第十九話:嵐の前の静寂と、重なる鼓動
決戦の気配は、刻一刻と色濃くなっていた。
盆地を囲む森のざわめきが、昨日までとは明らかに違う。風に乗って流れてくる獣の臭いは、もはや隠しきれないほどに鋭く、攻撃的なものへと変わっていた。
村の裏手の断崖を見下ろす高い木の上。ルネは太い枝に腰掛け、森の奥をじっと見つめていた。
彼女の背中には、普段は重厚なマントのように折り畳まれている漆黒の羽根がある。ルネはふぅ、と小さく息を吐くと、その羽根をわずかに広げ、ふわりと宙に浮いた。
「……あぅ。……まだ、これくらいしか飛べないですぅ。でも、前よりは楽になったですぅ」
全力で羽ばたけば、短時間なら鳥のように高く舞い上がることもできるようになったが、ルネはあえて低空で、静かに滑空するように森の境界線をなぞる。吸血鬼としての本能が、闇の中に潜む「不浄な殺気」を的確に拾い上げていた。
「……向こう側の谷間に、昨日の倍以上の影がいるですぅ。……あいつら、大きな丸太を運んでる……。あれで、ティオさんの盾を突き破るつもり……?」
ルネは影から影へと音もなく移動し、敵の動きを脳内に刻んでいく。そのオッドアイは、森を侵食しつつある「濁った赤」の奔流を、冷徹に見据えていた。
村の中では、リリィが猫娘族の女性たちを集めていた。
「いいかなぁ? この草の汁を、布にたっぷり染み込ませておくんだよぉ。狼さんたちが来たら、入り口の火にこれを投げ入れるのぉ。とっても鼻がツーンとして、みんな涙目になっちゃうからぁ!」
リリィは自ら袖をまくり上げ、慣れた手つきで薬草を調合していく。彼女は村の倉庫をくまなく回り、矢の数や食料の備蓄を点検し、同時に村人たちの不安を取り除くように明るく声をかけ続けていた。
「リリィさん、本当に私たちで守れるのかしら……」
不安げな老婆の手を、リリィは優しく握る。
「大丈夫だよぉ。あんなワンちゃんたち、みんなで力を合わせれば怖くないんだからぁ。ユウマさまたちを信じてぇ!」
そして広場では、最も過酷な訓練が続いていた。
ユウマは広場の中央に立ち、集まった猫娘族の守備隊たちに鋭い指示を飛ばす。
「いいか! 左右の連動を乱すな! ティオが正面ですべての衝撃を受け止める。君たちは、彼女が弾き飛ばし、姿勢を崩した敵だけを確実に仕留めるんだ。一歩でもティオより前に出るな! それは彼女の盾の邪魔になるだけだ!」
ユウマは戦況を俯瞰し、誰がどこで動くべきかを見抜く役割に徹していた。
その中心にいるのは、身の丈を超える大盾を構えたティオだ。
**ドォンッ!!**
村の屈強な戦士数人が、丸太を模した巨大な木材を抱えてティオに突っ込む。衝撃で地面が揺れ、土煙が舞う。だが、ティオは膝一つ折らず、そのすべてを盾の一面で押し返した。
「……はぁっ、ですっ!」
ティオは鋭い踏み込みで、数人がかりの圧力を逆に跳ね飛ばす。
ユウマはそれを見て、戦士たちに叫んだ。
「今だ! 突け!」
体勢を崩した戦士役の男たちに、控えの守備隊が訓練用の槍を突き出す。ティオが完璧に「無効化」した敵を、周囲が狩り取る。その連携の形が、少しずつだが確実に出来上がってきていた。
「……ティオ、大丈夫か? かなりの連戦だが」
ユウマが歩み寄り、声をかける。ティオには戦いそのものを教える必要はない。彼女の技術は既に完成されており、むしろユウマの方がその無駄のない動きに感心するほどだった。
「はい……。私は、大丈夫です。……私が一歩も引かなければ、誰も怪我をせずに済む。そう思えば、この盾が驚くほど軽く感じるのです。……ユウマさん、私のこと、しっかり見ていてくださいね」
ティオの赤い瞳には、昨日までの迷いはなかった。
かつては疎まれ、避けられるだけの存在だった彼女が、今は誰一人として怪我をさせないという強い意志を持ち、一人で何十人もの命を背負って訓練にあたっている。その孤高の精神が、周囲の戦士たちにも少しずつ伝播しているようだった。
夜になり、空き家には四人が集まった。
訓練と偵察で疲れ果てた体を癒やすように、静かな時間が流れる。
ふと、部屋の隅の扉が開き、水浴びを終えたばかりのティオが入ってきた。
村の裏手の冷たい水で汗を流してきた彼女は、まだ肌に水の冷たさを残しており、ポニーテールを解いた赤髪からは雫が滴っている。彼女は大きめの布で濡れた髪を拭きながら、少しだけ身を縮めて焚き火のそばに座った。
「ふぅ……。冷たかったですが、気持ちよかったです。……あ、ユウマさん、そんなに見られると恥ずかしいです……」
ティオは頬を染め、少しだけ身を窄めた。
「ああ、すまない。髪を下ろしていると、少し雰囲気が変わるなと思って」
ユウマが苦笑いしながら答えると、ティオは照れくさそうに視線を逸らし、タオルでより熱心に髪を拭き始めた。戦場での凛々しい姿とは違う、年相応の少女としての顔がそこにはあった。
「お疲れ様ぁ、ティオちゃん! はい、これ飲んで温まってぇ」
リリィが温かいスープをティオに差し出した。
「ありがとうございます、リリィさん。……美味しいです」
四人で囲む食卓。リリィが用意した素朴なシチューを啜りながら、ルネが今日見てきた光景を話し始めた。
「……狼さんたち、森の入り口まで降りてきてるですぅ。たぶん……明日か、明後日には、全部で襲ってくるですぅ」
ルネの言葉に、部屋の空気が一瞬で引き締まった。
「明日か、明後日か……。いよいよだな」
ユウマは地図を凝視した。緊張感が静かに部屋を満たしていく。
「……ティオ、怖いか?」
ユウマの問いに、ティオはゆっくりと首を振った。濡れた髪を拭く手を止め、彼女は傍らに立てかけられた、自分よりも大きな盾を見つめる。
「いいえ。……私を信じて背中を預けてくれる皆さんがいて、そして、隣にユウマさんたちがいてくれる。……こんなに心強いことはありません。私は、私のすべてを懸けて、この里と皆さんを守り抜きます」
ティオの声は静かだったが、その奥底には、決して折れることのない鋼のような決意が満ちていた。
ユウマは彼女の手の上に、そっと自分の手を重ねた。
「ああ。僕たちも全力で君を支える。……絶対に勝とう」
外の闇は深く、獣たちの咆哮が遠くで不気味に響いている。
だが、この小さな部屋に灯る火は、どんな闇も寄せ付けないほどに明るく、四人の絆を強く照らし出していた。
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