第四十五話:星銀の炉火、深海を焦がす熱き大動脈
リリィの紡ぎ出した古代の知恵――アビサル・レギオンの腐食を弾く「星銀」の配合、そして水中にあっても敵の防護粘液を焼き尽くす「消えない業火の油」。それらの詳細な製法が羊皮紙へと書き起こされた瞬間から、新興都市へと脱皮しつつあるこの街は、一種の「戦時体制」とも言える猛烈な活気を見せ始めていた。
ユウマの指揮のもと、各部族はそれぞれの得意分野を活かして即座に行動を開始した。
土竜族は鉱山の一角に「特設高炉」を築き上げ、妖花族は大森林の奥地へと分け入って爆炎草の種子と可燃性の特殊樹液を破竹の勢いで採集していく。
すべては、いずれ確実にこの地上へ這い上がってくるであろう「深淵の使徒」とその本隊を、完璧に迎え撃ち、蹂躙するためであった。
「――よし、親方! 火力は十分か!?」
街の地下、あるいは山の斜面を穿って作られた土竜族の広大な鍛冶工房。
ユウマは額に汗を浮かべながら、凄まじい熱気を放つ巨大な炉の前に立っていた。その隣には、リリィが細かく書き分けた「配合比率」の指示書を大切そうに抱え、真剣な眼差しで炉内を見つめるリリィの姿がある。
「おうよ、村長! 火力なら心配いらねえ! 妖狐族の連中が運んできてくれた極上の石炭と、妖花族が提供してくれた『可燃性のふいご薬』があるからな! 炉の中の温度は、いつも俺たちが鉄を叩くときの倍以上、岩石だって一瞬でドロドロに溶ける熱さだぜ!」
土竜族の親方が、上半身裸の頑強な身体を揺らしながら叫ぶ。彼の背後では、数十人もの土竜族の鍛冶職人たちが、火花を散らしながら鉄を打ち鳴らしていた。
「リリィ、次の段階の温度はこれで合っているかい?」
ユウマが尋ねると、リリィはしなやかな指先で指示書の特定の行を指差した。
「うん! 炉の中が綺麗な『琥珀色』になったら、まずは重鉄を完全に溶かして、その後に星銀砂を三回に分けて投入するのぉ。一気に淹れちゃうと、星銀の持つ天体の残光が熱に負けて霧散しちゃうから、ゆっくり、大地の魔力と調和させるように混ぜなきゃダメなんだよぉ」
魔法を使えない彼女だが、その観察眼と知識の正確さは、並の魔導士を遥かに凌駕していた。リリィの指示通りに、親方が慎重に銀色に煌めく砂を炉へと投入していく。
すると、ドロドロに溶けた漆黒の重鉄が、徐々に神秘的な青銀色の輝きを帯び始め、工房全体にパチパチと清浄な魔力の火花が弾けた。
「す、すげえ……! 鉄が、まるで生き物みたいに光を放っていやがる……。おいお前ら、これが『星銀の鋼』だ! 一滴たりとも無駄にするなよ! 守備隊の槍の穂先と、ティオ様の特製大盾の補強板に仕上げるんだ!」
職人たちの歓声が、地下の工房に地鳴りのように響き渡った。
一方、街の北側の広大な作業場では、もう一つの要である「業火の油」の調合が行われていた。
こちらの責任者はルネ、そして実地でのテストを担当するのはティオとララである。
「……妖花族の長が持ってきてくれた樹液、これで三分の一、投入完了ですぅ」
ルネは大きな調合大釜の縁に立ち、長い柄杓を小さな手で器用に操りながら、どろりとした緑色の液体をかき混ぜていた。彼女のオッドアイの瞳は、大釜の中で起きている化学反応――魔力ではない、純粋な物質同士の結合による熱量の高まりを精密に捉えている。
温泉から数日が経ち、彼女のまとう独特の透明感はさらに増していたが、その作業中の佇まいは、熟練の錬金術師のそれであった。
「ルネさん、その油の危険性はどれほどのものですか?」
ティオが、普段の鎧姿から少し軽装になった防衛隊の訓練服をまとい、心配そうに尋ねる。お湯で癒やされた彼女の肌は、健康的な小麦色の輝きを放っており、軽装ゆえにそのしなやかで力強い四肢のラインが美しく際立っていた。
「……触るだけで、骨まで焼けるですぅ。……水で消そうとすると、逆に水の酸素を喰って燃え広がる、まさに『悪魔の油』ですぅ。……リリィさん、幽閉中にこんなの作って遊んでたなんて、やっぱりあの人もなかなかのドスケベ(陰湿)ですぅ」
「あはは、リリィさんはただ、退屈だっただけだと思うよ」
ティオは苦笑いしながらも、完成した油が詰められていく頑丈な陶器の瓶を見つめた。
「ですが、これほどのものがあれば、アビサル・レギオンの軍勢がどれほどの密度で押し寄せてこようとも、一網打尽にできます。ララさん、海岸の防壁にこれを配備する手筈は?」
「ええ、すでに万全ですわ、ティオさん」
ララが影の中から滑り出すように現れた。
彼女はミッドナイトブルーの長い髪をハーフアップにまとめ、戦闘用の動きやすい濃紺の衣装に身を包んでいる。目元を覆うヴェール越しでも、彼女が内に秘めた戦意と、この街の仲間たちへの深い信頼が伝わってきた。
「土竜族の皆様が作ってくださった高台の防壁に、この油瓶を大量に貯蔵いたしましたわ。奴らが罠の流砂と魔藻に足を取られた瞬間、上空からこの油を浴びせ、一火を放つ。……想像するだけで、深海の亡者どもがどのような悲鳴を上げるか、今から楽しみですわね。うふふ……」
ララの艶やかな笑みには、かつて故郷を奪われた凄絶な過去を持つ者ならではの、冷徹なまでの決意が宿っていた。だが、その視線が、工房の入り口から歩いてくるユウマの姿を捉えた瞬間、彼女の雰囲気は一変して「愛しい人を迎える女性」のそれへと柔らかく蕩けた。
「――ユウマ様、高炉の方の進捗はいかがかしら?」
「ララ、ティオ、ルネ。こっちも最高の結果が出たよ」
ユウマは、土竜族の職人が打ち上げたばかりの、青銀色に妖しく光る一本の槍の穂先を掲げてみせた。
「リリィの言う通りだった。この星銀の鋼は、試しにアビサル・レギオンの残骸から採取したあの腐食の粘液に浸しても、錆びるどころか、その粘液の魔力を完全に弾き返したんだ。これなら守備隊の武器が戦いの中で破壊される心配はない」
「素晴らしいです、ユウマさん! これで私たちの『矛と盾』は、名実ともに奴らを上回りました!」
ティオが嬉しそうに拳を握りしめる。
「……あとは、奴らがいつ、どこから上がってくるか、ですぅ」
ルネが大釜から飛び降り、ユウマの腰のあたりに自然な動作で身体を寄せた。
「……私の魔力索敵網は、すでに海岸線から沖合数マイルの海底まで広げているですぅ。大地の底、海の底の『異質な魔力のうねり』が大きくなった瞬間、すぐに全員に伝えるですぅ」
「頼むよ、ルネ。……ララ、君の故郷を滅ぼした連中は、決して生易しい相手じゃない。だけど、この地上には、君を支えるこれだけの仲間と、リリィが命がけで残してくれた知恵がある。今度は、絶対に負けない」
ユウマがララの細い肩に手を置き、真っ直ぐにそのヴェールの奥の瞳を見つめると、ララは一瞬だけ驚いたように身体を硬くし、それから、しっとりと濡れたような吐息を漏らしながら、ユウマの胸にその身を預けた。
「ええ……ええ、ユウマ様。わたくし、もう何も恐れてはおりませんわ。あなた様が共にいてくださるこの地上こそが、わたくしの新しい『世界』。我が二振りの残響、すべてをあなた様に捧げます」
その光景を見ていたリリィが、工房の奥から「あーっ! ララちゃん、ずるいぞぉ! リリィだってユウマさまに抱きつきたいのにぃ!」と、両手に煤をつけたままぷんぷんと怒りながら走ってくる。
ティオは赤くなりながらも微笑み、ルネはユウマの服の裾をぎゅっと握りしめていた。
迫り来る深海の絶望。しかし、この地下工房を優しく包む灯火と、少女たちの確固たる絆、そしてリリィの紡いだ不屈の知識がある限り、彼らの心が折れることは決してない。
最強の武具と、消えない業火を携えた街の守護者たちは、今か今かと、その運命の決戦の瞬間を待ち構えるのであった。
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