第三十八話:潮騒の狂詩曲、孤高の刃と不屈の盾
西の海岸へ続く断崖の小道は、もはや静寂の場所ではなかった。
闇に包まれた街道を、ユウマたちは喉が焼けるほどの速度で駆け抜けていた。ティオの大盾が揺れる重い音、リリィの槍の石突が地面を叩く音、そしてルネの背中の羽根が風を切る鋭い音が、緊迫した夜の空気に混ざり合う。
海岸線が近づくにつれ、波の音とは明らかに異なる「異質な音」が地響きとなって伝わってきた。
金属が激しく噛み合う高音、水が爆ぜるような不気味な破裂音。そして、冷たく凍りつくような、どす黒い魔力の咆哮。
「……見えたですぅ! あそこ、入り江の真ん中、ララさんが戦ってるですぅ!」
ルネが断崖の縁から身を乗り出し、オッドアイの視線を海岸へと固定した。
ユウマたちが足を止め、崖下を見下ろした瞬間、そのあまりに壮絶で異様な光景に、一瞬だけ全員の身体が凍りついた。
月明かりに照らされた海岸は、地獄の絵図と化していた。
海中から次々と這い上がってくるのは、およそ地上の生物とはかけ離れた形状を持つ「暗黒の異形」たちだった。半魚人のような四肢を持ちながら、その全身は漆黒の甲殻と不気味に発光する粘液に覆われている。彼らが手にする三叉槍や錆びついた大剣からは、触れるもの全てを腐食させるような黒い霧が立ち上っていた。その数は数十、いや、背後の海面が黒く蠢いているのを見る限り、百を優に超えている。
その絶望的な大軍勢の真っただ中で、ただ一人、ミッドナイトブルーの髪を激しくなびかせながら、嵐のように踊る影があった。
ララだった。
「――はぁぁぁっ!!」
彼女の鋭い裂帛の気合いと共に、二振りの刀「残響」が夜の闇に鮮烈な青い軌跡を描いた。
目元を覆う青いヴェールは潮風に激しく揺れているが、彼女の動きには寸分の迷いもない。鋭く研ぎ澄まされた五感――「心眼」によって、全方位から迫り来る敵の刃を、紙一重の踏み込みと身体の捻りだけで全て見切っていた。
**キィィィン!!**
一体の異形が振り下ろした大剣の腹を、ララは右手の刀で受け流し、その勢いのまま左手の刀で敵の甲殻の隙間――首筋を正確に一文字に切り裂いた。間髪入れずに、背後から突き出された三本の槍。彼女はしなやかな腰を極限まで曲げてそれを回避すると、独楽のように反転しながら波の残響に似た風切り音を響かせ、一瞬にして三体の首を撥ね飛ばした。
その戦闘スタイルは、まさに「純粋な剣士」。
深海族でありながら、魔法による防御や癒やしを一切持たない彼女は、敵の攻撃をただの一撃も受けるわけにはいかない。一度でもその鋭い爪や呪われた刃に捉えられれば、薄衣一枚の細い身体は容易に引き裂かれてしまうだろう。
「……フフ、まだ来ますのね。我が故郷を滅ぼした、貪欲なる亡者ども……!」
ララは妖艶に微笑んでみせるが、その額には大粒の汗が滲み、スリットの深い濃紺の薄衣は、返り血と激しい運動によって肌に張り付いていた。どれほど天才的な技巧を持っていようとも、一人でこれだけの数を相手にすれば、体力が底を突くのは時間の問題だった。
敵の包囲網がさらに狭まる。
ララの呼吸がわずかに乱れたその瞬間、死角である頭上から、巨大な触手を持った上位個体の異形が、質量を伴った一撃を振り下ろそうと飛び降りてきた。
「しまっ――」
知覚はしていても、体勢の立て直しが間に合わない。ララが迎撃のために刀を交差させた、その時。
「――そこを退きなさいっ!!」
夜空を切り裂くような力強い少女の叫び声と共に、崖の上から一筋の銀光が猛烈な速度で落下してきた。
**ドォォォォォン!!!**
激しい金属音と地響きが海岸に炸裂した。
ララの頭上に迫っていた巨体が、突如として現れた「銀色の壁」に激突し、凄まじい衝撃波と共に遥か後方へと弾き飛ばされた。
舞い上がる砂煙の中、ララの目の前に毅然と立ちはだかったのは、自身の身の丈を超える巨大な盾を地面に突き立てたティオだった。
「……あら?」
ララはヴェール越しに、その背中に向け、驚きに唇を開いた。
「ララさん! 一人で全部背負い込もうなんて、水臭いです!」
ティオは盾の裏で低く身を構え、赤い瞳を爛々と輝かせながら、迫り来る第二波の攻撃を完全に弾き返した。
「ティオさん……? どうしてここに……。これはわたくしの過去の因縁、地上の方々を巻き込むわけには……」
「何をおっしゃっているんですか!」
ティオは一歩も引かず、さらに敵の槍を盾の表面で滑らせ、体勢を崩した敵の胸元に強烈なシールドバッシュを叩き込んだ。
「ララさんはもう、私たちの仲間です! ユウマさんが作った、あの温かい里の家族なんです! 家族の危機に、盾を引く騎士がどこにいますか!」
その言葉と同時に、崖上からユウマとリリィ、そしてルネが飛び降りてきた。
「ララ! 契約違反だぞ! 僕の許可なく、一人で特攻するなんてな!」
ユウマは腰の短剣を抜き払い、ルネの索敵指示を受けながら、ティオのカバーに入った。
「ユウマ様……リリィさん、ルネさんまで……」
ララの声が、微かに震える。
「ララちゃん、お説教は後だよぉ! 今はこの気持ち悪い連中を、全員海へ叩き返してあげるんだからぁ!」
リリィが槍をしならせ、突っ込んできた半魚人の喉笛を正確に貫いた。
「……私の索敵を邪魔したツケ、きっちり払わせるですぅ!」
ルネが闇の中に身を潜め、死角から敵の影を縫い付け、動きを止めていく。
ユウマたちの参戦によって、戦況は一変した。
ティオという「絶対的な盾」が前線に固定されたことで、ララは防御の一切を完全に捨て、己のすべての資質を「攻撃」へと昇華させることが可能となったのだ。
「……フフ、うふふふ……! そう、ですわね。わたくしはもう、孤独な亡者ではありませんのね」
ララの放つ気配が、一瞬にして変わった。
それは、周囲の温度を急激に下げるような、圧倒的な「純黒の殺意」と「歓喜」。
「残響、応えなさい。――ユウマ様の敵を、一匹残らず切り刻みますわよ?」
**キィィィィン――!!**
二振りの青い刀が、耳を劈くような高音を響かせた。
ララは地を蹴ると、もはや目視不可能なほどの速度で異形の群れへと突頭した。
ティオが正面からの大剣の一撃を受け止める。その一瞬の隙に、ララが影のように敵の懐へ滑り込み、二振りの刀を交差させて一閃。
**ザシュゥッ!**
傷を負わせないために振るう刃。ティオの守護とララの技巧が完璧に噛み合った瞬間、漆黒の軍勢は文字通り「肉の塊」へと変えられていった。
しかし、敵の真の恐怖はここからだった。
倒しても、倒しても、暗い海面が不気味に泡立ち、さらに巨大な、そして悍ましい魔力を纏った「本隊」が、ゆっくりと地上へとその姿を現し始めていた――。
激化する戦場、鳴り止まない潮騒の残響。
ユウマたちの前に立ちはだかる、深海からの真の絶望とは一体何なのか。里の命運を賭けた、壮絶なる防衛戦の幕が、今本格的に切って落とされた。
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