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君の未来に、僕を置く  作者: 瑠璃くちの


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気づけば、いつもそこにいてくれた(前編)


 大学に入ったばかりの春、私はまだ、自分がこの場所にいていいのかよくわからなかった。

 キャンパスの桜はきれいで、門の前では新歓のチラシが風に揺れていて、同じ学年らしい子たちは楽しそうに笑っていた。そういう明るさの中に自分ひとりだけがうまく溶け込めていない気がして、少し息苦しかった。

 もともと私は、人前でぱっと話せるタイプじゃない。誰かと仲良くなりたい気持ちはあるのに、何を話せばいいのかわからなくなって、結局にこにことうなずいて終わってしまう。中学でも高校でもそれで困ることはなかったけれど、大学の最初の春だけは、みんなが急に大人びて見えて、自分だけが取り残されているような気がした。

 そんなとき、サークル棟の前で受け取った一枚のチラシが、たぶん私の人生を少し変えた。

 映画と音楽をゆるく楽しむサークル。週に一回、集まって好きな作品の話をしたり、たまに映画館へ行ったり、ライブへ行ったりもするらしい。にぎやかすぎず、でも堅すぎない文面に少しだけ惹かれて、私はその日の放課後、見学に行ってみた。

 部室には十人ほどが集まっていて、思ったより空気は穏やかだった。先輩らしい人が何人かいて、新入生もちらほらいる。けれど、やっぱり私は入ってすぐにうまく話の輪に入れなかった。机の上に置かれたお菓子をなんとなく見つめながら、帰ろうかな、と早くも考え始めていたときだった。

「立ったままだと疲れますよ。よかったら、こっちどうぞ」

 そう声をかけてくれたのが、河上先輩――彩人先輩だった。

 そのときの先輩は、サークルの中で特別目立っていたわけじゃない。大きな声で場を回す人でも、誰より派手な人でもなかった。ただ、自然にそこにいて、自然に人に気を配っている人だった。

「すみません……ありがとうございます」

「緊張しますよね、最初って。僕も人見知りだったのでわかります」

 そう言って、先輩は私の前の席を軽く引いてくれた。

 人見知りだった、なんて、その見た目からは少しも想像できなかったけれど、その言い方があまりに柔らかくて、私は少しだけ肩の力を抜いた。

 無理に質問攻めにするでもなく、場に引っ張り込むでもなく、ただ「映画は何が好きなんですか」と聞いてくれる。その距離感がちょうどよくて、私はぽつりぽつりと、自分の好きな作品の名前を口にした。

 邦画が好きなこと。派手なアクションより、静かな会話劇の方が落ち着くこと。ライブも、大きなフェスより小さめのホールの方が好きなこと。

 先輩はそのたびに「へえ」「それ、いいですよね」とうなずいてくれた。全部を知っているわけじゃなくても、知らないものは知らないと正直に言いながら、ちゃんと興味を持って聞いてくれる。そのことが、不思議と嬉しかった。

 帰る頃には、私はそのサークルに入ろうかな、と思っていた。

 決め手が何だったのか、あのときの自分にはうまく言えなかったけれど、今ならたぶんわかる。

 あの日の私は、この人のいる場所なら、少し頑張れるかもしれないと思ったのだ。



    

 それからの大学生活の中で、彩人先輩はいつも少しだけ特別だった。

 特別といっても、露骨に私だけに優しいとか、誰が見てもわかるほど親しいとか、そういうことではない。先輩は基本的に誰にでも感じがよくて、後輩にも優しかったし、先輩たちの間でも信頼されていた。だから、私に向けられる親切も、きっとその延長なのだろうと思っていた。

 でも、私が居心地よく感じていたのは、たぶんそこにほんの少しだけ、私だけに向いた気遣いがあったからだ。

 飲み会で大人数の会話についていけず黙っていると、先輩は唐突にならないように好きな映画の話題を振ってくれた。帰り道が遅くなったときは、「駅まで一緒に行きますか」と自然に声をかけてくれた。提出物が重なって余裕のない顔をしていた日には、「ちゃんと寝てます?」と笑いながら温かい飲み物を差し出してくれた。

 私はそのたびに、うまくお礼も言えず、少し慌てて頭を下げるばかりだった。

 恋愛感情なんて、自分には遠いものだった。オドオドしていて、自分の意見をはっきり言えなくて、何をするにも少し遅い私を、そんなふうに好きになる人なんていないと思っていた。これは卑屈というより、単なる事実の確認みたいなものだった。だから、先輩に対しても「こんな人が彼氏だったら幸せなんだろうな」とは思っても、その隣に自分が立つ想像だけはうまくできなかった。

 ただ、先輩と話している時間は好きだった。

 先輩の隣にいると、ちゃんとしなきゃと焦らなくて済んだ。うまいことを言えなくても、沈黙してしまっても、気まずくならない。黙ってしまったときの私を責めるような空気がない。そのことに、私は何度も救われていた。

 大学二年の秋、サークルの帰りに、たまたま駅まで二人きりになったことがあった。

「伊井野さんって、女の子にはよく懐かれてますよね」

 改札の前でそう言われて、私は驚いて立ち止まった。

「えっ、そうですか?」

「そうですよ。みんな、伊井野さんのとこ行くと安心してる感じする」

「そんなこと……」

「あります。気づいてないんですね」

 先輩は少し笑っていた。

 その笑い方がからかうようではなく、本当にそう思っていると伝わってくるものだったから、私はますます困ってしまった。

「でも、私、全然しっかりしてないし……」

「しっかりしてる人が安心させるとは限らないですよ」

 改札を通る人波の向こうで、発車ベルが鳴る。

 先輩は私の顔を見て、静かに言った。

「伊井野さんは、ちゃんと相手の話を聞くでしょう。自分のことを押しつけないし、無理に明るくしようともしない。それって、けっこうすごいことですよ」

 そんなふうに自分を言葉にしてもらったのは、そのときが初めてだった気がする。

 胸の奥が少しだけ熱くなって、でも何て返せばいいかわからなくて、私はただ「ありがとうございます」と言うしかなかった。

 先輩は、その私の拙い返事にさえ、満足そうに笑ってくれた。



    

 彩人先輩が卒業したとき、私は思った以上に寂しかった。

 もちろん、先輩は先輩で、私はただの後輩だ。卒業すれば会う機会が減るのは当たり前のことだし、それでどうこう言える立場でもない。だから私は卒業式の日も、みんなと同じように「おめでとうございます」と笑って言って、いつも通り先輩を見送った。

 でも、そのあとしばらくは、サークルの部室が少しだけ広くなったような気がした。

 不思議なことに、その寂しさは長く続かなかった。

 先輩は卒業してからも、時々OBとしてサークルに顔を出したからだ。

 差し入れを持ってきてくれたり、活動後の食事に参加したり、たまに映画の話をしにふらりと現れたり。社会人になって忙しいはずなのに、と思いながら、私はそのたびに少し嬉しかった。

 そのうち、個人的な連絡も続くようになった。

 最初は「みんな元気?」とか、「今度サークル行けそうです」みたいな短いやりとりだった。そこに、私が前に好きだと言った監督の新作情報が混ざったり、「この前話してたバンド、今度配信ライブあるみたいですよ」といった話題が加わったりして、だんだんと会話は長くなっていった。

 先輩が私の好みを覚えていてくれることが、私は嬉しかった。

 私自身が、何気なく話したことなんて次の日には忘れてしまうくらいなのに、先輩は何か月も前のことを自然に覚えている。しかも、それを恩着せがましく見せることがない。ただ、「好きでしたよね」とさらりと言うだけだ。そのさりげなさが、いっそう私の胸に残った。

 一度、先輩に映画へ誘われたことがある。

 恋愛映画でも、いわゆるデート向きの華やかな作品でもなく、静かな人間ドラマだった。私が好きそうだから、と先輩はメッセージで言った。本当にそうで、私は少し笑ってしまった。

 映画館を出たあと、近くのカフェで感想を話した。

 私は自分の好きなシーンの話をして、でもうまく言葉にできなくて、途中で何度も詰まった。それでも先輩は急かさずに待ってくれたし、「そこ、僕も好きでした」と同じ温度で返してくれた。

 その日、帰りの電車で窓に映った自分の顔が少しだけ柔らかかったのを覚えている。

 こんなふうに過ごせる相手がいることが、ただ嬉しかった。

 それ以上は考えないようにしていたし、考える必要もないと思っていた。

 先輩は優しい人で、私はその優しさに甘えているだけだと、ずっとそう思っていた。



    

 三年生の終わりが近づくと、まわりは急に就職活動一色になった。

 合同説明会、ES、面接練習。友達の会話の中に知らない言葉が増えていき、スマートフォンの画面には就活サイトからの通知が並ぶ。みんなが迷いながらも前へ進んでいるのに、私だけがいつまでもスタート地点に立てない気がしていた。

 やりたい仕事が、わからなかった。

 小さい頃から特別な夢があったわけではない。好きなことはあるけれど、それを仕事にしたいかと言われると自信がない。人見知りで、初対面の相手と話すだけで緊張してしまうのに、面接で自分の長所をアピールしろなんて言われても、何を話せばいいのかわからなかった。

 両親は優しかった。

「由那なら大丈夫だよ」

「真面目だし、ちゃんとやれるよ」

 そう言ってくれるのは嬉しい。でも、何がどう大丈夫なのかは自分でもわからなくて、その励ましをそのまま信じることができない。兄も相談すれば話は聞いてくれるけれど、仕事が忙しそうで、わざわざ自分の不安を持ち込むのが申し訳なかった。

 気づけば私は、彩人先輩に就活の相談をしていた。

 きっかけは、たぶん本当に何気ないメッセージだったと思う。

『最近、就活どうですか』

 それを見た瞬間、張っていたものが少しだけ緩んで、私は思っていた以上に長い文章を返してしまった。

 やりたいことがないこと。面接が怖いこと。自分みたいな人間を欲しがる会社があるとは思えないこと。送ったあとで、重すぎただろうかと後悔したけれど、先輩からの返信はすぐだった。

『今度、少し話しますか。文章だけだと伝わりにくいこともあるし』

 その一文に、私はひどく救われた。

 待ち合わせたのは、大学近くの静かなカフェだった。先輩は社会人らしいきちんとしたシャツを着ていて、でも大学の頃と同じ柔らかな笑い方で私を迎えてくれた。

「すみません、なんか、暗い話ばっかり……」

「相談ってそういうものでしょう」

 先輩はメニューを閉じながら、穏やかに言った。

「むしろ、ちゃんと話してくれて嬉しいです」

 それから私は、自分でも驚くくらい素直に話した。

 何が不安なのかすらよくわからないこと。まわりと比べてしまうこと。面接で自分のことを語るのが苦痛なこと。落ちたらやっぱりそうだよねと思ってしまいそうなこと。

 先輩は途中で口を挟まずに聞いてくれた。

 うなずいたり、「うん」と短く返したりしながら、私の言葉が途切れるのを待ってくれる。その聞き方があまりに自然で、私は少しずつ、自分でも整理できていなかった気持ちまで口にしていた。

「私、たぶん、自分のことあんまり好きじゃないんだと思います」

 言ってしまってから、胸がひやりとした。

 こんなことを人に言うつもりはなかったのに。

 けれど先輩は驚いたり、困った顔をしたりしなかった。

「そうやって言えるの、けっこう勇気いりますよね」

「……先輩」

「でも、伊井野さんが自分で思ってるほど、何もない人じゃないですよ」

 静かで、でも迷いのない声だった。

「話をちゃんと聞けるし、相手が困らないように考えられるし、自分が前に出るより、全体がうまくいくように動ける。そういう人、社会に出ると意外と少ないです」

 私は黙って先輩の顔を見た。

 そんなふうに言ってくれる人が、私の人生の中に何人いただろう。

 たぶん、ほとんどいなかった。

「向いてる仕事、きっとありますよ」

「でも、そういうのって、面接でうまく言えなくて……」

「だったら、伊井野さんに合う場所を考えましょうか」

 先輩は少し考えてから、自分の会社の話をしてくれた。

 地元の中堅食品メーカー。派手ではないけれど安定していて、長く勤めている人が多いこと。商品企画や開発に関わる部署があって、ひとりで押し切るというより、チームで意見を積み重ねて形にしていく仕事が多いこと。

「伊井野さんって、誰かの気持ちを考えるのが上手いでしょう。そういうの、商品づくりでもけっこう大事なんですよ。使う人がどう感じるかとか、何なら手に取りやすいかとか」

「私に……そんな仕事、できますか」

「できますよ、たぶん。少なくとも、説明会くらいは来てみてもいいと思う」

 先輩は、そこで無理に勧めなかった。

「うちじゃなくてもいいんです。ただ、伊井野さんが安心して働ける場所っていうのは、ちゃんとあると思うから」

 その言葉の最後に、「うちは、けっこう雰囲気いいですよ」と少し笑って付け足したのが、なんだか先輩らしくて、私はやっと小さく笑えた。

 帰り道、ひとりで駅まで歩きながら、私は久しぶりに少しだけ前を向ける気がしていた。

 先輩が言うなら、そういう場所があるのかもしれない。

 そう思えたこと自体が、私には大きかった。



    

 結局私は、先輩の会社を受けた。

 もちろん、それだけではない。いくつかの企業説明会にも行ったし、他の会社にもエントリーした。けれど、面接に進めば進むほど、自分がどこでなら息ができるのか、わからなくなっていった。

 そのたびに彩人先輩は、丁寧に話を聞いてくれた。

 面接のあと、うまく話せなかったと落ち込めば「ちゃんと伝わってる部分もありますよ」と言ってくれた。自己分析で手が止まれば、「伊井野さんの良さは、派手じゃないからこそ書きにくいんですよ」と苦笑しながら、私の話を聞いて言葉を整理してくれた。

 私は、先輩にどれだけ支えられていたんだろう。

 就活中のことを思い返すと、途中からもう、先輩にメッセージを送ることが呼吸みたいになっていた。落ち込んだ日も、不安な日も、うまくいった日も、報告したくなる。先輩から返事が来るだけで、私は少しだけ落ち着けた。

 そして、先輩の会社から内定の連絡が来た日。

 私は一人でそのメールを見て、しばらく何もできなかった。

 嬉しいより先に、ほっとして、力が抜けて、泣きそうになった。自分でも働ける場所があるんだということが、信じられないくらい救いだった。

 一番に報告したかったのは、両親でも兄でもなく、彩人先輩だった。

『内定、いただけました』

 すぐに返ってきた電話に、私は驚いた。

「もしもし、伊井野さん?」

「は、はい」

「おめでとうございます」

 先輩の声が、本当に嬉しそうで、私はそれだけでまた泣きそうになってしまった。

「よかった」

 その一言に、胸の奥がじんわり熱くなる。

「先輩、ありがとうございます。私、先輩がいなかったら、たぶん……」

「それは違います」

 先輩はやわらかく、でもきっぱり言った。

「伊井野さんが頑張ったからですよ」

 そう言われてしまうと、余計に涙が出そうで、私はうまく返事ができなかった。

「今度、お祝いしましょう」

 先輩は少し笑って続けた。

「何か、食べたいものありますか」

 私は泣き笑いみたいな声で、「甘いものがいいです」と答えた。

 その答えに、先輩は「やっぱり」と笑った。

 どうしてそんなことまでわかるんだろうと、そのとき少しだけ不思議に思ったけれど、たぶんそれ以上に嬉しかったのだと思う。



    

 入社式の日、私は緊張で手が冷たくなっていた。

 スーツの襟元が少し苦しい。新しい靴は足にまだなじまない。周囲にはきちんとして見える同期たちがいて、自分だけが場違いに思える。そんな私を見つけて、「大丈夫ですか」と声をかけてくれたのも先輩だった。

 ほんの短い時間だったけれど、それだけで少し安心した。

 研修期間は部署もばらばらで、先輩と接点はそれほど多くなかった。それでも、廊下で会えば「慣れましたか」と聞いてくれるし、たまにお昼にメッセージが届くこともあった。

『無理しすぎないでくださいね』

 その一言があるだけで、私は午後も頑張れた。

 研修が終わり、正式な配属が発表された日、私は自分の目を疑った。

 商品企画部配属。

 しかも、先輩と同じフロアだった。

 嬉しい、と思ってしまった自分に少し驚いた。もう社会人なのだから、先輩に頼ってばかりではだめなのに。それでも、見知った人がいるというだけで、こんなにも心が軽くなるのかと、私は初めて知った。

「同じフロアですね」

 配属後、社内ですれ違ったときに先輩がそう言った。

「心強いです」

 思ったまま言ってしまってから、少し恥ずかしくなる。

 でも先輩は、目を細めて笑った。

「それならよかった」

 その笑顔に、私はまた、どうしようもなく安心してしまう。

 仕事は思っていたより難しかった。

 会議のテンポは速いし、資料づくりには細かさが求められる。先輩たちはみんな忙しく、それぞれのやり方で仕事を進めていく。私はついていくだけで精いっぱいだった。

 それでも、彩人先輩は折に触れて私を助けてくれた。

 作った資料にさりげなく赤を入れてくれたり、会議のあと「さっきの視点、よかったですよ」と声をかけてくれたり。私がうまく言葉にできなかった意見を、会議の場で自然な形に整えて拾ってくれたこともある。

 仕事中はあくまで先輩と後輩として接してくれるから、不自然さは何もない。なのに、私はいつも、先輩だけがちゃんと見てくれているような気がしていた。

 ある日、小さなミスをして落ち込んだことがあった。

 提出前の資料に確認漏れがあり、上司にやんわり注意されたのだ。大きな失敗ではなかった。でも私はそういうことをいつまでも引きずる性格で、定時を過ぎても机の前で気持ちを切り替えられずにいた。

「まだ帰らないんですか」

 声をかけられて顔を上げると、先輩が立っていた。

「あ……もう少しだけ」

「集中切れてる顔してますよ」

 図星で、私は苦笑いしかできなかった。

 先輩は少し黙ってから、「ちょっと待っててください」と言って席を外した。数分後、戻ってきた先輩の手には、小さな紙袋があった。近くの洋菓子店のロゴが見える。

「甘いもの、食べられます?」

「え、でも……」

「今日は頑張ったでしょう」

 そう言って机の上に置かれたのは、小さな焼き菓子だった。可愛らしい包みを見た途端、どうしてだか泣きたくなってしまった。

「……ありがとうございます」

「帰りましょうか。駅まで」

 会社を出たあとの夜風は、少しだけ冷たかった。

 先輩は仕事の愚痴を聞き出すようなことはせず、代わりに今日見た街路樹の色とか、新しく出る限定スイーツの話とか、取り留めのないことばかりを話した。私も、それにぽつぽつと返した。

 駅前まで来たところで、先輩が足を止めた。

「伊井野さん」

「はい」

「ちゃんと頑張ってる人って、自分ではあんまりそう思えないんですよね」

 私は先輩を見上げた。

「でも、見てる人は見てますよ」

 その言葉が、まっすぐ胸に入ってきた。

 先輩は、いつもそうだ。私がいちばん欲しい言葉を、押しつけがましくなく、でもちゃんと届く形でくれる。

 私はうまく笑えなくて、ただ「はい」と答えた。

 帰りの電車の中で、紙袋の中の焼き菓子をそっと撫でながら、私は何度もその言葉を思い返した。

 見てる人は見てる。

 そんなふうに言ってくれる人が、私にはいる。

 それだけで、世界が少しやさしく見えた。



    

 その頃にはもう、私は気づいていたのだと思う。

 彩人先輩が私にとって、ただの先輩ではなくなっていることに。

 大学の頃からずっと、私は先輩の言葉に救われてきた。卒業してからも、就活中も、入社してからも、変わらずそばにいてくれた。大きなことをするわけではなく、でも、私が立ち止まりそうになるたびにちょうどいい距離で手を差し伸べてくれる。

 そんな人を、好きにならない方が難しかったのかもしれない。

 けれど、私はその気持ちに名前をつけるのが怖かった。

 もし勘違いだったらどうしよう。もし先輩にとって私は、放っておけない後輩でしかなかったら。そう考えると、胸の奥が冷たくなる。

 だから私は、何も言わないまま過ごした。

 先輩の優しさを受け取りながら、それ以上を望んではいけないと思っていた。

 そんなある日、部署の会食の帰りに、私は少しだけ体調を崩した。

 お酒を飲んだわけではない。ただ、慣れない場で緊張し続けて、空腹のまま遅くまでいたせいで、駅前に出たところで急に気分が悪くなってしまったのだ。

「顔色、悪いですよ」

 真っ先に気づいたのは先輩だった。

「だ、大丈夫です」

「大丈夫な顔じゃないです」

 言い返す元気もなく、私は小さく息を吐いた。

 先輩は近くのベンチまで私を連れて行き、温かい飲み物を買ってきてくれた。夜風に当たりながら少し落ち着くまで、何も急かさず隣にいてくれる。

「すみません……」

「謝らなくていいです」

「でも、ご迷惑……」

「伊井野さん」

 先輩の声はやわらかいのに、その呼び方だけ少しきっぱりしていて、私は思わず顔を上げた。

「もっと頼ってくれていいんですよ」

 その一言が、胸のいちばん柔らかいところに触れた。

 私はたぶん、ずっとそれを言ってほしかったのだ。

 迷惑じゃないと言ってほしかった。重たいと思われないと知りたかった。こんな私でも、誰かのそばにいていいのだと、誰かに許してほしかった。

 その全部を、先輩はたった一言で包んでしまった。

 気づくと、視界がにじんでいた。

「……先輩」

「うん」

「私、先輩に、いっぱい助けてもらってばっかりで」

「そうですね」

 先輩が少し笑う。

 私は泣きそうな顔のまま、つられて少し笑ってしまった。

「でも、それでいいと思ってます」

 夜の灯りの中で、先輩の横顔はいつもより少しだけ大人びて見えた。

「大学のときからずっと、伊井野さんのこと、気にかけてました」

 心臓が跳ねる。

「後輩だから、だけじゃなくて」

 そこまで聞いて、私はもう、次の言葉を待っていた。

 怖いのに、聞きたい。聞いてしまったら、今までの関係には戻れないかもしれないのに、それでも知りたい。

「好きです」

 先輩は静かに言った。

「ずっと、好きでした」

 頭の中が真っ白になった。

 嬉しい、と最初に思った。驚きより先に、信じられないほどの喜びが込み上げてきた。

 私なんかを、なんて言葉は、その瞬間だけどこかへ消えた。

 だって先輩は、大学の頃から、ずっと私を見ていてくれたのだ。卒業してからも関係を切らずにいてくれた。就活で弱っていたときに支えてくれた。社会人になってからも、私が大丈夫でいられるように、ずっとそばにいてくれた。

 その全部が、ただの優しさじゃなくて、私を想う気持ちの延長だったのだとしたら。

 そんなの、幸せすぎると思った。

「……私、」

 声が震えた。

 先輩は急かさずに待ってくれている。そのことが、また胸を熱くする。

「私も、先輩のこと……好きです」

 言った途端、涙がこぼれた。

 情けないと思うより先に、やっと言えたという安堵の方が大きかった。泣きながら好きだなんて、きっと格好悪い。でも先輩は少し困ったように笑って、「ありがとうございます」と言った。

「お礼、変ですよね」

 私が泣き笑いで言うと、先輩は本当に少しだけ照れた顔をした。

「嬉しくて、うまく言えない」

 そんな顔、初めて見た気がした。

 その瞬間、胸がいっぱいになる。

 ああ、先輩も同じなんだ、と私は思った。

 私だけじゃない。私だけが特別なんじゃなくて、先輩にとってもこの瞬間は特別なんだ。

「由那」

 唐突に名前で呼ばれて、私は目を見開いた。

 先輩――もう先輩と呼ぶのが正しいのかもわからない人は、少しだけためらってから続けた。

「名前で呼んでも、いいですか」

 私は何度もうなずいた。

 そのうなずきに安心したように、彩人さんは、今度は少しだけ近くで私を見た。

「由那」

 たったそれだけで、どうしようもなく幸せだった。

 大学に入ったばかりの春、あの部室で声をかけられた日のことを思い出す。

 あの日の私は、自分がこの場所にいていいのかもわからなくて、人の輪の中に立つことすら怖かった。

 そんな私に、彩人さんは何度も何度も、大丈夫だよと言ってくれた。

 派手な言葉じゃなくて、毎日の中の小さな優しさで。

 押しつけるのではなく、私が自分で息を整えられるように。

 いつだって少し先で待っていて、手を伸ばせば届く場所にいてくれた。

 私は、こんなに愛されていたんだ。

 そのことが、遅すぎるくらい今さらになって胸に満ちていく。

 こんな私でも、誰かに大切にされることがある。

 ちゃんと見て、覚えて、想ってくれる人がいる。

 そんなふうに思える日が来るなんて、前の私には想像もできなかった。

 彩人さんは、泣き続ける私を見て困ったように笑い、それからそっとハンカチを差し出してくれた。

「そんなに泣きます?」

「……だって、嬉しくて」

「僕も嬉しいです」

 その言葉にまた泣きそうになって、私は慌ててハンカチを目元に押し当てた。

 夜の駅前は人通りが多いのに、そこだけ少し静かな場所みたいだった。

 世界は何も変わっていないはずなのに、明日から見える色が少し違ってしまいそうなくらい、胸が満たされている。

「由那」

「はい」

「これからも、ちゃんと大事にします」

 私はその言葉に、また泣きそうになりながら、今度はしっかりとうなずいた。

 ちゃんと大事にします。

 そんなふうに言われたことが、今まであっただろうか。

 たぶん、なかった。

 だから私は、その言葉を宝物みたいに胸の中へしまった。

 あの春の日からずっと、彩人さんは私を見つけてくれていたのだ。

 私が気づかなかっただけで、こんなにも長い時間をかけて、やさしく、丁寧に。

 だったらもう、信じてもいいのかもしれない。

 こんな私でも、誰かにこんなふうに愛されていいのだと。




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