101 始まる前に
数日後。
花火大会を目前に控えた、ある日の午後。
蒼は大学のキャンパスを歩いていた。
夏休み中とはいえ、ちらほらと学生の姿はある。
強い日差しに照らされた校舎と、蝉の鳴き声。
その中を、ゆっくりと歩く。
(……暑いな)
そんなことを思いながら歩いていると̶̶
「蒼」
不意に、名前を呼ばれた。
振り返る。
そこには、愛菜が立っていた。
黒髪のボブ。
落ち着いた雰囲気。
見慣れているはずなのに、どこか少しだけ距離を感じる。
「……愛菜」
蒼は少しだけ驚いたように言う。
「どうした?」
愛菜は一歩、近づいた。
「ちょっと、用事あって大学来てた」
「蒼も?」
「ああ、まあちょっとな」
短い会話。
少しだけ、沈黙が落ちる。
夏の音だけが、二人の間を埋めていく。
やがて、愛菜が静かに口を開いた。
「……花火大会」
蒼が視線を向ける。
「……凛ちゃんと行くんでしょ?」
不意の言葉。
蒼は一瞬、驚いたように目を見開く。
「……なんで知ってんだよ」
愛菜は少しだけ目を伏せる。
「凛ちゃんから聞いた」
その一言で、蒼はすぐに理解する。
(……あのときか)
あの会話の続きが、頭に浮かぶ。
蒼は少しだけ視線を逸らす。
「……まあ、そうだけど」
短く答える。
愛菜は小さく頷いた。
「そっか」
その声は、どこか落ち着いていた。
けれど̶̶
完全に平静というわけでもない。
ほんの少しだけ、揺れている。
そして、続ける。
「ねえ、蒼」
蒼が顔を上げる。
「花火大会の前にさ」
言葉を選ぶように。
「少し、時間もらえる?」
その声は、さっきよりもはっきりと真剣だった。
蒼は一瞬だけ、表情を固める。
(……来たか)
なんとなく、分かっていた。
でも、実際に言われると̶̶
胸の奥が、少しだけ重くなる。
蒼は小さく息を吐く。
「……いいよ」
愛菜は、ほっとしたように小さく頷いた。
「ありがとう」
それだけ言って、少しだけ視線を逸らす。
また、沈黙。
けれどさっきとは違う。
何かを抱えた沈黙。
蒼はその空気を感じながら、ゆっくりと口を開く。
「いつにする?」
愛菜は少し考えてから答える。
「花火大会の日」
「始まる前に」
蒼は頷く。
「分かった」
短い約束。
けれど、その重さは十分すぎるほど伝わっていた。
愛菜は小さく笑う。
「じゃあ、また連絡するね」
「おう」
それだけ言って、愛菜は背を向けた。
数歩歩いてから、ふと立ち止まる。
少しだけ空を見上げる。
そして̶̶
何も言わずに、そのまま歩き出した。
蒼はその背中を見つめる。
(……なんだよ、それ)
胸の奥が、じわっと締め付けられる。
まだ何も始まっていないのに。
もう、終わりに向かっているような。
そんな感覚だった。
蝉の声が、やけに大きく響いていた。




