櫻井聡也
蝉の声が五月蠅かった。
大きくあけ放たれた窓からは風が流れ込み、ドアを開けた教室内を心地よくしてくれていた。本来なら閉めきるはずの教室のドアは教師の粋な計らいで、片方だけ開けられており、中庭に続いている廊下向かいの窓も開けられていることもあって風が跳ね返ることもなく教室の中を堂々と通っていくようだった。
三十人前後の生徒が集いながらもクーラーが付かない学校の教室で、この涼しさは真面目に授業を受けようとする学生にはこれ以上ない贈り物ともいえる。
そんな教室の中央あたり、教師の視線がこれでもかと当たる机に座る少年が居た。
彼の机の上には模範のようにノートや筆記類が並べられていて、教師が言うテストに出る要素をノートに書き写していっているようだった。
日本人らしい黒髪に、整った容姿の彼が暑さにやられたのか、けだるそうに片手で頭を支えていると、教室の中でも妙に絵になっていて、どことなく浮いているような気さえする。
ノートだけを見れば彼は真面目に受けているようだった。しかし、彼の視線は度々教室の窓際の席へと注がれていた。
彼の視線を追うと、そこにはアルビノの特徴を持つ少女が座っていた。日の光を受けて白く反射する髪に、透き通るような白い肌。大きな瞳にさがった目じり。微笑むように目を細めているので、どこか穏やかというか、ぼうっとしているような印象も受けることが出来た。学校一番に目立つ彼女――火宮雨と呼ばれる生徒だった。
もちろん、アルビノの特徴を持っている、というだけで彼女自身紫外線に弱いということが無いのは彼自身も重々承知していたのだが、それでも少年にとって彼女はある種心配の種であり、夏という生徒全員が薄着になるという季節に少しやきもきしているということもあった。
当の本人は心配されているなど露知らず、ノートに黒板の文字を書き写しているようだったが。
そんな彼女の机の上には今もなお動き続けているバッテリー型の記録媒体が載っていた。本来なら取り上げられるであろうそれは、彼女が発症している症状が理由で特別に許可されている物だった。
彼女の症状は解りやすくいえば記憶障害。もっとも身近な例を挙げればアルツハイマー型認知症だろうか。と言っても彼女は日常全てを忘れてしまうわけではなく、記憶と今の照合が合致しないというものに近かった。昨日会った人間と今現在会っている人間が同じ特徴を持っていなければ別人と思ってしまう、と言った少し特別な類の症状だった。
入学してきた当初は教師にも散々注意されていたが、こうして半年近く彼女を見ていて彼女が仮病を使っていると思う者は数人を除いていなくなっていた。
地元ではお金持ちで有名な火宮という家柄も関係あったかもしれないが。
「大丈夫か、櫻井」
少年が雨を見たままぼうっとしてしまっていると、教師がそんな風に彼――櫻井聡也に声をかけた。ぼうっとしていたのがばれてしまったのかと思って聡也は慌てて顔を上げるが、教師が心配そうな顔をして自分の方を見ていて、すぐにそれが勘違いだということが分かった。
「ああ、すいません。大丈夫です」
「大丈夫じゃなかったら言うんだぞ。倒れられてしまう方が教師にとっては不都合が多い」
「あはは、気をつけます」
聡也がそう返すと、いぶかしげな表情で教師は板書へと戻っていった。
緊張していたのか。胸をなでおろしそうになって、手を動かさずにため込んだ息をはきだした。
――さすがに授業中くらいは集中するか。
そう思い直した聡也だった。が、しかしそれでも気になるのだろう。視線は徐々に徐々に隙間を見つけては彼女の方へと向いていた。
火宮雨の肌は静脈が透き通って見えるほど白く、それでいて窓際の日の光を受けてキラキラと輝いていた。汗を流していないわけではないはずなのだが、普段から少しぼうっとしているようにも見えてしまう彼女が、汗疹拭わずに座って授業を受けているとどこか涼し気に見えて、夏は暑いと感じている自分がよもやおかしいのではないかと感じるほどだった。
そんな彼女がノートに写していた手を止め、ペンの先を唇につける。自然と彼の視線は彼女の唇に向かった。校則で禁止されているとはいえ、軽く化粧はしているのだろう。これまた光を受けてキラキラと輝いて見えるのは、元々彼女の唇の形が良いからだろうか、それとも彼女が使う化粧品がとても高価な物だからだろうか。聡也には判断が付かなかった。
そんな風に彼女――火宮雨を見ていると、向こうも彼の視線に気が付いたのかこちらを向いて、しばらくじっと見つめてきた。
形の良い眉を寄せ、こちらを向いているのを見ると誰が見ているのかを必死に思い出そうとしているのだろう。
彼女自身、記憶能力は悪くは無い――むしろ、記憶障害を持ってなお日常生活を送れる程度には良い――のだが、これだけの人数が居るのだ。思い出すのも時間がかかる。教師の目を盗みながらも彼が微笑むと、ようやく誰か把握したのだろう、雨は目をぱちくりさせた。
そして、一度黒板の方へ視線を戻したかと思うと、雨は聡也の微笑みに返事をするかのように悪戯っぽく笑った。
雨が授業中、しかも聡也と同じように教師の目を盗みながら返事をしてくれたことに思わず、ときめいてしまう。
――よし、今日はデートに誘おう。
家デートでも彼女の思うままにでも構わない。そうしよう。
聡也は心に難く決め、授業に集中するのだった。




