第四十話:星詠みの記憶、深海に眠る「深淵の異形」
海岸での激闘を終え、ユウマたちは夜闇に包まれた里へと帰還した。
急な敵襲に怯えていた里人たちも、村長であるユウマの「敵は完全に撃退した」という宣言と、怪我人一人なく戻ってきた彼らの姿を見て、安堵の息を漏らしていた。避難を解かれた人々がそれぞれの家に帰り、里が再び静かな夜の静寂を取り戻していく。
ユウマの自宅の居間では、暖炉の薪がパチパチと爆ぜ、温かな橙色の光が室内を照らしていた。
戦いの緊張から解放された少女たちは、それぞれお気に入りの場所に腰を下ろしている。
ティオは自慢の大盾を壁に立て掛け、温かいハーブティーを両手で包み込むようにして、ほっと一息ついていた。ルネはソファの端で、まだ少し興奮が残っているのか、オッドアイの目をパチパチとさせながら、ララが淹れてくれたお茶を口に運んでいる。
そのララはといえば、戦闘で乱れた薄衣を着替え、ミッドナイトブルーの長い髪をほどいた姿で、ユウマの斜め後ろにそっと寄り添っていた。
「……ユウマ様、お疲れではございませんか? お体、どこも痛むところは……」
ララは青いヴェール越しに潤んだ視線を向けながら、しっとりとした手つきでユウマの肩に手を置き、揉み解すように力を込める。彼女が少し身を乗り出すたびに、豊かな胸の重みがユウマの背中に伝わり、先ほどまでの戦場の殺伐とした空気が、一気に妖艶な甘さへと塗り替えられていく。
「ありがとう、ララ。僕は大丈夫だよ。……それより、リリィ、さっきからずっと黙っているけど、どうかしたかい?」
ユウマの視線の先、食卓の椅子に座ったリリィは、いつもと違って深く考え込むようにして、自分の杯を見つめていた。
普段なら「終わった終わったぁ!」と真っ先に大騒ぎして、ユウマに甘えてくるはずの彼女が、眉をひそめて何かを必死に思い出そうとしている。その豊かな胸元が、思考の深さに合わせてゆっくりと上下していた。
「……うん。あのね、ユウマさま。リリィ、さっきの戦いの最中から、ずーっと考えてたの。あの真っ黒な甲殻を持ったお魚さんみたいな怪物たち……リリィ、絶対に前にお目にかかったことがあるなぁって」
「え? リリィさん、あいつらを見たことがあるんですか!?」
ティオが驚いて身を乗り出した。
「ううん、本物を見たわけじゃないよぉ。……リリィが、あの場所にいた時に、古い古い革の巻物で読んだの。ほら、ユウマさまと最初に出会った時に、リリィが話したでしょぉ?」
リリィの言葉に、ユウマはハッとした。
彼女がかつていた場所――それは、大森林の奥深くにある古代ハイエルフの遺跡「星詠みの塔」。
リリィはハーフエルフであることを理由に、純血を重んじる長老たちから冷遇され、その塔の管理という、実質的な窓際族の役職を押し付けられていた。しかし、彼女は持ち前の知的好奇心とガッツで、塔の書庫に眠る、誰も読もうとしない膨大な古代文書や遺物を独学で読み解いていたのだ。
その過程で、彼女は長老たちが「触れてはならない禁書」と指定していた、世界の真実が書かれた巻物を発見してしまった。
そこに記されていたのは、まさにユウマの存在を予言するかのような【異界から来たる『主』が、未開の僻地に降臨し、世界の在り方を根本から変える】という記述。
それを知った長老たちによって、彼女は「穢れの拡大」「危険思想の流布」という理不尽な罪を着せられ、あの忘れ去られた古代の牢屋遺跡へと幽閉された。ユウマが彼女を助け出すまでの数十年もの間、彼女はたった一人で、孤独な幽閉生活に耐えていたのだ。
「星詠みの塔の、禁書に書かれていたのか?」
ユウマが真剣な表情で尋ねると、リリィはゆっくりと頷き、カップのハーブティーを一口すする。そして、遠い過去を遡るように、静かに語り始めた。
「あの塔の最深部にはね、普通のハイエルフが近づくことも許されない、真っ黒な石でできた書庫があったの。長老たちは『呪われた歴史』って呼んでたけど、リリィは退屈だったし、ハーフエルフだからってイジメられるのが悔しくて、こっそり忍び込んで片っ端から読んじゃったんだぁ。……その中の一本に、この世界の『最初の海』について書かれた巻物があったのぉ」
リリィの瞳に、かつて暗い書庫で魔導書の光を頼りに文字を追っていた頃の記憶が蘇る。
「まだ地上に人間や獣人、エルフがまともに繁栄するよりも前……神話の時代よりさらに昔、この世界には地上の光を拒み、ただ深淵の闇を広げるためだけに生まれた種族がいたんだって。巻物には『アビサル・レギオン――深淵の軍勢』って書かれていたよぉ」
「深淵の軍勢……」
ユウマがその言葉を繰り返す。
「彼らはね、世界の底にある底、光が絶対に届かない魔力の吹き溜まりから生まれたの。その目的はただ一つ、地上のあらゆる命を黒い水の中に引きずり込んで、世界を冷たい死の海で満たすこと。……その姿は、全身が夜のように黒い甲殻に覆われていて、触れるものすべてを腐らせる霧を纏う、半人半魚の異形……まさに、さっき海岸にいたあいつらの特徴と、ぴったり一致するんだよぉ」
その話を聞いていたララが、肩を微かに震わせ、枕元に置いた二振りの刀「残響」を、愛おしむように、そして呪うように強く抱きしめた。
「……ララちゃん。……彼らは、お姉さんの故郷を滅ぼした連中と同じなのですわね?」
「ええ……。間違いありませんわ、リリィさん」
ララの声音から、いつもの妖艶な余裕が消え、底知れぬ氷のような冷たさが混ざる。
「わたくしたち深海族は、あの光の届かぬ海底で、何世代にもわたって彼らと戦い続けてきましたの。地上の皆様が『海は青く、美しいもの』と笑っていられるのは、わたくしたちが、あの底無しの闇を、底無しの裂け目に押し留めていたから。……でも、奴らの繁殖力と浸食は、わたくしたちの想像を超えていましたわ。……国が呑まれ、同胞が屍となり……そして、生き残ったわたくしを追って、奴らはついに、この地上の光の下にまで這い上がってきたのですわね」
ララはヴェールで隠された顔をユウマへと向け、申し訳なさそうに唇を噛んだ。
「ユウマ様……。わたくし、あなた様を、この温かな里を、とんでもない災厄に巻き込んでしまったのかもしれませんわ……」
「そんな顔をするな、ララ」
ユウマはララの手を優しく握り、安心させるように微笑んだ。
「さっきの戦いを見たろ? 奴らは確かに強いし、気味の悪い魔力を持っていた。でも、地上での戦い方は驚くほど下手だった。リリィの文献の通り、奴らが『深海の住人』であるなら、重力があり、足元が崩れる地上の戦場は、奴らにとって最も戦いにくい場所なんだ」
「……そうですぅ」
ルネがソファから立ち上がり、ユウマの反対側の腕にそっと身を寄せた。彼女の大きなおっぱいが、ユウマの二の腕に**むにゅっ**と押し当てられる。
「……私の索敵があれば、次は水中からの接近だって、海水の魔力の乱れを計算して、もっと早く見つけられるですぅ。……次からは、絶対に後手に回ったりしないですぅ」
「ルネさん……」
ララはルネの言葉に、救われたような表情を浮かべた。
「それに、私の大盾は、奴らのどんな呪われた槍だろうと、一本だって後ろには通しません!」
ティオが力強く拳を握りしめる。彼女の胸元が、その気合いに合わせて力強く揺れた。
「……みんなぁ。……もう一つ、リリィが思い出したことがあるのぉ」
リリィが真剣な表情のまま、巻物の「続き」について口を開いた。
「その禁断の巻物にはね、アビサル・レギオンを率いる『将』の存在についても書かれていたの。奴らは個々の力も強いけど、上位の意思を持つ『深淵の使徒』って呼ばれる存在に操られているんだって。……もし、さっきの軍勢がただの先遣隊だとしたら、これからもっと大きな、地上の光を完全に覆い尽くすような本隊が、その『使徒』と一緒に上がってくる可能性があるんだよぉ」
「深淵の使徒……」
ユウマは腕を組み、暖炉の炎を見つめた。
狼男族を退け、里を拡張し、多種族の共生を成し遂げた今、次に立ちはだかるのは、世界の根底から湧き上がる神話の時代の遺物。
「……面白いじゃないか」
ユウマの口元に、不敵な笑みが浮かんだ。
「奴らが深海の王だろうが、神話の怪物だろうが、関係ない。この里は、行き場を失った者たちが、自らの手で築き上げた最後の砦だ。……土竜族の頑丈な石工、妖狐族の繊細な知恵、妖花族の命の魔力、そして僕たちの盾と刃がある。奴らが這い上がってくるというなら、その醜い頭を、この地上の重力で叩き潰して海へ送り返してやるだけさ」
ユウマの力強い言葉に、部屋の中の空気が一気に跳ね上がった。
「……うふふ。やはり、ユウマ様は素敵ですわね」
ララは再びいつもの妖艶な笑みを取り戻し、ユウマの頬に、自身の柔らかい髪を這わせるようにして耳元で囁いた。
「わたくしのこの『残響』、あなた様が指し示すなら、深淵の使徒の首であっても、喜んで切り落として差し上げますわね」
「リリィも、星詠みの塔で得た知識、ぜーんぶユウマさまのために使っちゃうんだからぁ!」
「……私も、ユウマさまの目として、闇の底まで見通すですぅ」
「はい! 私も、皆さんのための不落の壁になります!」
リリィの古い記憶がもたらした、敵の正体。それは大いなる脅威ではあったが、同時に、ユウマたちの絆をより強固なものへと結びつけるための「試練」に過ぎなかった。
外では、嵐の後の静かな夜風が里を通り抜けていく。
深海より迫る不気味な影を迎え撃つため、ユウマと四人の少女たちは、次なる戦いへの決意を胸に、静かに、しかし熱く、作戦を練り始めるのだった。
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