雨side
書いていたノートを閉じ、わたしは学校の椅子に少しだけ寄りかかった。
にわかに湧き始めた教室の喧騒から目をそらすために、わたしは窓の外に視線を送った。特別何かがあったわけでもないし、校舎の入り口に金髪の美女が立っていたというわけではなかったのだけれど、教室の中の喧騒を見ていると頭の中がパンクしそうだったのだ。
目に入ってしまうと、つい誰が何をしていたかを思い出そうとしてしまう。だから、わたしの頭の方が耐えられなくてパンクしてしまう。そうなればきっと誰かの迷惑になるし、わたしもそんなことになってしまうのは望んでいないので適度に休憩を取ることにしている。
ふと、今が何の時間で何をしているのかを忘れてしまった。
時間を確認するために時計を見る。
今の時間はたしか……。そう、まだ二限が終わったばかりの時間だ。授業はまだ残っているから、いまわたしがこうしているのは単純に疲れたくなかっただけ、ということだ。
視界に入っている窓の外には雲一つない、青天というべき空が広がっていた。蝉の声もしている。窓からは涼しい風も入ってきていて、夏特有の湿ったにおいとでもいうべきか、夏のにおいがして、とても興味をそそられた。
そのままぼうっと空を眺めていると、誰かが机の近くで止まる気配がした。
誰だろうと思いはしたが、あまり他人と関係を持つ間柄にはなりたくないので、そのまま視界を窓の外に向け続ける。と、焦れたのか、向こうから声をかけてくる。
少年の、できるだけ優しさを込めたような声だった。
「火宮さん。今大丈夫かな」
「え?」
驚いて体が硬直する。自分をさん付けする人なんてここでは生徒しかいないはずで、こういう声をかけられるときはほとんどがいやがらせの類だったからだ。相手を覚えられないわたしにも非はあるのだろうけど。
今でこそ、そういうことはほとんど無くなったものの、声をかけられるたびに少し緊張してしまう。
「えっと……」
声をかけられたことに驚いて、相手の顔もまだ見ていなかった。ゆっくりと視線を戻して彼を見る。長いとも短いともいえない流行の髪型、きりっとしているのに優しそうな瞳に、整った顔立ち。
顔を確認して、声色も踏まえてようやく彼が誰かを思い出した。
仲の良い……。ううん、とても好きな人だ。こんな自分を見つけて、何度も声をかけてくれた彼のことは忘れようと思っても、なかなか忘れるなんてできないと思う。
実際は忘れてしまうのだけれど。
この学校に入学した当初、気にかけて助けてくれた人だから。それから色々あって、わたしは彼と付き合うことにしたのはまだ記憶に新しい。
だから、一応は恋人同士のはずなのに、学校では声をかけてくれる機会が少なくなってしまったので彼を思い出すのが遅れてしまったのだ。恋人になる前まではもっと声をかけてくれていたから余計に学校で声をかける人物として思い出すのに時間をかけてしまった。
それが不快というわけではなかったけれど、ちょっとだけむっとしたので、少しだけ意地悪をすることにした。
――えっと、彼の名前はたしか……。
「そうや、くん。聡也くん。どうしかしたの?」
わたしがそう返すと、聡也くんらしき人はあたふたと慌てたように戸惑い、そして照れくさそうにそっぽを向いてしまった。
「あ、えっと。その……。学校で下の名前はちょっと恥ずかしいかなって」
そっぽを向いた彼の頬が少し赤く染まっているのが見えて、一瞬誰かわからなくなってしまう。それでもその横顔は彼の物だし、先ほどまでその場所に立っていたのは彼なのだから、聡也くん以外にはありえないのだけど。
そういえば、今は授業を受けた直後だったということを思い出した。人がまだ大勢いる教室で、彼をからかってしまうのはあまり良くないかもしれない。
これは持病ではなく、彼のことに集中しすぎたせい。半分はわざとだったけれど。
笑いをこらえられずに少しだけ噴き出してしまう。
「あら、ごめんなさい。ほら、わたし忘れっぽいから」
「……わざとかな」
「どうかしら。本当に忘れてたかもしれないわ」
「それは困る。それなら俺の事も忘れないようにキスでもしようか、お姫様」
「学校で?」
「あー記憶に残るかなって思って……。駄目?」
「駄目なんてひとこともいってないわ櫻井くん」
「え……」
いじわるをするつもりで話を続けていたけれど、恥ずかしそうにそう言っていた。このままだと本当にしてくれるかもしれない。
またほんの少しいじわるをするつもりで、恥ずかしそうにしている彼に手の甲を差し出すと、驚いて固まりすぐに目を泳がせながら頭をかきはじめた。
「あー。ああ……。そっか。そういうことか。びっくりした」
「あらあら、何だと思ったのかしら」
「くそ……。ちょっとは火宮さんがはずかしがってるところを見れると思ったのに」
「ふふ、そういうチャレンジ精神はきらいじゃないわ、だってそこが好きなんだもの」
わたしがそういうと、彼は首の骨が音を立ててしまうほど勢いよく顔をそらした。
だいぶ大きな音がしたけれど、大丈夫だろうか。
「……ああ、もう。悔しいな」
「悔しい?」
「そう、すごい悔しいよ」
「そうかしら」
「そうだよ、だっていつもいつも火宮さんには先を行かれる。それは男としてちょっと……」
彼はそこで言葉を濁してしまった。話の流れからして、彼はわたしに対してなにかしようとしていたらしい。それはそれで気になるけれど、彼が言葉を切ってしまった理由を考えた。
少なくとも、今はわたしに対して何かしらの感情を持っていたはずで、こういう時、普通の人なら何を気にするのか。とくにわたしに対して言いよどむこと。なるほど、それならすぐに想像することはできた。
「もしかして、恥ずかしい?」
「え?」
「だって、櫻井くんみたいな人が言いよどむことってそんなにないもの。記憶の中にある櫻井くんはいつもかっこうよくて、思い切りがよかったから」
「そ、そっか。そんな風に思ってたのか」
ますます彼の頬は赤くなってしまった。また恥ずかしそうにする彼を見て、噴き出してしまう。
「ふふ、でもそっか、恥ずかしいか」
「ひどいな、笑うことはないだろ?」
「ごめんなさい。でも、わたしは良いと思うわ」
「どこがさ。こっちは恥ずかしいって言うのに……」
「だって、嬉しいじゃない」
「……初めて知ったよ」
「あら、なにをかしら」
「君がそこまでいじわるだってこと」
「ふふ、いじわるはもともとよ。お父さんの言う通り、わたしはおてんば娘なの。そうは見えなかったかしら」
「見えないよ。火宮さんのクラスメイトとしては」
含みがある様に、彼はそう言った。クラスメイト、とわざわざ言ったのは昔の――彼と付き合う前の自分も含めて言っているのだと思う。
「知ってる。だって、そう演じてきたし、記憶にない人に心をゆるすって怖いことだもの」
「おっと、急に重い話?」
「ちょっとだけ……。ちょっとだけよ? でも、櫻井くんにならいいって思っていたのだけど、記憶し直さないとダメ?」
「そんなことは無い! いくらでも聞くよ。もとより君の味方になるって決めたからね」
「ふふ、ありがとう。それじゃあね、櫻井くん。櫻井くんは顔も知らない人にいきなりからかう、なんてことできるかしら」
そう聞くと、彼の顔が少し自嘲するかのように苦笑していた。過去の自分でも思い出したのだろうか。しかし、すぐに困ったような笑い顔に戻ると、私の方を見てくれた。
「ちょっと俺にはその度胸はないかな」
「あら、知らない人を彼女呼ばわりする度胸はあるのに?」
「今日はいじわるの日だね、火宮さんは」
「そうかも――。でも、わたしはそんな、知らない人をからかうなんて怖い事はできないわ。だからね、櫻井くん」
彼の顔をもう一度見る。これからいう事は真剣に言わなければならいことだからだ。本当はこんな場所で言う事じゃないのかもしれないけれど。
「からかえる人間になってくれて、ありがとうって思うの」
わたしがそういうと、彼は驚いたように固まってしまう。
「お父さんも、お父さんだって分かるけど、わたしにとっては似てる他人だから。だから、話しかけてきてくれて、ありがとう、櫻井くん」
他人というのは怖いものだ。記憶が無ければわたしにとっては血のつながった家族であろうと他人と感じてしまう。だから、こうして彼のように思い出しやすいように話しかけてくれるのはとてもうれしいことだったのだ。
きょとんとしていた櫻井くんらしき人は、すぐに朗らかに笑う彼に代わっていた。そして何かを思い出したかのようにハッとすると、机に手を置いてくる。
「あ、そうだ。火宮さ――」
何か言いかけて、言葉の途中でなにかのチャイムが鳴り始めるのが聞こえてきて、他の人がそそくさと席に着き始めたのが見えて、ようやくそれが授業のチャイムだと気が付いた。彼もすぐに気が付いて、慌てたように動き始めると、すぐに振り返ってきて「じゃあ、またあとで」と言って自分の席らしき場所へと戻っていってしまった。
ほんの少しだけ満足して、わたしは記録媒体に手を伸ばした。
* * *
学校が終わり、部活に入っていないわたしは、彼に家まで送ってもらうことになっていた。その帰路の途中、彼は思い出したかのように声を上げるのが聞こえて、彼の方へと視線を移してみると、彼はわたしを見てくれていた。
「そういえばさ」
「うん?」
「恥ずかしいのが良いって、どういうことかな」
「あら、気になってたの?」
「気になるよ。君の事だもの」
「ふふ、嬉しい。あれはね、恥ずかしがる機会の少ないわたしの代わりに、櫻井くんが恥ずかしがってくれるんでしょ? って意味なの」
客観的に見て、わたしの反応が薄いのは知っていたので、たぶん、人よりもそういうのは少ないんだろうなとは感じていた。
だから、恥ずかしがる彼を見ると、代わりに恥ずかしがっているようにも見えて少しだけ嬉しい。
そういう意味を込めて返事をすると、彼は急に黙りこんでゴンという痛そうな音が聞こえてきた。不思議に思って視線を彼に戻してみると、彼はわたしの座っている机に頭をつけて、顔を隠すかのようにうつぶせになってしまっていて、首筋を見ると、かすかに赤く染まっていた。
「は」
「は?」
「反則だよ、それは」




