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君の未来に、僕を置く  作者: 瑠璃くちの


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2/2

いつでも、そこにいられるように(後編)


 子供の頃から、正解を選ぶのは得意だった。

 母は厳しい人だった。怒鳴るわけではない。感情的に叱ることも少ない。ただ、いつだって私に「次期社長の息子として相応しい振る舞い」を求めた。成績は良くて当たり前。挨拶はきちんと。人前では堂々と。相手に不快感を与えないこと。河上の子として恥ずかしくないこと。

 父は父で忙しく、家庭にいる時間は長くなかったが、母よりよほどわかりやすかった。求めているものが結果だとはっきりしていたからだ。期待に応えれば、短く認めてくれる。応えられなければ、それだけだった。

 私は早い段階で学んだ。

 感情のままに振る舞うより、相手が何を望んでいるかを見極めて、それに合わせた方がずっと楽だと。

 誰が何を言えば笑うのか。

 どのタイミングで相槌を打てば安心するのか。

 教師に気に入られる返事の仕方。

 親戚に「しっかりした子ね」と言わせる表情。

 友人にとって心地よい距離感。

 そういうものを、私は勉強の問題を解くのと同じように身につけた。

 おかげで、たいがいの場では困らなかった。成績も悪くなかったし、周囲の評判もいい。感じがいい、気が利く、真面目、将来有望。そういう言葉はいくつも聞いた。

 けれど、自分が何を欲しがっているのかは、だんだんわからなくなった。

 望まれるものになることには慣れていた。けれど、自分が望むものをそのまま口にすることには慣れていなかった。欲しいと強く思うほど、それを見せるのはみっともない気がしたし、制御できない衝動は愚かだと、どこかで教え込まれていた。

 だからたぶん、由那を見つけたとき、私はあんなふうに目を離せなくなったのだと思う。

    



 大学の新歓の日だった。

 サークル棟は春の熱気でざわついていて、新入生たちはみんな少し浮き足立っていた。私は三年で、サークルの運営もそれなりに任されていたし、当然のように場を回す側にいた。

 その日も笑っていたし、誰にどう話しかければ場がなごむかも、だいたいわかっていた。

 でも、部室の入口近くで立ち尽くしている小柄な新入生に気づいた瞬間だけ、意識がそちらへ持っていかれた。

 伊井野由那。

 そのときはまだ名前も知らなかった。

 輪に入りたい気持ちはあるくせに、どう動けばいいかわからないという顔をしていた。けれど、所在なさげにしていることを恥じるような苛立ちはなく、ただ静かに、困っていた。誰かが気づかなくても騒がず、でも置いていかれることに慣れきっているわけでもない、あの微妙な表情。

 妙に気になった。

 別に、見た目が誰より華やかだったわけじゃない。むしろ逆で、目立たない方だったと思う。けれど、私はああいう控えめな人間が場の隅で小さく息をしているのを見ると、昔から目で追ってしまうところがあった。

 いや、違う。

 あの時点で、もう少し別の感情だったのかもしれない。

 私は由那に声をかけた。

「立ったままだと疲れますよ。よかったら、こっちどうぞ」

 驚いたように見上げてきた目が、少し大きくて、こちらを警戒しすぎていないことに安心した。強く押せば引いてしまう。けれど、やさしく促せば、ちゃんとこちらへ来る。そういう人だと、その数秒でだいたいわかった。

 だから私は、質問を選んだ。

 学部でも、出身でもなく、好きなものの話から入る。

 個人情報に踏み込みすぎず、それでいて「あなた自身」に興味があるように見える聞き方。

 予想した通り、由那は最初こそぎこちなかったが、好きな映画や音楽の話になると少しだけ声が柔らかくなった。静かな会話劇が好きだとか、大きすぎるライブ会場は少し苦手だとか、そういう断片が、やけに印象に残った。

 私はそれを、その日のうちに忘れないよう頭の中で反芻していた。

 次に話すためだ、とそのときは自分に言い聞かせた。後輩と良い関係を築くためには、相手が何を好むか覚えておくのは当然だ。そういう理屈はいくらでも立てられた。

 でも本当は、その日のうちにもう、由那のことをもっと知りたいと思っていた。

    



 由那は、想像していた通りの子だった。

 大人数の会話は苦手。自分から前に出ることは少ない。誰かの話にかぶせてまで意見を言わない。けれど、人の話を聞いているときの顔がやさしい。女の子の後輩たちが自然と由那のまわりへ集まるのも、すぐにわかった。

 あの子たちはたぶん、由那の前だと無理をしなくて済むのだ。

 私は由那をよく見ていた。

 サークルの誰よりも、というほど露骨ではなかったはずだ。少なくとも、そう見えないようにはしていた。皆に等しく気を配る先輩でいたまま、その中で少しだけ由那へ多く視線を向ける。由那本人が違和感を覚えない程度に。まわりが気づいたとしても、「河上先輩って面倒見いいからね」で済む程度に。

 由那は恋愛に疎い。

 それも、そう長くかからずにわかった。

 誰かがサークル内の恋愛話で盛り上がっていても、由那はその手の話題になると少し居心地悪そうに笑っていた。嫌悪しているわけではない。ただ、自分とは関係のない世界のように聞いている。自分が恋愛の中心に置かれる可能性を、はじめから想定していない顔だった。

 そこまでわかれば、やるべきことは決まっていた。

 告白はしない。

 好きだと悟らせすぎない。

 まずは、いちばん安心できる先輩になる。

 由那のような子は、好意を急に差し出されると戸惑う。しかも、それが恋愛の形をしていればなおさらだ。私は、由那を怖がらせるような失敗をしたくなかった。

 だから順番を整えた。

 飲み会では、由那が黙っている時間が長くなったら、無理に会話の中心へ押し出さない範囲で話題を振る。帰り道が暗いときには、ごく自然に駅まで同行する。差し入れを買うなら、由那が好きそうな甘いものをひとつ混ぜる。疲れていそうな日には、大学の売店で温かい飲み物を買って渡す。

 そのひとつひとつは小さい。

 小さいからこそ、意味がある。

 人は、大きすぎる親切には身構える。

 でも小さな親切は、生活の中に静かに積もる。

 私は、由那の中にそういうものを積み上げたかった。

 それに、由那は思った以上に素直だった。

 してもらったことを忘れない。

 大げさに喜びはしなくても、ちゃんと胸の奥へしまう。

 そういうところが、危ういほど愛しかった。

 大学二年の秋、駅の改札前で、私は由那に言ったことがある。

「伊井野さんって、女の子にはよく懐かれてますよね」

 あれは本心だった。由那は、自分が思う以上に、そばにいる人を安心させる。そのくせ本人は、それを少しも自覚していない。

 私はあのとき、わざと由那を言葉にした。

 由那の長所を、由那自身が気づいていない形で、こちらから差し出した。

 自分の価値をうまく見つけられない人間は、他人に名付けてもらった言葉を大事にする。

 それが呪いにも救いにもなることを、私は知っていた。

 由那は案の定、驚いたように私を見て、それから小さく礼を言った。頬が少し熱を持っているのも、呼吸が浅くなっているのも見えた。

 嬉しかった。

 私の言葉が、ちゃんと届いたのがわかって。

 ああ、この子は、私が与えたものを丁寧に受け取るのだと思った。

 そのときもう、私はほとんど決めていたのかもしれない。

 由那を、長い時間をかけてでも、自分のいちばん近くへ置くと。



    

 卒業の時期が近づくと、私は初めて焦りらしいものを覚えた。

 大学を離れれば、今までのように自然には会えない。由那にとって私は、サークルの優しい先輩の一人として薄まっていくかもしれない。連絡を取り続けたとしても、生活圏が離れれば記憶の濃さは変わる。

 それは困ると思った。

 こんなふうに何かを「困る」と思ったのは、案外はじめてだったかもしれない。必要だから欲しいのではない。失うのが嫌だった。由那が自分のいない場所で別のものを見つけて、自然に私を忘れていくことが、たまらなく嫌だった。

 だから卒業してからも、関係は切らなかった。

 OBとしてサークルへ顔を出すのは、思っていたより簡単だった。社会人になっても大学近くへ行く機会は多少あるし、差し入れを持ってふらりと現れるくらいなら何も不自然ではない。むしろ、面倒見のいい先輩として歓迎された。

 もちろん、由那が参加する日をある程度把握した上で行っていた。

 直接聞けば不自然だから、ほかの後輩に「最近みんな集まりいい?」と軽く探ったり、サークルの連絡グループの流れを見たりする。差し入れを買う店も、由那が以前「好き」と言った焼き菓子の店を混ぜる。わざとらしくならない範囲で。

 個人的な連絡も続けた。

 頻度は慎重に調整した。多すぎれば義務になる。少なすぎれば忘れられる。由那が負担に感じず、それでいて私の存在を生活の隅に置いておける程度。

 返信が遅くても責めない。既読がつかなくても追わない。

 けれど、次に連絡する頃合いは必ず見誤らない。

 由那が好きだと言っていた監督の新作情報を調べたのも、配信ライブの情報を早めに拾っておいたのも、偶然ではない。全部覚えていたし、由那にとって自然に嬉しいと思えるものを選びたかった。

 一度、映画に誘ったことがある。

 あれはかなり考えて選んだ。恋愛色の強い作品は避けた。二人で観に行っても不自然ではなく、なおかつ由那が本当に好みそうな作品。映画館の席も、並んでいても近すぎない場所を取った。終わったあと、話しやすい静かなカフェに流れるところまで最初から決めていた。

 由那は案の定、緊張しながらも嬉しそうだった。感想を話すときに言葉がつかえてしまっても、私は急がせなかった。ああいう時間にこそ、由那は安心を覚える。

 私は由那のそういうところを知っていた。

 知っているから、怖がらせないようにできる。

 怖がらせないから、由那は私を受け入れる。

 その循環を、私は少しずつ自分のものにしていった。



    

 就活の時期が来たとき、私はようやく大きな好機が巡ってきたと思った。

 由那は、きっと就活に向いていない。

 能力がないからではない。むしろ逆だ。自分を売り込む言葉が苦手なだけで、真面目で、気が利いて、他人の感情の動きにも敏感だ。そういう資質は会社の中で生きる。けれど、就活という場面ではむしろ伝わりにくい。

 だから由那が不安定になることは、かなり早い段階から予想できていた。

 問題は、その時期に誰がいちばん近くにいるかだった。

 幸い、由那の家族は穏やかだ。愛されて育っている。だから、誰かに救済を求めて簡単に依存するような危うさはない。そのかわり、少しだけ押しが弱い。自分の不安をうまく人に預けられない。両親の「大丈夫」はやさしいが、由那の不安を細かくほぐす種類のものではない。

 そこに入る余地が、私にはあった。

 私から『最近、就活どうですか』と送ったのは、偶然でも気まぐれでもない。合同説明会の時期や、三年の終わり頃の空気感から、由那がそろそろ一人で抱え込むはずだと読んでいた。返ってきた文章が思ったより長くて、私は内心かなり満たされた。

 ああ、由那はちゃんと私に話すのだ、と。

 会って話そうと提案したのも、当然だった。文章だと残る。対面の方が、由那はもっと素直になる。しかも、私がどう聞けば安心するか、表情や間合いで調整できる。

 カフェで由那の話を聞きながら、私はひどく冷静だった。

 かわいそうだとは思った。つらいだろうとも。

 でも同時に、落ち着いて観察していた。

 由那がどんな言葉で自分を否定するか。

 どんなふうに励ませば、押しつけだと感じないか。

 どこまで言えば泣きそうになり、どこで堪えるか。

 自分のことがあまり好きじゃない、という言葉が出たとき、私は少しだけ息を飲んだ。

 そこまで深く、自分を低く見ていたのかと思った。

 だからこそ、言葉を選んだ。

「伊井野さんが自分で思ってるほど、何もない人じゃないですよ」

 あれは慰めではなく、設計に近い。

 由那の中にある曖昧な自己像に、私の言葉で輪郭を与える。

 由那があとで何度も思い返せるよう、短く、わかりやすく、否定しにくい言い回しで。

 私は昔から、人に合わせるのが上手かった。

 今も同じだ。

 ただ、由那に対してだけは、それが他人に良く見られるための技術ではなく、欲しいものを手元へ引き寄せるための手段になっていた。

 自社の話をしたときも、無論、衝動ではない。

 うちの会社なら、由那を囲いやすい。

 地元で、規模も極端に大きくない。社長である父の意向が、完全ではなくともある程度は通る。私自身も商品企画部にいて、現場経験を積むという名目で社内にそれなりの発言権がある。由那の性格を考えれば、派手な成果を個人で競うような場所より、穏やかに馴染める職場の方が合っているのも事実だった。

 つまり、私にとっても由那にとっても、理にかなっていた。

 私は他社を強く否定しなかった。

 その必要はない。

 由那が不安に思っている要素をやわらかく撫で、その対極に自社を置けばいいだけだ。

 圧の強い面接。

 転勤の多さ。

 営業色の濃さ。

 大人数の中で自分を大きく見せる必要。

 由那が苦手とするものを、私は知っていた。

 知っているからこそ、「由那にはこういう環境の方が合う」と自然に見せられた。

 説明会だけでも、と言ったのは正解だった。

 押しつけるより、由那自身の選択に見える形を残しておく方が、後々まで効く。



    

 父に話を通したとき、最初は案の定あまりいい顔をされなかった。

「私情を挟むな」

 そう言われた。もっともだと思う。私も、建前の上ではそうでなければ困る。

 だから私は、私情ではなく適性の話をした。

 由那の大学での活動。

 人当たりの柔らかさ。

 控えめだが聞き上手で、調整役に向いていること。

 派手な自己主張は苦手でも、丁寧な仕事をするだろうこと。

 父はしばらく黙って聞いていた。

「ずいぶん買っているな」

「使える人材だと思います」

 嘘ではない。私は本当にそう思っていた。

 ただ、それだけではなかっただけだ。

 最終的に父は、あからさまな特別扱いはしないという条件で折れた。私はそれで十分だった。表向き、由那がきちんと選考を受け、落とす理由のない候補として扱われればいい。

 配属に関しても、露骨すぎることは避けた。

 いきなり私の直属に置けば目立つ。

 だから商品企画部の中でも、自然に関われる距離を選んだ。関連チーム、同じフロア、業務上の接点が多い位置。相談に乗るのも、フォローするのも、不自然に見えない範囲。

 私は、急がないことに長けている。

 母に厳しく育てられた年月の中で、望む結果を得るには、感情のまま動くよりずっと、段取りと忍耐が要ると学んできた。今それを、由那のために使っているだけだ。

 そう考えれば、何もおかしくはなかった。

    



 内定の連絡が出る日程は把握していた。

 人事から正式に結果が出る頃合いもわかっていたから、由那からメッセージが来たとき、私はほとんど待っていたようなものだった。

『内定、いただけました』

 その文字を見た瞬間、胸の奥にあったものが一気にほどけた。

 電話をかけたのは、たぶん少し早すぎた。けれど声を聞きたかった。

 由那は泣きそうな声で、礼を言おうとした。

 私はそれを遮った。

 私のおかげだと思わせすぎるのはよくない。

 由那が自分で勝ち取ったと思える形を残す必要がある。

 その方が、由那はこの先、自分を情けなく思わずに会社へ来られるし、私のそばにいることも負担に感じない。

「伊井野さんが頑張ったからですよ」

 あれも、必要な言葉だった。

 そのうえで、お祝いの約束をする。

 甘いものがいいです、と由那が言ったとき、私は思わず笑った。

 やっぱり、と思った。

 由那は疲れたとき、口数が減る。食事を後回しにしがちになる。けれど甘いものなら、少し表情が緩む。大学の頃から何度も見てきた。

 私は、由那のそういう細部を知っている。

 それが嬉しいのか、危ういのか、自分でも時々わからなくなる。

 ただ、他の誰かより知っているという事実に、確かな満足を覚えるのは本当だった。



    

 入社式の日、由那は緊張で少し顔色が悪かった。

 新しいスーツに着られているような、あの所在なさ。けれど、きちんとそこに立とうとしている真面目さ。私は見つけた瞬間に声をかけたくなったが、周囲の目もある。だから短く、「大丈夫ですか」とだけ言った。

 その一言で由那の肩が少し下がるのを見て、十分だと思った。

 研修期間は意識的に距離を取りすぎないようにしつつ、過剰にも関わらないようにした。ここで甘やかしすぎると、自立の邪魔にもなるし、まわりに変な勘ぐりをされる可能性もある。

 だから、廊下で会えば声をかける。

 昼休みに一言メッセージを送る。

 無理しすぎないでくださいね、と。

 ほんの少しでいい。

 由那の生活の中で、私は「いつでも気づいてくれる人」であり続ければいい。

 正式な配属で同じフロアになったとき、由那が目に見えてほっとしたのを、私は見逃さなかった。

「心強いです」

 そう言った由那に、私は笑って返した。

 心強い。

 その言葉は、思っていた以上に甘かった。

 由那はたぶん、自分が誰かをどれほど満たせるか知らない。

 知らないからこそ、残酷だ。

 仕事では、あえてやりすぎなかった。資料の細部を直すのも、会議後に短く褒めるのも、すべて「先輩として自然」に見える範囲に留める。けれど、由那が失敗したときや、落ち込みが表情に出ているときには、少しだけ手を伸ばす。

 由那は、自分を責めるときほど、やさしい言葉より「ちゃんと見ている」という感覚に救われる。

 だから私は何度か、そういう言葉を選んで与えた。

 見てる人は見てますよ。

 ちゃんと頑張ってる人って、自分ではあんまりそう思えないんですよね。

 大丈夫、悪くなかったです。

 それらは全部、由那の心に一番残る形を考えた上で選んでいた。

 慰めではなく、定着する言葉。

 何度も思い返して、次の日も会社へ来られるような言葉。

 ある日、由那が小さなミスをして落ち込んでいた。

 机の前で動けなくなっている後ろ姿を見たとき、私は少しだけ胸が痛んだ。痛んだが、同時に、こういう瞬間こそ私の役目だとも思った。

 近くの洋菓子店で焼き菓子を買って戻るまでの数分、私は由那がまだ席を立たないことを確信していた。責任感が強く、気持ちを切り替えるのが下手で、しかも一度落ち込むと、何か区切りを与えられない限りその場に留まり続ける。そういうところまで、もう私は知っていた。

 紙袋を机の上に置いたとき、由那が泣きそうに顔を歪めたのを覚えている。

 あの表情は、忘れられない。

 誰かが自分の小さな疲れに気づいて、何も責めずに甘いものを置いていく。それがどれだけ由那に効くのか、私はわかっていた。わかっていてやった。

 帰り道も、あえて仕事の失敗を深掘りしなかった。

 人は疲れているときに、正論で励まされても回復しない。少しずれた話題と、最後に短い肯定。それがいちばん効く。

 大学の頃から、私はずっとそうやって由那に合わせてきた。

 合わせる、という言葉では足りないかもしれない。

 由那が息をしやすい空気を、私が先回りして整えてきた。

 その中で由那が少しずつ私を求めるようになるのは、ほとんど当然だった。



    

 会食の帰りの夜、由那が体調を崩したのは偶然だ。

 けれど、偶然に対応する準備はいつだってできていた。

 慣れない場で気を張り続けると由那は疲れる。空腹だと余計に顔色が悪くなる。そういうことを私は知っていたから、駅前で足取りが少し乱れた瞬間、すぐに気づけた。

「大丈夫です」

 由那はそう言った。

 大丈夫じゃないときほど、由那はそう言う。

 私は無理に問い詰めず、ベンチへ連れて行き、温かい飲み物を買ってきた。ああいう場面で大切なのは、心配しすぎて相手を追い詰めないことだ。由那は人に迷惑をかけるのが嫌いだから、過剰に世話を焼かれるとそれだけで萎縮してしまう。

 だから、静かに隣にいた。

 もっと頼ってくれていいんですよ、と言ったのは、半分は計算で、半分は本音だった。

 計算、という言い方は少し違うかもしれない。

 私はただ、ここで何を言えば由那がいちばん救われるか知っていた。

 そして、その救いが私へ向かうことを望んでいた。

 由那の目に涙が滲んだとき、私はひどく満たされた。

 残酷だろうか。

 でも、由那が私の一言でほどけていく瞬間が好きだった。

 好きで、たまらなかった。

 由那が「先輩にいっぱい助けてもらってばっかりで」と言ったとき、私は笑いそうになった。

 そうだ。

 私はずっと助けてきた。

 由那がそう感じるように、そういう場面でそばにいた。

 大学のときからずっと、気にかけてました。

 そう言ったのも事実だ。

 ただ、その言葉の中に由那が思っているよりずっと多くの意味が含まれていることを、由那は知らない。

 好きです、と告げたのは、衝動ではない。

 ここなら由那は怖がらない。

 今なら、自分がどれだけ由那の中で大きくなっているか、ほぼ確信できる。

 大学の頃から積み上げた信頼。

 就活で支えた時間。

 同じ会社、同じ景色、同じ生活のリズム。

 由那はもう、何かあるたびに私を思い出す位置まで来ていた。

 だったら、この一歩は遅すぎるくらいだった。

 由那が「私も、先輩のこと……好きです」と泣きながら言ったとき、胸の奥にあった何かが静かに満ちた。

 声を上げたいほど嬉しいのに、私はたぶん穏やかに笑っていたのだと思う。昔からそうだ。どれだけ感情が揺れても、外側は崩れない。

 でも、そのときばかりは少しだけ、うまく言葉が出なかった。

 ありがとうございます、なんて間の抜けたことを言ってしまったのは、そのせいだ。

 由那が泣き笑いで「お礼、変ですよね」と言ったとき、私は本当に救われた気がした。

 この子は、まだこんなふうに柔らかく笑う。

 私の前で、安心して。

 名前を呼びたくなった。

 由那、と。

 たった二文字なのに、ずっと口にしたかった。

 大学で見つけてから、ずっと。

「由那」

 そう呼んだ瞬間の表情を、私は一生忘れないと思う。

 驚いて、嬉しそうで、少し泣いていて、でも拒まない。

 その顔を見て、ようやく実感した。

 ここまで来るのに、ずいぶん時間がかかった。

 けれど、急がなくてよかった。

 もし大学の頃に告白していたら、由那は困っただろう。

 もし卒業の直後に迫っていたら、たぶん重かった。

 もし就活の最中に恋愛の形を押しつけたら、由那はますます自分を追い詰めたはずだ。

 だから私は待った。

 信頼されること。

 頼られること。

 困ったときに最初に思い出されること。

 そういう順番で、少しずつ私を由那の生活へ根づかせた。

 由那はきっと、自分で私を選んだと思っている。

 それでいい。

 そう思えるようにしてきたのだから。

 閉じ込めたいわけじゃない。

 いや、そう言い切るのは嘘かもしれない。

 ただ私は、由那が傷つかずに息をするなら、私のそばがいちばんいいと本気で思っている。由那はやさしくて、遠慮深くて、自分を後回しにしすぎる。放っておけば、誰かに都合よく使われるか、自分で自分を擦り減らす。

 それなら、私が選んでやりたい。

 私のそばで、安心して、何も失わずに済むように。

 それが支配なのか、保護なのか、私はもう細かく区別していない。

 どちらでもいい。

 由那が笑っていて、私がそのいちばん近くにいられるなら。

「これからも、ちゃんと大事にします」

 あの夜、そう言ったのは誓いのつもりだった。

 由那は泣きながらうなずいた。

 私の言葉を、宝物みたいに受け取った顔で。

 そのとき私は、たしかに幸せだった。

 同時に、静かな確信もあった。

 これから先も、たぶん同じようにしていくのだろう、と。

 由那が疲れているなら、先に気づく。

 不安を抱えるなら、言葉を選ぶ。

 迷うなら、自然に選びやすい道を整える。

 まわりの誰よりも、由那の小さな変化を見逃さない。

 そして由那が、気づけばいつも私を一番近くに置いてしまうように。

 それをずるいとは思わない。

 少なくとも、思えない。

 私は昔から、望まれる正しさの中で生きてきた。

 けれど由那に関してだけは、初めて自分が欲しいと思ったものを、自分の意思で選んだ。

 だったら、もう手放す理由はない。

 駅前の灯りの中で、由那はまだ少し涙の跡を残した顔で私を見ていた。

 私はその頬に触れたい衝動を、ぎりぎりで抑えて、ただハンカチを渡した。

 今はまだ、やさしいままでいい。

 由那が怖がらない形のままで。

 急がなくても、もう由那の未来の中には、ちゃんと私の居場所がある。

 大学に入ったばかりの春、部室の入口で立ち尽くしていた小さな背中を見つけた日から、私はそれをずっと望んでいた。

 ようやくここまで来たのだ。

 だからきっと、この先も同じようにする。

 気づかれないまま、自然に。

 由那がそれを愛だと思う形で。

 由那の未来の中に、少しずつ、確実に、私を置いていく。




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