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毒の水槽は静かに満ちる  作者: 妙原奇天


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第六話 同意書の夜

 白い紙は、やけにまぶしかった。


 食事用のテーブルの上に、一人一枚ずつ並べられた同意書。A4サイズの紙には、小さな文字でびっしりと条文が印刷されている。その下にある二つのチェック欄だけが、妙に目立って見えた。


 同意する

 同意しない


 篠原凪は、自分の名前が印字されたその紙を前に、鉛筆を握ったまま硬直していた。


 代表者および参加者の皆様は、血清分配および体液経口摂取を含む接触行為について、相互の合意に基づき遂行される場合に限り、本実験の一部として参加することが可能です。


 条文の一節が、頭の中でリフレインする。


 体液経口摂取。


 その四文字が、紙の上で黒々と光っているように見えた。


 食堂スペースには、全員が集まっていた。長机の上には同意書と鉛筆だけ。水も、食べ物もない。喉の渇きが、紙の上の文字を余計に濃くしていく。


 北園レオがペンをくるくる回しながら、無理に明るい声を出した。


 いやあ、これ書類としてはちゃんとしてるけどさ。内容がエグいよね。


 ほんとそれ。


 真帆が顔を赤くしながらうつむく。


 ミナは、紙を片手に持ち上げると、演説でも始めるように立ち上がった。


 はい、では本日の目玉イベント。同意書ナイトにお越しのみなさん、ようこそ。


 冗談にして笑わせようとしているのは分かる。けれど、笑い声はほとんど起きなかった。乾いた息と、紙の擦れる音だけが広がる。


 席の端では、芦原サラが怜と並んで座っていた。まだ顔色は万全ではないが、体を起こしていられるくらいには回復している。その視線も、自分の同意書に釘付けだった。


 AIの声が天井から落ちる。


 同意書の回収は本日二十四時まで。それまでにチェック欄に印を付け、署名欄に自筆で名を記してください。同意しない場合、血清実験への参加は免除されますが、今後の給水ルールに不利な補正が加えられる可能性があります。


 当然のように添えられる脅し文句。


 喉が鳴る音が、あちこちから聞こえた。


 同意しても地獄。同意しなくても、別の地獄。


 凪は紙から目を離し、周りを見回した。


 真っ先にペンを走らせたのは牧村だった。


 俺は、同意しねえ。


 彼は「同意しない」の方に力強くチェックし、「牧村」と殴り書きする。


 こんなもん、やってられっかよ。水が減ろうが減るまいが、知らねえ。人間同士で唾や血を交換して何が起きるかなんて、分かったもんじゃねえし。


 その言葉に、何人かがうなずきかけて、すぐに顔を曇らせる。


 水が減ろうが減るまいが――そこが引っかかっているのだ。


 三雲トウマは、眉間にしわを寄せながら条文を読み込んでいる。


 ……給水ルールに不利な補正、ってのが厄介だな。


 三雲がぼそっとつぶやく。


 具体的な数字を出してないってことは、施設側がいつでも好きなようにいじれるってことだ。


 だからって、はいそうですかってチェックつけるのも違うし。


 レオが鉛筆の先を紙の上で滑らせながら言う。


 ズルいよな。水を人質にして、ここまでやらせるの。


 ミナはホワイトボードを引き寄せ、「同意マーケット」と大きく書いた。誰かが顔をしかめる。


 ミナ、お前それ付けるタイトル毎回センス悪いぞ。


 北園が突っ込むと、ミナは肩をすくめる。


 分かりやすいのが一番でしょ。はい、ここからが重要です。同意書ってつまり、「自分の体をどこまで実験に使わせるか」の宣言でしょ。だったら、その「許容範囲」は、大事な交渉材料になる。


 交渉材料?


 凪が聞き返すと、ミナは紙をひらひらさせた。


 例えばさ。「私は同意するから、その代わりあなたを守って」とか。「私は同意しないけど、その代わり他の部分でちゃんと働くから水を減らさないで」とか。友情とか恋愛とか恩とか、そういうの全部ひっくるめて、「同意」と交換するの。


 言い方を変えれば。


 三雲が静かに言葉を継ぐ。


 「誰のためなら、自分の体を差し出せるか」というリストでもある。


 うわあ。


 レオが顔をしかめる。


 言い換えないでほしい。余計に重く聞こえる。


 怜は黙ったまま同意書に目を落としていた。サラが、不安げに彼女の顔を覗き込む。


 怜さんは、どうするの。


 ……まだ、決められない。


 怜は正直に答える。


 医療者としては、データを取る側にいたい。水も血も体液も、全部、「見たい」。でも、人間としては、「見なくていいもの」もあるって分かってる。


 どっちを選んでも、正解はない。


 怜の声は、いつもより少しだけかすれていた。


 天井スピーカーが時間を告げる。


 二十時。回収時刻まで残り四時間。


 時間だけが、容赦なく進む。


 通路の端やベッドの上で、小さな話し声が増えていく。


 ねえ、もし私が同意したらさ、今度の血清、最初に回してくれる?


 ……うん。約束する。


 そういう会話があちこちで聞こえる。


 恋人同士でもないのに、手を握り合って話す二人。昔からの友だち同士だった二人。昨日までほとんど口をきかなかったペアが、急に近づいて話し込んでいる。


 紙の上で交わされる「同意」が、友情や恋愛や恩義を担保に変えていく。


 凪は、そんな光景から目を逸らしたくなった。


 同意してくれるなら、「代表である俺」を守るよ。


 大垣の低い声が聞こえた。振り向くと、彼は数人の男子に囲まれていた。


 代表育成クラブ、加入希望者か。


 ミナが遠巻きにその様子を見ながら小声で呟く。


 大垣は、自分の紙を机の上に置いている。「同意する」の方に、迷いのないチェックが入っていた。その横に、乱暴だがはっきり読める署名。


 俺はどうせ、代表に選ばれやすい立場だろ。だったら、同意しといた方が、いざってときに選択肢が増える。


 大垣は笑う。


 俺の血でも唾でも、使えるもんなら使え。代わりに、お前らの誰かが生き残れるなら、それでいい。


 お前、それ本気で言ってんのか。


 牧村が苛立った声を出す。大垣は肩をすくめた。


 怖くないって言ったら嘘になる。でも、「誰かが死ぬなら、自分で選びたい」って話だよ。


 その言葉に、凪の胸が重くなる。


 サラが、怜の袖をつまんだ。


 私も、同意する。


 怜が目を見開く。


 サラ。


 だって、私のせいで、みんなを巻き込んでるかもしれないから。


 サラの声は震えていた。


 私、最初に倒れたでしょ。水飲んでないのに。もし、私の体の中にある何かが、「毒の鍵」みたいになってるなら――だったら、それ、使うべきじゃない? 私の血とか唾とかで、誰かが助かる可能性があるなら。


 それは、自己犠牲というより、自己処罰に近い。


 怜はすぐに首を振った。


 サラ。自分を罰するために同意するのは、絶対にダメ。


 罰じゃない。償い。


 同じだよ。


 怜の声が、少しだけ強くなった。


 償いだって言いながら、自分から危険に飛び込むのは、「ここにいる全員は、あなたのせいでこうなった」って前提を受け入れるってことになる。それは違う。


 でも。


 サラの目に、涙が滲む。


 怜は、そっと彼女の手を握った。


 解毒は、一方通行じゃない。


 ……え。


 凪も思わず耳を傾けた。


 怜は、テーブルの上に置いた端末の画面をタップする。浮かび上がる血中グラフ。サラ、大垣、凪。三人の線が交錯している。


 この三日間で、「水をたくさん飲んでいる人」と、「血清をやり取りしている人」の数値を追ってた。傾向として、たしかに一部の異常値は下がってる。でも、その代わりに、別の異常値が他の人に移ってるような動きもある。


 移る。


 牧村が眉をひそめる。


 つまり、「解毒」が一方的に「マイナスを消す」んじゃなくて、「誰かから誰かへとバランスを移してる」って可能性。


 怜は静かに言葉を続ける。


 誰かが楽になるぶん、誰かが苦しくなるかもしれない。そういう「奪い合い」の構造になってるかもしれない。


 それじゃあ――。


 三雲が息を飲む。


 血清も体液も、「万能な救い」じゃなくて、「誰かの救いが、誰かの条件付きの死になる」ってことか。


 そう。


 怜はうなずいた。


 だから、自分の同意一つが、「誰かを救う」と同時に、「誰かから救いを奪う」可能性もある。それをちゃんと分かった上で決めなきゃいけない。


 紙の白が、少し灰色に見えた。


 誰かの救いが、誰かの死の条件になるのなら。


 名前を書く行為は、刃を研ぐことに近い。


 凪は、自分の紙の署名欄を見つめた。鉛筆の先が、わずかに震える。


 ミナが、その様子を少し離れた場所からじっと見ていた。やがて彼女は、パンと手を叩いてみんなの注意を引いた。


 同意書ひとつで、ここまで空気が重くなるってすごいよね。


 その軽口に、誰もツッコまない。


 だからさ。


 ミナはホワイトボードの前に立ち、自分の同意書を掲げた。


 どうせやるなら、ちゃんと「演出」しようよ。


 演出?


 凪が顔を上げる。ミナは、いつもの配信者モードの笑みを浮かべていた。


 同意って、「はい」にチェック入れて終わりじゃない。誰と誰がどんな風に同意したか。それをちゃんと見せることで、意味が変わる。


 彼女はホワイトボードに、二人の人形の絵を描いた。片方にはハートマーク、もう片方には握手のマーク。


 例えばさ。「恋人同士だから、お互いの体を預け合う」って誓い合うのって、ドラマになるでしょ。友情でもいい。「俺はお前のためなら自分の血も唾も全部くれてやる」って言うのも、胸熱。


 胸焼けの間違いじゃないのか。


 北園がぼそっと言う。ミナは気にせず続ける。


 だから、「同意する」を選ぶ二人は、みんなの前でちゃんと宣言してもらいます。


 は?


 凪の眉が跳ね上がる。


 いつの間にそんなルールが。


 今、決めた。


 ミナは悪びれない。


 だってさ、「紙にチェック入れました、はいオシマイ」って空気、嫌じゃない? どうせなら、お互いにとっての意味をちゃんと言葉にしてさ、「この二人はこういう関係で、こういう理由で体を預け合います」って宣言してもらった方が、責任も覚悟もはっきりする。


 それはつまり――。


 三雲が静かに言い換える。


 「同意」を、公開プロポーズみたいな儀式にするってことか。


 うん。分かりやすく言うとね。


 ミナは視線を凪に向けた。


 例えば、篠原くんとサラちゃんとか。


 そこで名前を出され、二人分の視線が一斉にミナへ向かう。


 え。


 サラが驚いたように目を見開く。凪も思わず立ち上がりかけて、椅子の脚をきしませた。


 ちょ、待って。何でそこで俺たちの名前が出てくるんだよ。


 だって、分かりやすいじゃん。


 ミナはさらりと言う。


 血清ドネーションで一番つながりが深くて、「救った」「救われた」関係。ここで二人が「お互いに同意します」って宣言したら、めちゃくちゃドラマになる。


 ドラマじゃない。


 凪は机を強く叩いた。


 俺たちの関係を、勝手にコンテンツにするな。


 コンテンツって言うなよ。


 牧村が呆れたように言う。だがミナは退かない。


 違うよ、ちゃんと理由もある。二人が「同意する」ことで、他の人たちに「そこまでしてくれる関係」があるって伝わる。安心する人もいる。嫉妬する人もいる。動きが出る。


 言葉を選びながらも、彼女の目は冷静だった。


 それに、施設だって絶対に「面白い」「興味深い」同意を優先して観測する。だったら、私たちの側も、「観測される前提」で意味を塗り替えていくしかない。


 凪は、何かがプツリと切れる音を聞いた気がした。


 紙を、ぎゅっと握りしめる。自分の同意書とサラの同意書。その端が、指先に食い込む。


 ミナは一歩踏み出し、二人の前に手を差し出した。


 ね、サラちゃん。篠原くんのために、同意してあげたら?


 その言葉は、優しさの仮面を被った強制だった。


 サラの肩が、小さく震える。


 私は……。


 彼女が何かを言いかけた瞬間、凪は動いた。


 自分の同意書を掴み、そのまま真っ二つに破った。


 紙が裂ける音が、食堂に響いた。


 凪。


 怜が驚きの声を上げる。ミナの目が見開かれた。


 俺は、同意しない。


 凪ははっきりと言った。


 誰かを守るために、自分の体を使うこと自体は、嫌じゃない。でも、「それを誰かが演出して見せ物にする」ために同意するのは、絶対に違う。


 破られた紙片が、床にひらひらと落ちる。


 サラの紙も凪の手の中にあった。一枚、二枚。裂かれる。


 サラの分まで勝手に破るのは、ずるいかもしれない。それでも、このまま「同意してあげたら?」という言葉に押し流されてしまう未来が、耐えられなかった。


 ミナの顔から、一瞬、笑みが消えた。


 ……それ、ただの感情論だよ。


 そうだよ。


 凪はうなずいた。


 感情論で決めちゃいけない実験なんて、この世にない。


 AIの声が、無機質に割り込んでくる。


 同意書の改ざん行為を確認。破棄された同意書は無効となります。当該参加者は「同意しない」として扱われます。


 ならそれでいい。


 凪は息を吐き出した。


 「同意しない」ってラベルを、俺は自分で選んだ。


 サラも。


 彼は横目でサラを見た。サラは驚いた顔のままだったが、やがて小さくうなずいた。


 ……ありがとう。


 怜が眉を寄せる。


 篠原。分かってる? 同意しないってことは、水が減る可能性があるってことも――。


 分かってる。


 凪は答える。


 それでも、俺は、「誰かを守っているふり」をしながら、自分が気持ちよくなれる同意なんて、したくない。


 瞬間、空気がぴんと張り詰めた。


 ミナが、ゆっくりと笑みを戻す。


 ……そういうところだよね、篠原くん。


 その「そういうところ」が、褒め言葉なのか皮肉なのか、判別できなかった。


 空気が重くなりかけたその時、別の方向から鋭い声が飛んできた。


 おい。


 大垣だった。彼は足音荒く歩いてくると、凪の額を指で弾いた。


 痛っ。


 お前さあ。いきなり紙破るなよ。びびるだろ。


 びびったのそこかよ。


 北園が突っ込む。大垣は笑いながらも、すぐに真顔に戻った。


 でもまあ、その気合いは嫌いじゃねえ。


 彼の同意書には、変わらず「同意する」のチェックが入ったまま。その紙を握りしめて、彼は凪の肩をぽんと叩く。


 お前が同意しないなら、その分まで俺がやってやるよ。


 は?


 凪が目を見開く。大垣は平然と言い放った。


 代表に選ばれやすいのは、どうせ俺だしな。だったら、「同意した代表」が一人でもいた方が、選択肢は残るだろ。


 それは、勇気とも愚かさともつかない決意だった。


 ミナが、そのやり取りをじっと見つめていた。その目に、再び「何かを思いついた」光がよぎる。


 じゃあさ。


 ミナが歩み寄る。


 その紙、貸して。


 は?


 大垣が眉をひそめる間もなく、ミナは彼の同意書をひったくった。


 ちょ、おい。


 大垣が慌てて取り返そうとする。ミナはひらりとかわし、テーブルの上にどん、と置く。


 はい、現在この部屋で「同意する」を選んでる代表候補はこちら。


 ミナは、ホワイトボードに「同意組」と「不同意組」を書き分けていく。


 同意組:大垣、三雲、真帆

 不同意組:牧村、篠原、サラ


 まだ全員の意思が固まっているわけではない。それでも、こうやって名前を書かれるだけで、線が引かれたように感じる。


 ミナは、大垣の紙の署名欄を指でなぞった。


 いい名前だよね、「迅」って。


 何の話だよ。


 大垣が怪訝な顔をする。


 だって、「迅」って、「速く動く」って意味でしょ。代表として先に出ていく人には、ぴったりじゃない?


 その言い方に、凪の背中がざわついた。


 ミナの視線が、ほんの一瞬、凪のポケットに向く。


 そこには、さっき削除したはずの写真ではなく、空っぽになったギャラリーだけがある。


 記録係のカメラが、今は沈黙していることを、ミナは分かっている。


 その時だった。


 ガタン、と大きな音がした。


 誰かがつまずいたのだと思った。だが、すぐに違うと分かった。


 備品庫側の扉の前で、小柄な男子――斎木が、何かに足を取られて倒れ、その動きに反応して大垣が反射的に手を伸ばした。


 次の瞬間、大垣の身体が斜めに傾き、そのまま水槽の方向へと持っていかれる。


 危ない。


 誰かが叫ぶより早く、大垣は水槽の縁に肩をぶつけた。鈍い音が響き、ガラスがきしむ。


 倒れ込む拍子に、彼の右手に握られていた同意書が宙を舞い、床に散った。


 そして、もう一つ。


 彼の肘から、鮮やかな赤が飛び散った。


 ぶつかった時に、どこかを切ったのだろう。血がぽとり、ぽとりと床に落ちる。さらに一滴、大きく跳ねたそれが、水槽の縁を越えて――青い水面に落ちた。


 水面が、かすかに赤く揺れる。


 青と赤が交わる瞬間を、凪は息を呑んで見ていた。


 血液の一滴が、渦を作りながら沈んでいく。青い水の中に赤が溶け、すぐに色は見えなくなる。それでも、そこに何かが混ざった事実だけは消えない。


 大垣!


 凪は慌てて駆け寄った。大垣は肩を押さえながら起き上がろうとする。


 いてて……。


 シャツの袖が破れ、肘のあたりから血が滲んでいる。傷は深くはなさそうだが、放っておけるものでもない。


 怜がすぐに走ってきて、救急セットを取りに戻る。


 じっとしてて。


 AIが低い音を鳴らした。


 水槽の汚染を検知。代表候補の血液が混入しました。


 汚染って言うなよ。


 大垣が顔をしかめる。AIは感情のない声で続けた。


 分析の結果、混入した血液量は許容範囲内。水質への重大な影響はありません。


 その言葉に、誰かが小さく笑った。


 許容範囲って何だよ。


 牧村が吐き捨てる。


 俺らの血は、いつから「許容範囲」で測られるようになったんだよ。


 凪は、水槽を見つめた。青い水面は、さっきと変わらない顔をしている。けれど、この瞬間から、この中には大垣の血が混じった。


 もう、とっくに混ざってるのかもしれないけど。


 怜が、大垣の傷に消毒液を垂らす。大垣が顔をしかめる。


 その時、AIが唐突に別の告知を始めた。


 水槽の総量を公開します。


 凪を含め、全員が顔を上げる。


 現在、実験水槽に残存する水量は、総量の二十パーセントです。


 静かな数字だった。


 しかし、その静けさが、寒気を連れてくる。


 八十パーセントは、もう飲んでしまったか、床にこぼれたか、血や体の中に消えたか――いずれにせよ、この部屋から消えている。


 二十パーセント。


 トウマが、何かを確かめるように口の中で繰り返した。


 俺の計算、そんなに外れてなかったってことか。


 あと何日で尽きるのか。誰も口には出さない。


 ミナが、赤くなった水面を見つめながら、小さく笑った。


 ねえ、AI。


 彼女は顔を上げる。


 今、「汚染」って言ったよね。


 はい。


 でもさ。


 ミナは、水槽の縁に指を滑らせる。


 そもそもこの水槽、最初から「きれいな水」だったのかな。それとも、「毒」と「解毒」と「誰かの血」と、最初から全部混ざってたのかな。


 AIは答えない。


 紙は白いのに、署名は黒い。水は青くて、血は赤い。その全部が混ざった色を、誰も知らない。


 凪は、自分の紙片が床に散らばっているのを見下ろした。


 黒い線が友情を区切る夜。


 そこに、自分の名前を書けないまま震えた手の感触が、まだ残っていた。


 誰かの救いが、誰かの死の条件になるのなら。


 名前は、刃になる。


 夜は、まだ長い。

 同意書の締め切りまで、残り三時間。


 喉の奥が、ガラスをこすったように痛んだ。

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