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毒の水槽は静かに満ちる  作者: 妙原奇天


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第4話 推薦と粛清

 朝は、音より先に違和感から始まった。

 篠原凪は、いつものように目を開ける前に天井の光の具合を確かめようとして、それより早く、空気の重さに気づいた。金属ベッドの上、布団をめくる前から、部屋全体がどこかざわついている。

 誰かがもう泣いているような、小さな嗚咽。誰かが押し殺した笑い。囁き声が絡まり合って、耳の奥でまとわりつく。

 照明が明るくなる直前、天井スピーカーが短い起動音を鳴らした。

 本日の給水ルールを告知します。

 女の機械音声が落ちてくる。凪は上体を起こした。右腕の採血痕が、まだ鈍く痛む。

 代表制による試飲は継続。代表は一名。選出方法を改訂します。本日より、代表は「他者推薦」のみとします。

 一瞬、意味が頭に入ってこなかった。

 他者推薦。

 言葉の形を理解した瞬間、凪の背筋に冷たいものが走る。

 立候補は認めない。他者からの推薦により最多得票を得た者を、本日の代表と見なします。

 ベッドのあちこちで、抑えきれない唸り声が漏れた。

 立候補が――できない。

 誰かが前に出て、「俺がやる」と空気をさらってしまうことも、「男気」を盾に皆を黙らせることも、もうできない。

 代わりに始まるのは、「誰を前に押し出すか」のゲームだった。

 推薦理由の記録も行います。

 さらりと付け加えられた一文に、凪の胸がざわつく。

 推薦理由。

 つまり、「なぜその人を危険に晒すのか」を、言葉にして残せということだ。

 告知を終えます。代表選出は十分後に締め切ります。

 放送が途切れた瞬間、薄暗い室内に人の息づかいが一気に濃くなった。

 マジかよ。

 真っ先に声を上げたのは牧村だった。彼は髪をかきむしり、ベッドから飛び降りる。

 何考えてんだ、この施設。

 考えてるから、こうしてるんでしょ。

 ミナが、半分笑いながら伸びをする。目は笑っていなかった。

 他者推薦ってさ。一番簡単ないじめツールだよね。

 言うなよ、そういうことを。

 北園レオが眉をしかめる。彼の声にも、隠しきれない怯えが混じっていた。

 凪は、自分の胸ポケットにある端末に触れた。ここ数日で溜まった記録のデータ。その中に、「誰が誰に何を言ったか」が刻まれている。

 これからそこに、「誰が誰を推薦したか」が追加される。

 大垣迅が、ベッドの上で腕を組み、じっと天井を睨んでいた。

 立候補、なし、か。

 ボソッと漏らした声には、どこか諦めと苛立ちが混ざっていた。

 あんた、またやるつもりだったの?

 ミナが意地悪く笑う。

 「かっこいい俺」が封じられちゃったね。

 うるせぇよ。

 大垣は舌打ちし、ベッドから降りた。

 ……でも、お前ら、分かってんだろ。

 何を。

 牧村が目を細める。

 「弱そうなやつ」から名前が挙がるってことだよ。

 空気が、さらに重くなる。

 そう。それが一番単純で、一番残酷な答えだった。

 怜は、その空気を切るように立ち上がった。白衣の裾がかすかに揺れる。

 待って。

 彼女はスピーカーの方を見上げる。

 ルールについて、提案があります。

 AIはすぐに応答した。

 提案をどうぞ。

 他者推薦をするなら、推薦理由を、必ず言語化して記録して。

 怜の声は静かだが、はっきりしていた。

 「何となく嫌いだから」とか、「空気で決まったから」とか、そういうのだけは、絶対に許しちゃいけない。推薦するなら、「なぜその人を危険に晒すのか」を、自分の言葉で説明してもらう。それを聞いて、他の人も責任を持って票を入れる。

 ふむ。

 AIが淡々と答える。

 合理的提案と判断。採用します。本日より、推薦理由の言語化を義務化。推薦者の発言は録音および記録されます。

 怜の提案は通った。だが、それは救いと同時に、別の刃でもあった。

 誰かを指差す言葉は、その瞬間から「暴力」として形を持つ。

 推薦時間まで、残り八分。

 AIの冷たいカウントダウンが始まる。

 部屋のあちこちで、ひそひそ声がぐっと大きくなった。

 あいつ、昨日何もしてなかったよな。

 そういえば、一昨日の掃除もサボってた。

 いや、でも体弱そうだったし。

 弱いから、じゃない?

 弱いから、差し出す。

 そんな言葉が、冗談半分の形を借りて、口から口へと渡される。凪は、その一つ一つが耳に刺さるのを感じていた。

 弱いから差し出すのか。

 役に立たないから、押し出すのか。

 それとも、口答えが多いから、目障りだから――。

 サラは、ベッドの上で毛布を握りしめていた。まだ完全に回復していないその顔が、不安でこわばっている。

 私……今日、推薦されるかな。

 掠れた声に、怜が首を振る。

 させない。

 どうやって。

 ……言葉で。

 怜の手が、ほんの少しだけ震えていた。

 ミナはホワイトボードを引き寄せ、「本日のテーマ」と書き換える。

 推薦と粛清。

 さらっと書かれた四文字に、牧村が睨みを向ける。

 物騒なタイトルつけんな。

 でも、正直じゃない?

 ミナはペンをくるくる回す。

 代表ってさ、「君が一番信頼されてる」って言い方もできるけど、今のルールだと「君が一番、ここから切り離しやすい」って意味でもある。

 言い方。

 凪は頭を抱えたくなった。

 推薦時間、開始します。

 AIの宣言と同時に、壁面から透明なパネルがせり出してきた。「他者推薦ボード」と表示されたその画面には、十三人の名前が一覧で並んでいる。

 

 推薦するには、名前を選択し、音声で理由を述べてください。

 ボードの前に、誰も近づかなかった。数秒の沈黙が場を支配する。

 ……じゃ、最初は俺がやるか。

 静寂を破ったのは、三雲トウマだった。彼は眼鏡を押し上げ、パネルの前に立つ。

 三雲。

 誰かが呼ぶ。彼は軽く手を振って制した。

 どうせ、誰かがやらなきゃいけない。

 トウマは、パネルの上である名前をタップした。

 推薦対象、入力されました。推薦理由をどうぞ。

 AIの促しに、トウマは少しだけ息を吸ってから口を開いた。

 俺は――

 彼は、選んだ名前をはっきり言った。

 牧村を推薦します。

 部屋の空気が、大きく揺れた。

 はあ?

 牧村が立ち上がる。目が怒りで見開かれている。

 理由を述べてください。

 AIが催促する。トウマは牧村から視線を逸らさずに続けた。

 牧村は、体力もあって、多少の負荷には耐えられる。昨日の作業でも、一番重い荷物を率先して運んでいた。もし水に何かあっても、短期的には致命傷になりにくい。

 おい、それって。

 つまり、「死ににくそうだから」ってこと?

 北園が苦笑混じりに言う。トウマは頷く。

 そう。代表に求められているのは、「未知のリスク」に耐えられることだと思う。だから、体力のある牧村を推した。

 絞り出したような理屈だった。正しい部分もある。だがそれだけではない。

 牧村の顔が、見る見る赤くなっていく。

 結局、「俺は丈夫だから危険なところ行け」ってかよ。

 違う。

 トウマは首を振る。

 「一番弱い奴」を差し出すよりは、マシだって言ってる。

 その言葉は、一部の人間からの共感と、一部の人間からの怒りを同時に買った。

 推薦者、三雲トウマ。推薦理由、記録しました。

 AIが淡々と告げる。

 続けてください。

 しんとした空気の中、誰かが笑った。

 じゃ、俺も行くわ。

 大垣迅だった。彼はパネルの前に歩み出る。

 お前、誰にするんだよ。

 北園が問いかける。大垣はニヤリと笑い、ある名前をタップした。

 大垣迅を推薦します。

 瞬間、場の空気が凍りついた。

 自分で、自分を?

 牧村が目を剥く。

 他者推薦なんじゃなかったのかよ。

 AIが淡々と補足する。

 他者による推薦のみ有効。「自己推薦」は無効です。

 だろ。

 大垣は肩をすくめた。

 だから、「俺を推薦したいやつ」は、今のうちに名前入れとけよって話だ。

 その一言で、空気の流れが変わった。

 ああ、そういうこと。

 ミナが楽しそうに目を細める。

 「俺、やってやるよ」とか言えない代わりに、「俺に入れたければ入れろ」って空気、作ってるわけだ。

 うるせえ、解説すんな。

 大垣はパネルに顔を近づけた。

 ……俺は、「役立たず」とか「弱そうだから」とか、そういう理由で誰かを推薦したくない。だから、どうしても推薦しなきゃいけないなら、「自分を差し出す」って選択しかしたくない。

 推薦理由をどうぞ。

 AIが促す。大垣は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。

 俺の理由は、それだけだ。

 推薦理由、不十分。規定により無効と判定します。

 は?

 大垣が目を見開く。AIは容赦がない。

 他者推薦に限定されているため、「自己推薦」を含意する推薦は無効です。

 だから、何で分かるんだよ、含意とか。

 大垣がスピーカーに向かって怒鳴る。ミナが小声で笑った。

 AI、空気読んでるね。

 その時だった。

 透明パネルに、うっすらとある名前の横に小さな印が浮かび上がった。

 推薦者:北園レオ

 推薦対象:大垣迅

 え。

 凪は思わず声を漏らした。

 レオが、目を逸らした。耳まで赤くなっている。

 俺は……。

 レオはかすれた声で言った。

 俺は、大垣が代表やるの、別に止めない。怖くないのかって聞かれたら、怖いけど。でも、あいつ、昨日も結局一番に飲んでくれたしさ。格好つけかもしれないけど、そのおかげで助かった感もあるし。

 推薦理由、記録します。

 パネルに、レオの言葉が文字として表示される。

 さらに、別の名前の横にも印が浮かぶ。

 推薦者:真帆

 推薦対象:大垣迅

 推薦理由:「自分じゃなくてよかったから」

 短い一文だった。それだけで、十分残酷だった。

 続けてまた一つ。

 推薦者:斎木

 推薦対象:大垣迅

 推薦理由:「強いから、耐えられそうだから」

 少しの間に、大垣の名前の横に、いくつもの印がついていく。中には「昨日も大丈夫だったから」とか、「どうせやるなら同じ人が」とか、様々な言葉が並んだ。

 ふざけんなよ。

 大垣の声が低くなる。

 お前ら、俺のこと何だと思ってんだ。

 強い人。

 真帆の小さな声が、彼の怒声を切る。

 強い人って、「強いから大丈夫」って言ってれば、何でも押しつけていい人なんでしょ。

 その言葉は、真帆自身にも向けられているようだった。

 AIが淡々とカウントダウンする。

 推薦時間、残り三分。

 凪は、パネルの上で自分の名前の横に印がついていないことに、ほっとしたような、ざわついたような感覚を覚えていた。

 俺は――。

 推薦しない、という選択肢はない。

 誰かを選ばなきゃいけない。

 選ばなかったら、「ただ流されているだけの腰抜け」と自分で自分を責める未来が見えた。

 凪は、ゆっくりとパネルに歩み寄った。

 誰にする?

 自分に問いかける。

 怜でも、ミナでも、トウマでもない。サラに入れるなんて論外だ。牧村に入れるのか。レオに入れるのか。それとも、ナナメ上で斎木とか。

 指が、ある名前の上で止まった。

 大垣迅。

 推薦理由を、述べなければならない。

 喉がきしんだ。

 ……大垣を推薦します。

 自分の声が、部屋に響く。

 理由をどうぞ。

 AIの促しに、凪は少しだけ息を吸った。

 彼は――。

 強いから、でも、昨日やったから、でもない。いま、この場で、一番「誰かを庇おうとしている」から。

 何だよ、それ。

 大垣が苦笑する。

 昨日も今日も、「弱い奴を差し出すくらいなら、自分が行く」って言った。俺は、その考え方に賛成する。だから、大垣が代表をやるって言うなら、俺はそれを「一人の意思」として尊重したい。

 ……そう言って、「押しつけてる」自覚、ある?

 ミナが小声で呟く。凪は目を閉じた。

 ある。でも、誰かを選ばなきゃいけないルールなら、俺は「自分から前に出ようとする人」を選ぶ。

 推薦理由、記録しました。

 パネルに、凪の言葉が文字として刻まれていく。それは、そのままこの場の「言語の暴力」の一部でもあった。

 推薦時間、終了。

 AIが宣言する。

 集計結果を発表します。本日の代表は――。

 短い間。

 大垣迅。推薦数、八票。

 息を呑む音が、あちこちで上がった。

 続いて、牧村が二票、三雲が一票、その他二名が一票ずつ。

 代表者、大垣迅。水槽前へ。

 名指しされた本人は、しばらく何も言わなかった。やがて、大きく息を吐くと、肩を回して前に出る。

 そんな顔、すんなよ。

 彼はパネルを見つめる皆に向かって言った。

 どうせ誰かが行かなきゃなんねえんだ。俺が行くって言ったら、そりゃ入れるだろ。分かってたよ、こんくらい。

 彼の笑いは、いつもより少しだけ薄かった。

 水槽の前に立ち、計量カップに水が注がれるのを待つ。その背中を見つめながら、凪は胸の中で何度も同じ言葉を繰り返した。

 俺も、押した。

 自分の指が彼の名前をタップした感触が、まだ指先に残っている。

 「強いから」という言い訳を、別の言い方に変えただけじゃないのか。

 カップに百ミリリットルの水が満たされる。AIが無機質に告げる。

 代表者、試飲をどうぞ。

 大垣は、カップを持ち上げた。喉仏が高く動き、視線が水面を越えて遠くを見る。

 ……いただきます。

 冗談のような、儀式のような一言。そのまま一気に飲み干す。喉を通る水の音が、妙にはっきり聞こえた。

 沈黙。

 何も、起きない。

 それでも、誰も安堵の息をつかなかった。昨日と違って、「血清」は絡んでいない。今日の代表は、本当にただ「水」と向き合っている。

 AIが、少しだけ間を置いて告げる。

 代表者の血液を、一部追加採取します。

 銀色のアームが伸び、大垣の腕に針が刺さる。彼は顔をしかめながらも何も言わない。チューブの中を濃い赤が昇っていく。

 採取完了。大垣迅の血液を、ラベルナンバー七一八として保存。

 その数字が、なぜか妙に生々しく感じられた。

 儀式は終わった。だが、推薦によって刻まれた言葉は消えない。

 彼は強いから。

 彼は役に立つから。

 彼女は潔癖で飲めないから。

 彼は昨日サボっていたから。

 彼女は、ここに残っても意味がないから。

 パネル上のログは、全員が閲覧できる状態で残されている。それを見るたびに、胸に刺さる棘の数は増えていく。

 昼を過ぎた頃だった。

 サラが、ふらりとベッドから立ち上がった。

 怜が振り向く。

 どこ行くの。

 トイレ、とか言うと思った。だが、サラの歩く方向は違った。

 水槽の方へ向かっている。

 サラ。

 凪が慌てて立ち上がる。その数歩の間に、サラは水槽の縁に手をかけていた。

 透明なガラスの向こうで、水面が揺れる。そこに映る自分の顔。その奥に、大垣がついさっきまで飲んでいた場所がある。

 もう、いいよね。

 サラの声は、どこか壊れかけの笑いを含んでいた。

 どうせ、いつかは誰かが死ぬんでしょ。だったら、私が先でいいよ。

 バカ言うな。

 大垣が声を張り上げる。だがサラは振り返らない。

 誰かを推薦するのも嫌。誰かに推薦されるのも嫌。でも、ここにいる限り、どっちかを選ばされる。だったら、自分で選んだってことにした方が、まだマシじゃない?

 サラの細い指が、水槽の縁を乗り越えかけた。ガラスの向こうの水面が、彼女を呼んでいるように見える。

 飲みたくないなら、一気に全部飲めばいい。

 その言葉に、凪の体が勝手に動いた。

 やめろ!

 彼はサラの腕を後ろから掴んだ。サラの体がびくりと震える。ハッとして振り向くその目には、涙が滲んでいた。

 離してよ。

 サラは暴れようとする。凪は抱き締めるように力を込めた。

 離さない。

 耳元で、自分でも驚くくらい低い声が出た。

 死に急ぐのも、支配だろ。

 サラの動きが止まった。

 凪は続ける。

 自分で選んだつもりになるだけで、本当は「ここから逃げるための一番簡単なルート」を押しつけられてるだけだ。そうやって、「自分の意思」で死んでくれた人の上にさ、残った俺らは平気で立てちゃうんだよ。

 サラの肩が、小刻みに震える。

 ……そんな、きれいに言わないでよ。

 きれいじゃない。

 凪は首を振る。

 汚い話だよ。誰かが自分で死んでくれたら、一番楽だって話だよ。それを、「私が先でいい」とか言って肩代わりしようとするのは、優しさじゃない。ここを支配してるルールに、一番従順なやり方だ。

 サラの目から、ぽろりと涙が零れ落ちた。

 じゃあ、どうすればいいの。

 知らない。

 凪は正直に言った。

 でも、少なくとも、「自分で飛び込む」って選択肢だけは、今は絶対に選ばせない。そうしないと、何かが壊れる。

 何かって、何。

 俺の。

 凪は、自分でも驚くくらい素直な言葉を口にしていた。

 俺の目の中で、サラが「自分で死んだ人」ってラベルになる。それだけは、絶対に嫌だ。

 サラは、しばらく黙っていた。やがて、力が抜けたように凪の胸にもたれかかる。

 ……ずるい。

 掠れた声でそう言った。

 そうだよ。ずるいことしか言えない。

 凪は、サラの肩をもう少しだけ強く抱き締めた。

 怜がそっと近づき、サラの背中に手を置く。

 サラ。ここで倒れるのは、許可しない。

 医者の口調で言うその言葉は、命令というより祈りに聞こえた。

 その時だった。

 天井スピーカーが低い音を立てる。続いて、聞き慣れない機械音が室内に響いた。

 給水装置を調整します。安全性に影響はありません。

 AIの声と同時に、水槽の上部から細いアームが伸びる。その先端に、小さなガラスのカプセルがぶら下がっていた。

 何だよ、また。

 北園が顔をしかめる。

 アームの先から、ぽとりと一滴、何かが落ちた。

 水面に落ちた瞬間、それは鮮やかな青に広がっていく。透明だった水が、ゆっくりと淡い青に染まっていく。

 ……色、付いた。

 真帆が震えた声でつぶやく。

 何してんだよ。

 大垣が水槽に歩み寄る。青く染まった水は、蛍光灯の光を受けて、不気味なまでにきれいだった。

 心理的抵抗の測定を実施します。当該染料は無害です。水質への影響は安全基準内。

 AIは淡々と説明する。

 今後の給水は、「色の付いた水」を使用します。

 色の付いた水。

 その一言で、「飲む」という行為が、別のものに変わった気がした。

 これ、もう完全に儀式じゃん。

 ミナが乾いた笑いを漏らす。

 透明な水なら、まだ「普通の水」と思い込めた。だが、青く染まった水は、「何かが混ざっている」事実を否応なく見せつけてくる。

 大垣は、水槽を見下ろしながら息を吐いた。

 ……次からは、これ飲むのか。

 彼の言葉に、誰も何も言えなかった。

 青い水面が、室内の顔を映す。その中心に、一滴の染料が落ちた痕跡が、まだ渦を巻いて残っている。

 無害だと、AIは言った。

 だからこそ、その「色」が持つ意味は、ほとんど全部、人間の想像に委ねられている。

 推薦は、粛清に近づく。

 青く染まった水槽を前に、「誰をそこに近づけるか」を決める行為は、もはや単なるルールではない。「この世界から、誰を一歩押し出すか」を選ぶ儀式そのものだった。

 凪は、青い水面に映る自分の顔を見つめた。

 喉の奥で、ガラスがきしむような音がした気がした。

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