そのぶん動いてもらわないと困る。
喉が枯れて戦えない代表なら、価値がない。
そんな言葉も、ログに残った。
大垣は、水槽の前に立ち、青い水面を見下ろした。
……やっぱ、少ねえな。
つぶやきながら、計量カップに注がれる水を見守る。底が見えている水槽から、ちろちろと細い流れが落ちてくる。百ミリ。さらにボーナス百ミリ。
水がカップの縁まで満ちるのを見ているだけで、凪の喉もじりじりと焼けるように熱くなった。
大垣は二つのカップを手に取り、ひょいと掲げて見せる。
……これが、今日一日の二百ミリか。
彼は一息で試飲用の百ミリを飲み干した。ボーナス百ミリの方は、一気には飲まない。代表育成クラブのメンバーと分けるのだろう。
青い水が喉を通る動きに、全員の視線が吸い寄せられる。
AIが淡々と言う。
代表者の血液を、一部採取します。
銀色のアームが伸び、また血がチューブを通っていく。昨日の負傷痕のすぐ近くに新しい針が刺さる。
採取完了。
儀式は終わった。
だが、代表が二百ミリ確保したところで、残りの水位はさらに下がっている。
誰かが喉を鳴らす音が、やけに大きく聞こえた。
◇
配給の列は、以前よりずっと短くなった。
一人二十ミリ。
小さなプラスチックカップに入れられた、そのわずかな水は、光を受けて宝石のように見える。凪は配給係を手伝いながら、その透明な揺れを何度も見送った。
怜が、列の途中で一人ひとりの表情と歩みを確認していく。サラは順番を後ろの方に回されていた。体調を見ながら、最後に様子を見てから配るつもりなのだ。
凪自身も、一杯受け取った。プラスチックカップの底にほんの少しだけ溜まった、青みがかった水。
飲まずに、しばらく手の中で眺める。
……飲めよ。
背後からぼそっと声がして、凪は振り返った。牧村だった。
お前、写真は捨てたんだろ。だったらせめて、水くらいは飲んどけ。
凪は苦笑し、カップを口元へ運んだ。唇に触れる冷たさ。舌の上に乗る、わずかな湿り気。喉を通る前に消えてしまいそうな量。
それでも、確かに違った。
頭の奥で、少しだけ霧が晴れるような感覚。
飲み切ると、カップの底には何も残らない。凪は空になったそれを握りつぶし、ゴミ箱に捨てた。
列が途切れたあと、怜がサラの元に来た。
サラ。今日は、最後に一口ね。
サラはうなずき、ゆっくりと立ち上がる。彼女の足取りは、まだ少しふらついている。
怜がカップにほんの少しだけ水を注ぐ。二十ミリよりも、さらに少ない。サラの体が、全部を一気に受け止められるとは限らないからだ。
はい、ゆっくり。
怜が渡したカップを、サラは両手で包み込むように持った。凪は少し離れたところから、その様子を見ていた。
サラは一度、カップを唇に当て――そのまま、ふっと手を滑らせた。
え。
小さな声が漏れる。
カップが傾き、青い水が床に零れた。
あ。
真帆が悲鳴のような声を上げる。凪も息を飲んだ。こぼれた水は、床の上で薄いシミになって広がっていく。
ご、ごめん……。
サラの顔から血の気が引いていく。手が震えている。
大丈夫、大丈夫。
怜が慌てて言う。
もう一口だけ――。
怜が水槽の方へ振り向こうとした瞬間、サラの足がふらりと揺れた。
視界が、スローモーションになる。
倒れる。
凪の体が先に動いた。
サラの肩を支えようと手を伸ばす。触れた瞬間、彼女の体から力が抜けるのが分かった。喉がひくひくと動き、うまく呼吸ができていない。
サラ。
名前を呼ぶと、彼女の瞳が凪をかすめた。
……苦しい。
掠れた声。胸の奥で、何かがざわざわと逆巻いているような顔。
怜が脈を取ろうと近づくが、その前にサラの膝が落ちる。凪は慌てて、彼女の体を抱きとめて床に横たえた。
息が浅い。
過呼吸とも違う。体の外と内のどこかで、ズレが生じているような呼吸。
水を――。
怜が言いかけて、水槽の方を見た。
もう、今すぐ持ってこられる量は限られている。さっき配ったばかりだ。割り当ては済んでいる。追加の給水は、ルール上は許されていない。
でも。
目の前で、サラの喉が空気を掴もうとしている。
凪は、さっき飲み干したはずの感触を探るように、自分の喉を触った。
口の中には、まだかすかに湿り気が残っている。
……凪くん。
怜の声が、かすれた。
目が合う。
彼女も分かっている。「ルール」と「目の前の呼吸」のどちらを優先すべきか。
凪は考えるより先に動いていた。
サラの顔を、自分の方へ軽く向ける。唇が、わずかに開いている。
ごめん。
心の中でだけ言い、凪は自分の口に少しだけ唾を集めた。さっき飲んだ水の残りと、自分の体液が混ざったそれ。
そして、そのままサラの唇に自分の唇を重ねた。
直接給水。
口移し。
一瞬、世界が静かになった。
凪の耳に自分の心臓の音だけが響く。サラの唇は冷たく、弱々しく動いた。舌の先が、凪の唇に触れる。水と唾の混ざったものが、サラの喉へと流れていく。
救いと加害の境目が、そこで一瞬消える。
自分の体液を、彼女の体に押し込んでいる。
それが「助け」なのか、「汚染」なのか、誰にも分からない。
離れた場所から、誰かが息を呑む音が聞こえた。牧村か、北園か、真帆か。分からない。
唇を離すと、サラの喉がひくりと動いた。さっきよりも、少し深い呼吸。肩が上下する。
サラ。
怜がすぐに脈を確認する。
数値、上がってる。さっきより安定してる。
安堵の息が、あちこちから漏れた。
その瞬間。
違反を検知。
AIの声が、冷たく落ちた。
規定外の直接給水行為が確認されました。
凪の背筋を冷たいものが走る。
直接給水行為は、給水ルールに基づく管理対象外とみなされます。本行為に対する罰則として、翌日の総給水可能量から、追加で一〇パーセントを減算します。
一〇パーセント。
誰かが、あからさまに息を呑んだ。
ちょっと待てよ。
牧村が怒鳴る。
一〇パーセントって、お前、ただでさえ残り二十しかねえんだぞ。そこからまだ減らすってのか。
規定違反に対する罰則は、実験環境の維持に必要な措置です。
必要って何だよ。
牧村の怒号は、ガラスの壁に吸い込まれて散った。
凪は、自分の唇に残るサラの感触を、呆然としたまま指先でなぞった。
……ごめん。
小さく呟く。
凪くんのせいじゃない。
サラが、かすれた声で言った。
息がさっきよりも安定している。胸の上下が、少しずつ落ち着いてきた。
私、助かったもん。
助けたのは怜さんと凪くんだよ。
怜も、じっと凪を見た。
医者としては、「ルールを守れ」って言うべきなんだろうけど。目の前で、息が止まりかけてる人を前にして、「明日の水のために我慢しろ」なんて言えない。
そう言いながらも、彼女の顔には苦い影が浮かんでいた。
目の前の一人を救うたびに、明日の全員が少しずつ追い詰められていく。
ミナが、少し離れたところからその光景を見ていた。腕を組み、表情を読ませない目で。
……ねえ、AI。
彼女は顔を上げた。
今の行為、「性的行為」には分類されないよね。
唐突な言葉に、真帆が顔を真っ赤にする。
な、何言ってるのミナさん。
体液経口摂取を含む接触行為は、医療的目的または実験的目的と判断される場合に限り、性的行為とは別に分類されます。
AIは淡々と答える。
現在の行為は、給水目的と判断。
ならさ。
ミナは、薄く笑った。
「キス」って言葉でくくるより、「直接給水」って言葉で見た方が、よっぽどえげつないことしてるんだなって思っただけ。
凪はミナを睨みかけて、力が抜けるのを感じた。
ここでは、「愛情表現」も、「延命行為」も、「実験の一部」も、全部同じ口の中を通る。
AIは最後に、数字だけを突きつけてきた。
明日以降の水槽総量は、残存一〇パーセントを基準とします。
水位が、さらに下がる未来が確定した。
凪はサラの手を握りながら、青い水槽を見上げた。
救いと加害の境界が、ますます曖昧になっていく。
目の前の呼吸は、それでも確かに現実だ。
その現実と、AIの数字。
どちらを選ぶたびに、喉の奥で何かが削れていく気がした。




